スープを焦がしてしまった。
  一生懸命レシピどおりに作ったはずが、鍋の底でオニオンがくっついて焦げ臭くなってしまった。
  こんなスープをメフィストフェレスに出したら叱られるだけではすまないぞ。そう思って、思わずわたしは鍋を隠してしまった。
  馬鹿なわたし。スープを隠したところで新しいスープが出てくるわけでもないのに。

「で? この床にあるスープはあなたの餌ですか?」
  床……というよりキッチンの隅に追いやってあったスープを足の先で軽く小突きながら、メフィストフェレスはそう言った。
  思わず身が縮こまる。足がすくんだ。
「え、え、はい。わたしの餌なんです。これからメフィストさんのスープはちゃんと作ろうと思っていて」
「鍋いっぱいに焦げたスープを自前の餌にこしらえたわけですね」
「はい!」
「力強い返事です。それで、もう何刻経ったと思ってるんです?」
  メフィストフェレスは端正な美顔をにこやかに歪めて、静かに血も凍るような声でそう言ってきた。
「スープ一つまともにこしらえられない付き人なんて、まったくの無能以下ですね」
  ああ、薪にされる。わたしがスープにされる。
  歯がかちかち鳴り出しそうだったから思わず指を強く握って痛みで耐えた。
「ミッフィー」
  愛称で呼ばれているのにこれはお叱りをうけるときの声だとわかっていた。
  殴られる、殴られる、殴られるぞ。
  いつ頭を防御するべきだろう。いいや、防御したらもっと怒りを逆なでして蹴られるかもしれない。
  ごはんを一晩二晩抜かれるかもしれない、服を奪われるかもしれない、動物虐待されるかもしれない、変な生物相手に回されるかもしれない。何されるかわからないぞ、だって彼は悪魔なのだから。
「メフィストさん、殴ってください!」
「は?」
  思わず自分から自虐を口走ったわたしを、メフィストフェレスは意外そうな目で見て、「嗚呼」と呟いた。
「歯ぁくいしばれ、ミッフィー」
「はい!」
  思い切り舌を噛み切るんじゃないかというくらい歯を食いしばったところで、メフィストフェレスはうさぎの耳をぎゅっと引っ張ってきた。
「餌を床に置くんじゃありません。あと焦がしたらすぐに鍋を洗うんです」
「ぴゃー!」
  あまりの緊張で思わず耳を掴まれた瞬間、キッチンの端まで金貨が転がっていった。
  その金貨などまったく価値のないものだとばかりにメフィストフェレスは目を細める。
「あなたときたら、『ぴゃ』『ぴゃ〜』『ぴゃっ!』ぐらいしか感情表現ないんですか。まったくつまらないですね。意思表示したらどうなんですか」
「あ、あ、あ、……」
「なんですか。金貨転がせば許してくれるどこかの人間たちとは違うんですよ。床にものを置かない!」
「はい!」
「あと殴ってくださいとか言うと次から本当に折檻ですよ」
「わかりました折檻ですね!」
「期待の眼差しを向けないでください。ああもう」
  メフィストフェレスはこちらを金色の目で見ている。馬鹿みたいに震えている私をじっと見つめている。
「殴られたんですね? 昔」
「いっぱい」
「だからスープを焦がしてまた殴られると思ったわけですか。はあ」
「はい……」
  だばだばと涙が溢れるかわりに金貨がそこかしこに散った。
  耳をつかんだままのメフィストフェレスは、その耳を興味を失ったかのように手放して、馬鹿馬鹿しいとばかりに踵を返した。
「仕方がないから今日もまた外食ですね」
「ごめんなさい。今金貨拾っていきますので」
「あなたのその無駄に散らばる金貨なんかに価値を置いてると思うのですか? 本当にくだらない」
  メフィストフェレスは入り口にかかっている外套に手をかけて、手袋を指にはめた。
  わたしがのろのろと金貨を拾っているのを振り返ったのがわかったので、急いで拾い上げたら立ち上がるときに落とした。
「ミッフィー、金貨は置いておきなさい」
「はい」
  わたしって役立たずだなと思ってため息をついて床に金貨を置いた。
「メフィストフェレスさん……」
  メフィストフェレスはわたしのぐだぐだには付き合いたくないぞという表情でこちらを見ている。
「金貨に価値のないわたしは何に価値を見出せばいいのでしょうか」
  心底イラッとした表情をしたメフィストフェレスは、一呼吸置いて
「それは自分で考えなさい。あなたは何によってわたしの役に立ちたいのか」
  初めて考える自由が与えられた。
「行きますよ、ミッフィー」
  先に廊下を歩き出したメフィストフェレスの後ろをただただ静かについていった。
「歩きながら考えられる二本の足は素敵ですね。人間は床に座って愛だの何だのが足りないと不平しか言いませんが」
  メフィストフェレスは優雅に扉をくぐっていった。
  わたしはこの悪魔のために何ができるのだろうか。というより、わたしが何かできるとも、何かを考えていいとも、自由を与えられるとも、役目を与えられるとも、思っていなかったのだ。
  時間がかかりそうだなと思いながら、歩きながら考えるマスターにただただ静かについていった。

 

 

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