03
「こうなりゃ絶対に灯油持ち帰るわよ? あいつに屈してなるものですか」
「最後まで灯油を分けてくれなかった森下のクラスから灯油をぶん取るまで帰れないわ!」
もういい、二十人で金払うからと海馬のクラスからメールが来て、とうとう陸のクラスだけとなった。
「絶対に負けないからね森下! クラス二十九人が財布の紐を緩めても私が緩めないし絶対に払わせないから」
「それ営業妨害だよ、陸」
「陸さん、それは営業妨害です」
森下と戸浪から冷静なつっこみが入った。少々熱くなりすぎていた自分を反省して、何かアイディアはないものかと考えていた時だった。ぶつん、といきなり音がしたかと思ったら電気が落ちた。
「……雪の重みで電線が切れたみたいですね」
そんな外は大雪なのだろうか。ふと、陸は自分の手を誰かが握っていることに気づいた。強い力は篭っていなかったが、小刻みに震えている。
「森下、どうしたの?」
「陸。灯油あげるから手を離さないでいてくれる?」
懇願するような声で言われても、なよっちい声がいつも以上にひ弱に聞こえるだけである。
「陸さん、透くんは停電恐怖症なんですよ。いつも電子に囲まれて生活しているんで」
見えなかったが、証言台の上の裁判長席から戸浪の声がした。見上げたあとに、見下ろす。いや、見下した。
「あんたそんな女の子みたいなこと言ってるとひとりでお風呂も入れないじゃあない!」
「風呂の最中に停電なんて考えるだけで怖い!」
「ざまあないわね、森下。どうしようかしらー、手ぇ離しちゃおうかなー」
「陸様、お願いですから。手をお揉みいたしますので」
「気持ち悪い奴じゃのお。海馬、そいつほんに停電だめなんか?」
「さあ。中学のときまでは平気だったと思うけど……」
海馬や空乃の声が法廷の中で木霊する。森下の手が震えているのが伝わってきた。
「透くんは聖先輩のいた頃は平気でした。先輩がイタリアに留学してしまったのでひとり暮らしになってから寝るときも電気を消さないそうです」
「うわー、やっぱ不経済なことしていたんだ。どうせ常時接続な上に自宅サーバーつけて画面つけっぱなしでバックアップもろくすっぽとらない環境にいるんでしょう」
「だいたいそのとおりですね。バックアップは定期的にとっているみたいですが」
「よく調べているわね戸浪。あんた森下のストーカーができるわよ?」
「いえ。聖先輩から面倒頼まれているので……」
たぶん裁判部四天王よりも自分の古くから知っている戸浪のほうが頼りになると判断されたのであろう。この場面で戸浪以外誰も森下を助けてやろうと思っていないあたりがそれを如実に証明していた。
それにしても哀れなくらいに震えているので、陸は森下の頭を撫でた。
「大丈夫よ森下。手ぇ離したりしないから」
ぱっと電気がついた。
「復旧したみたいですね。電線は切れていなかったようです」
「ほら森下、いつまで手ぇ握っているのよ? 離しなさい」
ばしっと撫でていた頭を思い切りはたいたために、森下は頭を押さえるようにして縮こまった。
「……っこの寸胴!」
「あーら、電気がついた途端に大きな態度に出たじゃあない。本当に電線切れたとき知らないから」
陸が鼻で笑い飛ばした。木槌の音が鳴り響く。
「判決を言い渡します。森下透、有罪」
ここまで無罪の空気できていながらなぜ有罪なんだと放送部や広報部が不思議そうにどよめいたが、戸浪はしれっと言った。
「どう考えても灯油が五千円は不適切な値段です。透くんは既に45クラス中43クラスから五千円受け取っているのでもういいでしょう、罰はとりあえず停電ってことで。あとは灯油の値段を元に戻します。経済部は指値で七百円に設定してください。では、閉廷」
相変わらず淡々とした仕事だったが、誰もが納得する形で最後はまとまった。
差し押さえの札が全部剥がされた冷凍庫からハーゲンダッツを取り出して河野は上機嫌に食べていた。
「部費は二倍に膨れ上がるし、灯油はもとの価格に戻るし、戸浪はいい裁判長よねぇ!」
「いえ、自分は――」
「『普段どおり仕事をしたまでです』とか『それが裁判長です』とか言うんでしょう? たまには素直にありがとうって言えば? 戸浪も」
海馬に言われて少しだけ首を傾ける仕草をする戸浪はたぶん本当に仕事をただこなしただけとしか考えていないのだろう。
