02
裁判部の部室は寒い。暖房を効かせてもあまり暖まらないらしく、部員はみな厚着をしていた。
「今日は部長来ないのかしら?」
部室の中に河野の姿がないのを確かめて海馬が松山に聞いた。
「いえ、部長は……」
松山の表情があまりに暗いので、空乃が一言こう言った。
「死んだんですねぇ、部長」
「いえ! いえ! 勝手に殺さないでください。生きています」
「じゃあなんで部室に来ないのよ?」
「陸、河野先輩は受験生だから勉強しているんじゃないのか」
「ありえないわよ。あの部長に限って」
森下の言葉に陸が首を振る。松山は静かに鞄の中から、封筒を取り出した。
「河野さんから預かってきました」
「遺書ですねぇ」
「殺さないでください、空乃さん」
戸浪が封筒を切ると、中身を読み始めた。
「しばらく身を隠します。探さないでください。いきなりのことに皆様にはご迷惑をおかけしてしまい、まことに申し訳ないと思っています。冷凍庫のハーゲンダッツはみなさまにおすそ分けいたします。どうぞ美味しくめしあがってください」
身投げでもするのではないかという文章に場の緊張が高まる。「おすそ分けいたします」の部分に便箋も透けるような大粒の涙の痕が残っているのが妙にリアルだった。
「なぜこんなことを? と思う方もいると思いますが、私も辛いんです。なぜなら次の部長候補を決めなければならないからです。私は密かに部長に向いていると思う人がいます。ただし今は言えません。しばらく考える時間をください。それではみなさんお元気で。かしこ」
読み上げたところでしん、となった。
「部長は次の部長を誰にするかで悩んでいたんですねぇ」
「でも本当に大問題ですよ。なんせ二年生は問題児ばかりだし」
「五十嵐、どういうこと?」
本当のことを言った五十嵐に陸が睨みをきかせる。
「みゅ〜は裁判長になって木槌を振り回したいです」
「空乃、木槌は振り回すんじゃなく振り下ろすんだよ」
「森下くんは部長になってみたいですかぁ?」
「いや特には。僕責任感とかあるほうじゃあないし」
森下が嫌だと首を振った。
「海馬くんはどうですかぁ?」
「アタシは副部長になって陰から裁判部を支配してみたいわ」
「じゃあ、海馬くんは副部長決定と。それに異存はないですね?」
戸浪がノートに「副部長 海馬白雪」と書き込んだ。
「戸浪は部長やってみたいか?」
森下の質問に戸浪は特に嫌がる様子もなく、「誰もやる人がいなければ」と答えた。
「ちょっと森下、裁判長ってけっこう大変なのよ? 誰もやる人がいないなら戸浪に任せちゃおうって発想よくないわよ」
「別に戸浪に押し付けるなんて言ってないだろ。戸浪の希望を聞いていただけだって」
「どうだか。面倒なことは全部戸浪にやらせようって考えよくないからね」
「じゃあ陸が裁判長やるっての? 全部に有罪って言いそうじゃあないか」
森下の反論に陸が黙り込んだ。たしかに裁判部の二年生の中に部長の器になれそうな人間は誰もいないのだ。
「とりあえず、各々誰が部長に向いているか考えておいてください」
松山にそう言われて、今日の活動は終わりとなった。
森下は自宅の前の電信柱の影に井上がまた隠れていることに気づくと舌打ちをしてから家に入った。今日は月曜日である、戸浪がくる日だ。
自室のパソコンに電源をいれると、メールのチェック、市場の流れのチェック、お気に入りのブログめぐりをして、それが終わったら鞄の中からノートと参考書を取り出して勉強開始である。森下は大学に行くつもりがない。行くとしても、夜間か通信にしようと思っている。だからそこまで熱心に勉強しなくてもいいのだが、それでも勉強をするのは中学時代からの習慣のようなものだ。
