8.Reckless love of brave sword -勇敢な剣の無謀な愛- sideミコト
濃密な霧があたりに立ち込めている。
白い霧が晴れる合間合間あに、白く塗り固められた壁が見えた。
幾度となく苦しめられた迷宮。
ローレンスがついている。大丈夫だ。
環は自分に言い聞かせた。それでも足がすくむのがわかった。
ゴウゥゥゥ……
遠くから獣の吠え猛る声が聞こえる。
足ががくがくした。足元を見れば霧が床を隠している。この中を走るのがどんなに大変なことか、環はよく知っている。
ゴウゥゥゥ……
雄叫びがまた聞こえてきた。
環は急いでその雄叫びから離れようと走りだす。
地鳴りのような足音が近づいてくる。
環はあちこち行き止まりの迷路を必死で走った。
「はぁはぁ……」
夢の中のはずなのに、疲れるところだけはいつもと同じなのだから、とても皮肉なものだ。
ローレンスがいつ現れるとは聞いていなかった。指輪の使い方もまだよくわかっていない。
指にはめたリングを撫でた。
(守ってくれるんだよな……? ローレンス)
次の角を曲がろうとしたとき、ついさっきまで遠くで聞こえていたはずの地鳴りが近づいてきていることに気づいた。
「嘘だろ?」
目の前に、上半身が水牛、下半身が毛むくじゃらの獣の姿をした、斧を持った化け物が姿を表した。
フー、フー、と荒々しい鼻息がかかってくる距離だ。
逃げなきゃ――。
わかっているのに走り出せない。
ミノタウロスが斧を振り上げた。避けなければ死ぬとわかっているのにそれを冷静に見上げたまま足が動かない自分がいた。
ゴウ――
斧は環の間近で止まった。
いや、正確にいは、環の前に細い剣が現れ、環への攻撃を塞いだ。
ミノタウロスはか弱い小剣が自分の斧を防いだことにびっくりしたようで、思わず数歩たじろいた。
風が集まる――。
霧が濃くなったと思ったら、突風が吹いて霧が晴れた。
目の前に立ちはだかっているのは紛れもなく、ローレンスだ。
「ロー……」
「環、もう少し奥へ」
研ぎ澄まされた声に今の状況を思い出し、環は数歩後ろに下がった。
「古の魔獣よ、環に手を出すと言うのならば俺が相手になろう」
ミノタウロスは鼻息を荒くして今にもローレンスに斬りかかりそうだった。
細いローレンスと巨体のミノタウロスを見れば、どちらのほうが優位なのかは一目瞭然だった。
グルルルルルル……
威嚇するように唸るミノタウロスに怯える様子もなく、ローレンスは環の前から後じさりもせずに立ち構えている。
逃げてほしいと思いと、救ってほしいと感じる気持ち。
いや、ローレンスを信じよう。
環はパジャマを握りしめて、じっとローレンスの背中を見つめた。
「これはこれは」
どこかで聞いたことのある声がした。
突如ミノタウロスが武器を床に置き跪き、ミノタウロスの背後から図書館をよく歩いてるチンピラが姿を現す。ただし、今日はいつもと違う格好で。黒いスーツ姿だ。
あのカボチャは自分のことを悪魔だと名乗っていた。まさかと思っていたが、この空間はもしかして彼の罠だったのか?
「ローレンス、夢の中は君の領域ではなかたはずだが?」
夢魔は顎に手をやり、ローレンスを見上げるように聞いた。
「シャルアンティレーゼ様にご助力いただいたのですよ。ここがあなたの領域だというのならばありがたいことです、ここから出していただけますね?」
「友人の魔法具の頼みでもそれは聞けないな。君の後ろに隠れている小僧は、悪魔の書物を勝手に越権しようとした覗き魔だ」
「あれは、覗きたくて覗いたわけじゃあない!」
「もっとまともな言い訳は思いつかないのか?」
夢魔に睨まれて、環はもう少しまともな言い方を考えるべきだったと心中思ったが、それはなんだか癪な気もした。
あれが悪魔の書物だとわかってて手にかけたわけではない。
「シャルアンティレーゼ様のご友人とはいえ、環に危害を与えようとするならば容赦はしません」
ローレンスの声は起伏がなかったが、それが意図している内容が夢魔にはよくわかったようだ。
「つまり、わたしを倒してでもここを出て行くと言いたいわけだね? ローレンス」
夢魔はおかしそうにくつくつと笑った。
「人間が作った魔法具の分際で、悪魔に勝とうと言うのだからちゃんちゃらおかしいね」
夢魔は後ろをちらりと振り返り、背後に控えていたミノタウロスにぴりぴりとした音声で何か語りかけた。