気付けに煙草を吸っている森下は、いつも以上に肌が白かった。きっと血の気が抜けていたのだろう。陸は思い出すようにして笑った。
「あんたの痴態集の301位と『せんせい僕お腹痛いんで保健室行ってきます』の次は『僕停電怖いんです。陸様手をお揉みしますから』ってどこまであんた転落してんの?」
「……寸胴」
「えーえー。どうせあんたのパスワードhave no waistでしょう。知ってますよー」
「…それ恨んでるわけ? けっこう根に持つタイプだな」
「私寸胴じゃあないもん」
「陸ちゃんは〜、着物を着るのにとても適した茶筒型寸胴ですよぉ」
「ちょっと空乃! どういうことよ」
「みゅーだってダイエットしているのに陸ちゃんはダイエットしないんですかぁ?」
「あんたいつだってコーラにケーキ食べているじゃあない。どこらへんがダイエットなのよ?」
「ダイエットコーラにケーキにはおから入れて食べてます〜」
食べる割には太らないと思っていたらそんな工夫がされていたのかと空乃の美に対する意識の高さに少しだけ感心した。
「そういえば森下、あんたひとりっきりが怖いのはわかるけど誰彼構わず家の鍵渡す癖やめなさいよね? アタシ以外に戸浪も持っているらしいじゃない」
海馬の言葉に森下は首を振る。
「いや、海馬にしか鍵は渡してないよ」
「あら、じゃあ戸浪いよいよ合鍵作るほどのストーカーに……」
「聖先輩から合鍵を貰っているんです。定期的に掃除にも行きますし、買い置きもすませておきます」
「戸浪にヘルパーやらせてんじゃあないわよ! 何様なのよ森下」
「いや、やんなくていいって言ってるんだけど、週に一回は来てやっていってくれるから……僕も珈琲と茶菓子を出している」
いよいよヘルパーとご老人の関係になっている戸浪と森下を五十嵐が盛大に笑い飛ばした。
「森下先輩! 戸浪先輩に恨まれるようなことすると寝首掻かれますよ」
「戸浪の恨みなら十分にもう買っているよ! 洗濯物は畳めとか食器は溜め込まずに洗えとか来るたびに言うからクリーニングに出して食器は使わずトレーから直に食べているよ」
「あんた本当に不経済な暮らししてるわね。本当に経済部だったの?」
海馬が呆れたように言うと、森下は不機嫌そうに煙草の火を携帯灰皿で消した。
「イタリアから定期的にくる仕送りでなんとかしているし、貯金も作ってる。これ以上文句つけられないくらい節約している」
「透くんは放っておくとコーラとサプリと煙草しか買いません」
「それ節約と言わずに不摂生って言うのよ! あんた高校はどうでもいいからイタリアへ帰れ!」
「僕は母の国籍だから日本人だよ。イタリアなんか行ったこともない」
「でも一応ハーフなんですよね……」
「「ハーフぅ!?」」
そこにいた、一年生を合わせた全員がびっくりしたように反応した。
山住が近づいてきて森下の顔をじろじろと見る。
「どうみても日本人そのもののような……」
「でも言われてみれば森下先輩って肌白いし身長高いですよねー」
太田もいっしょになってじろじろと見てきた。
「でも男のくせに喉ぼとけ全然ありませんね。どうしたらそんなボーイソプラノのままなんですか?」
「これはもう、ソプラノじゃあない。いちおう高さはメゾアルト」
「微妙ですね」
微妙という言葉は日本じゃああまりいい意味合いでは使われない。五十嵐に指摘されて森下はぶすっとした顔をしている。海馬が笑いながら言った。
「こいつが十四のとき初めて煙草を吸い始めたからどうしたの? って聞いたら『僕だけ変声期がこないみたいなんだ』って言ったのよ。こいつのメゾアルトは目覚しいヘビースモークの努力によってなされたものなんだから、放っておいたらずっとソプラノだったわよ」
「海馬くんの声は見事なくらい野太い声なのにね〜」
「空乃アタシがアヤヤ歌ったのまだ根に持っているの!?」
色々と根に持ったり根に持たれたりしている二年生を見ながら松山は河野に言った。
「雪、本当に吹雪いているね」
「この調子だと帰られないまま全生徒校舎で寝るんじゃあないかしら。学校の電気って何時以降消えるんだっけ? 森下大丈夫なの?」
「勘弁してください。戸浪に寝首掻かれます」
「掻きません」
夜に差し掛かる頃には、やっと下校できるようになって、暗い道を歩きながら全員が下校した。
翌日は晴天で普段のように暖かく、雪は一瞬にして融けた。
雪の吹雪く日の一日だけの物価高騰事件はこうして幕を閉じるのである。
(了)