パソコンをいじるか勉強するかしか脳がないなんて、自分は地味な人間だな、と思いながら、森下はコーラのペットボトルを口に運びつつ勉強をしていた。
しばらくして、扉をノックする音が聞こえる。振り返ると戸浪が部屋に入ってきた。
「おつかれ。一階の掃除終わったんだ」
「あとは透くんの部屋の掃除を終えれば全部完了です」
「食材とかは?」
「野菜とか買っておいてもどうせ食べないんでしょう。お惣菜をいくつか買ってきましたから、たまには食べてください」
「食べてるよ」
「嘘ですね」
戸浪はあっさりとそう言うと、箒で部屋の中を掃きはじめた。部屋の中のゴミとまとめて一階に持って行くのかと思いきや、なかなか部屋から出ていかない。
「どうしたんだよ?」
「さっき井上さんから変な話を聞きました」
「あの子が異常な話以外するところ、僕は見たことないけど?」
「鈴木くんが撫原くんと会っているという情報です」
その言葉に、森下の眉が神経質に反応した。
「だから?」
「撫原くんはまた何か企んでいるんじゃあないでしょうか」
「そうかもね。甲斐や戸浪が巻き込まれたのは本当腹が立つけれどもさ、でももう終わった話だろ? 鈴木北斗がそれに巻き込まれていようがいまいが、僕たちとは関係のない話だ」
森下が椅子をくるりと回してまた勉強を始めようとしたのを見て、戸浪が聞いた。
「それでいいんですか? 透くんだって面白くないんじゃあないですか?」
「だとしてもだね、戸浪。僕にはどうしようもない問題だよ」
「本当にそうでしょうか?」
「何が言いたいわけ?」
「透くんだけですよ。どうしようもない問題をどうにかできるくらいの頭脳ある人」
「嘘嘘。僕にそんな能力あったら僕が空乃にいじめられることもなければ、陸にいびられることもない。甲斐の甘党も直せるし探偵部の部長の髪型をまともにすることだってできる。姉さんが八月朔日先輩にとられて悔しい思いをすることもなかっただろう」
「まあ旧生徒会長の甘党や聖先輩が八月朔日先輩とイタリアに航ってしまったことについては透くんの不可抗力かもしれませんが……透くんはやろうと思えば全部自分の手中で動かすくらいのことできるでしょう」
「買いかぶりすぎだよ、戸浪」
森下が困ったように眉をしかめた。
「戸浪はさ、撫原に一泡吹かせてやりたいんだよね。だけどそれをやるとして、まず鈴木と撫原が今コンタクトをとっている裏取りをしたうえに、鈴木の口でそれを認めさせなきゃいけない。鈴木を無罪にしながら撫原の悪事をあばいて、そして二度とこっちに手出しができないようにするだって? その手間暇考えてごらんよ。僕は微分積分の問題を百問解かされることのほうを選ぶね」
「微分積分の問題を百問なんて、透くんにとっちゃ簡単すぎるじゃあないですか」
「言葉のあやだよ。ともかく僕はそういう面倒なことはやりたくないわけ、一切やりたくない、一切だ」
森下は念押しをしてからまた勉強に戻った。戸浪はため息をついてからゴミ袋を持ったまま下に下りた。
一階のカン・ビン置き場にはコーラの缶とサプリの瓶が大量に転がっている。森下はほうっておくとコーラとサプリしか摂取しない。目の前で誰かが見ているとちゃんと食事もとるが、食事をするのが面倒だと感じるようだ。
彼ほど色々なことができる高校生も珍しいが、逆に彼ほど身の回りのことがまったくできない高校生も珍しい。
彼は興味のある分野はなんだって開拓するが、興味がない、必要がないと感じたものはとことん手を抜くのだ。
高校を卒業したあとは運動どころか外出もせずに、全部を通販ですませる不精な生活が目に見えていた。姉の聖がそんな弟をひとり残して父のいるイタリアに行くのをためらったのはわかる気がする。だからこそ、戸浪はこの世話のかかる友人の面倒を見ているのだ。