ミノタウロスが斧を持ってのそりと動き出す。
「じゃあ、こうしよう。魔法具がこいつを滅ぼすことができたのなら出してやってもいい」
夢魔が顎でしゃくったミノタウロスは、命令を仰せつかったとばかりに斧を強く握りしめて斬りかからんと構えている。
夢魔が空中に浮上して、ラビリンスの上から物見遊山の体制に入った。
「魔法具。小僧を置いて退散してもいいんだぞ?」
ふっとローレンスが笑う気配がした。
こちらをローレンスが振り返る。心配しないでという顔で。
もう一度ローレンスは頭上の夢魔を見上げた。
「ご冗談を。主を守るのが道具の努めです」
「ならば道具らしく最後は壊れるんだな」
夢魔の言葉を戦いの合図ととったらしい。ミノタウロスは大きく吠え猛ると、こちらに斧を振り上げて突進してきた。
頭上から何かが雨のように降ってきて。自分を守るように突き刺さった。
それは細い剣だった。
ローレンスは一番端にある剣を引き抜くと、躍りかかるミノタウロスめがけて走りだした。
ミノタウロスが斧を振り下ろす――
石床がめくれるほどの一撃を避けて、その腕の上へとローレンスは飛び乗った。
腕に飛び乗ったローレンスを振り落とそうともう一方の手を振り上げたミノタウロスの片腕が後ろへと飛んでいった。
大きく獣の悲鳴がラビリンスに響く。
まるでハムを切るみたいに容易にミノタウロスの腕を切り裂いたローレンスは、ミノタウロスの背後に着地した。
ミノタウロスは赤い目を憎しみに輝かせて、ローレンスを振り返る。
ローレンスは大丈夫だろうかと環は少し心配になった。今のところ確実に優勢なのはローレンスだ。それでも素直に勝てるとは思わなかった。ここは悪魔の領域だ。
(信じなきゃ……)
固唾を飲み込んで、せめて邪魔にならないように隅の方へと体を寄せた。
ミノタウロスは片腕がない状態で、斧を持ち上げ直し、ローレンスと対峙した。
今度はローレンスのほうから動き出す。小剣を心臓めがけて突き上げ――ミノタウロスはそれを弾きもせずに受け止めた。
剣が抜けない状態のローレンスめがけて斧を振り下ろす。
「危ない!」
環の声を聞いてか反射的にか、ローレンスは剣を手放して、斧を紙一重のところで避けた。
ミノタウロスはたった今、声を発した環のほうをぐるりと見た。
環はこちらに興味が向いたミノタウロスにびくりと体が反応した。
逃げなきゃ
逃げなきゃ
逃げなきゃ……
ミノタウロスがこちらに向かって斧を振りかぶってくる。
ローレンスが駆け出したところで間に合わないだろう。
次の瞬間、迷宮が真っ白になるほどのまばゆい光があたりを包んだ。
環は眩しさに目を閉じたが、ゆっくりと開いた。
ラビリンスの一部が、平面になっていた。
向こうのほうで壊れたところがあるところを見ると、この一角だけ破壊されたようだと感じる。
一体誰が……?
「ラビリンスの修復が一瞬とはいえ、随分派手にやってくれたな、魔法具」
夢魔の声に、これがローレンスのやったことなのだと知り、環はローレンスを見た。
膝をついているローレンスは、明らかに疲労困憊の様子だった。
まるで魔力が切れたときの彼のように。
「ふらふらじゃあないか。まああれだけ魔力を放出すれば動けなくなっても仕方があるまい。後先考えずに行動するのは勧めないがね、それだけ守りたかったってことか?」
揶揄するような夢魔の言葉は無視して、環は剣をかき分けるとローレンスに近づいた。
ローレンスは環の胸に倒れこむと、荒々しい呼吸とともに体重を預けてきた。
「ローレンス、大丈夫か?」
もしシャルアンティレーゼにもらった魔力をほとんど放出したのだとしたら、ローレンスはしばらく動けないはずだ。
背後に誰かが立った気配がして、環はゆっくりと振り返る。
黒いスーツを着た赤毛の悪魔が、嫌味ったらしい笑顔でこちらを見下ろしてきている。
「約束どおり家に返してやるよ。あとはその魔法具に魔力でも与えてやるんだな。でないとそいつはただの鉄くずといっしょだ」
「ローレンスを馬鹿にするのは許さない」
「威勢がいいのは構わないが、主は守られるのが役目なんだろう? 返してやるよ、もう二度と来るな。ラビリンスの修復は面倒なんだ」
悪魔に何か反論してやろうと思ったのに、彼が指を鳴らしたと同時に世界が闇に落ちた。
パチン。
と指の鳴る音がして、次に目が覚めたときは自宅のベッドの上にローレンスと転がっていた。
←戻る
|