森下にとって撫原のことは興味のないことに分類されるのだろうか。じゃあ自分は? そんな疑問が頭の中にふっと湧いた。
「東雲高校の生徒諸君! この学校の生徒会長は腐敗している!」
西園寺は正門の前でメガホンを構えて鈴木の腐敗を訴え続けた。しかし生徒たちはくすくすと笑いながら目の前を素通りしていくだけだった。
「西園寺くーん、またアイコラ楽しみにしているよ!」
「馬鹿もん! 今はアイコラどころじゃないんじゃー! 鈴木が学校の金を押領しようとしているんだぞ。わかってるのか、コラ!」
苛々としながらメガホンにめがけて怒鳴る。ぜーはーと肩で息をしてから舌打ちをした。
「くそ、どうすれば鈴木馬鹿生徒会長がやろうとしている愚行を止められるんだ」
「西園寺くん」
後ろから呼びかけられて振り返りざまに睨みつけると、そこには井上が立っていた。
「鈴木くんのスキャンダルを訴えようとがんばっているんだよね?」
「だー! このおにゃんこ女が、お前が関わると碌なことが起こらん。あっち行け!」
「そんなこと言っていいのかな? 園子鈴木くんのすっごいスキャンダル掴んできたのに」
「は? お前の言う鈴木のスキャンダルなんぞ、加藤とのべたべたした関係だろうが。そんなのスキャンダルになるものか」
「違うってば。鈴木くん、浮気してるんです」
「なぬ!? 飯島の奴、ついに浮気されたか。ざまーみやがれ! あのすました女っ!」
あっちへ行けと言いながらすごい勢いで話題に食いついてきた西園寺に井上は写真を見せた。
「じゃーん、これ……なんでしょう?」
西園寺は見せられた写真を見てがっかりした。そこに写っているのが男だったからだ。
「またお前のゴシップか。くそっ、騙された」
「すごいんだよ。鈴木くん、晴嵐高校のイケメン生徒会長と会っていたんだ。ここんところずっとだよ?」
「ふん、それがどうし……」
言いかけて、西園寺はその写真をがばっと見た。
「これは、晴嵐高校の生徒会長なのか?」
「正確には、旧生徒会長だけどね」
外交費特別予算の中には主な交友高校として晴嵐高校があげられていたはずである。
「ふ……ふふふふふ……」
西園寺は肩を震わせて笑った。
「鈴木の馬鹿め! 今すぐこのスキャンダルで生徒会長の椅子から引きずり下ろしてやるわっ!」
西園寺は写真を持ったまま裁判部へと大股で走った。
「裁判部ーっ!」
開きの悪い扉をびしゃっと一気に開けて、昼ごはんを食べていた山住を見つけるとつかつかと近寄った。
「訴訟だ! 鈴木を訴えるぞ」
西園寺の起こした訴訟はみるみるうちに学校中の話題になった。
あの品行方正な生徒会長のスキャンダルだ、食いつかないわけがない。
「それでは、今から生徒会汚職事件の検事と弁護士を決めたいと思います」
「河野部長はまだ復活しないんですか?」
現場の指揮をとる松山に陸が質問した。
「今回は部長に相応しい人間を考えるために静観の姿勢をとるそうです」
「となってくると……検事と弁護士を決めるよりも先に、裁判長を決めなきゃいけないんじゃあないかしら」
「そんなの部長が休みなら副部長がやればいいだろ」
海馬のもっともな言葉は森下の言葉によって一蹴された。
「僕はこの裁判、弁護側に回ろうかな。どうも検事ってのは向かないし」
「みゅーも北斗くんの味方ですぅ」
弁護側に森下と空乃が名乗りをあげた。
「アタシは今回鈴木くんが悪いと思うから検事側につくわ」
「私も森下といっしょなのは嫌だから検事側になる」
最後の陸の発言になんとなくかちんとくるものがあったが、裁判部四天王の意見は綺麗に真っ二つに割れた。