02
そうして始まった裁判は、学校で最重視される視聴率70%を超える大スクープとなったのだ。
猫背の裁判長戸浪が裁判長の席に座ると、裁判は開かれた。
「では民事訴訟、東雲高校灯油問題をはじめます。原告陸さやか、サポート海馬白雪。被告森下透、サポート空乃綺です」
シャッターがばちばちと切られた。
最近森下被告席多くないか? とか言われながら。しかし、森下は上機嫌に席に座っている。
「なんじゃい森下、われぁちょいと態度でかすぎるぞ」
「これを狙っていたんだよ、空乃。いいか? 株ってのは基本的に需要と重要度が高いほど高くなるんだ。需要は十分すぎるほどある、注目度は高いが灯油は誰が持っているか知っているのは経済部の連中だけだ。あっという間に広める方法は? 裁判でも起こして放送部を動かすことだよ」
「相変わらずやることがこすいのぉ」
「灯油はただで60リットルやるから絶対この裁判勝て。勝てば灯油は六千円でも売れる」
小さな声で喋っているつもりでも、透明度の高い森下の声は寒い空気の中よく透る。
陸が忌々しげに睨みつけた。海馬が耳打ちする。
「あいつ、陸が絶対に訴訟起こすの知っていて先に空乃を手配したわね」
「被告が海馬と森下だったら誰も味方しないからね」
「ちょっと! アタシのクラスだって灯油ないのにどういう意味?」
「そういう意味よ。つまり、森下は味方がほしかったってこと、私たち外されたのよ。ぎゃふんと言わせてやりましょう」
陸と海馬がめずらしく握手を交わした。戸浪が木槌を鳴らすと、裁判が始まった。
「まずことのあらましを……五十嵐くん」
「森下先輩が灯油をがじめて五千円で売っています。以上」
いつもはおしゃべりな五十嵐も寒いせいかいつもより手短に終わらせた。
「冒頭弁論。海馬くん」
「ナンセンスよ! 森下、あんたアタシにも灯油を分けないってどういうつもり? アタシたち左遷もいっしょに経験したマブダチでしょっ」
「原告側は同情に訴えかける真似はせずに正々堂々と戦いましょう」
戸浪は森下とは別のクラスだったが、ふつうに戸浪が自腹を切って五千円出して灯油を買ったらしい。木槌を振るう手が震えていなかったのがその証拠である。
そのとき戸浪の携帯が震動した。
「失礼」と手短に言うと戸浪は携帯をチェックする。千早からのメールである。
――戸浪くんが有罪って言ってくれると私とても助かるんだけどな。
と書いてあった。
「千早さん、そういうことはメールしないでください」
「はーい」
傍聴席の一番前でミニヒーターをつけている千早が渋々頷いた。その会話を聞きながら海馬が陸に聞いた。
「千早の奴、何メールしたのかしら?」
「どうせこの裁判有罪にしてくれとかそんなこと言ったんでしょう。戸浪に色仕掛けが通じるものですか。実力で勝つわよ」
「色仕掛け……戸浪には通じないけれど森下にはどうかしら?」
「それ使いましょう。証言台に秋野千早を召喚したいと思います!」
千早が腰掛けるのを見て、空乃が森下に言った。
「ありゃあ絶対色仕掛けじゃな。根気負けするなよ?」
「まず秋野さんのクラスは今どんな状態ですか?」
陸が淡々と千早に聞いた。
「とても、寒いの。灯油がないと死んじゃう」
「灯油買ってください。ピクルスちゃん」
涼しく笑いながら森下は言った。しかし仮面生活ならば千早も森下の比ではない。千早は涙をぽろぽろと流して女優のように訴えかけてきた。
「だって、だって、手がかたかた鳴って爪折れちゃったの」
「灯油買ってください。ピクルスちゃん」
食べ物の名前で呼んでほしいとは言ったが、ピクルスとか酸っぱいものに喩えられる覚えはない。いつでも微妙な食べ物をチョイスしてくる森下に千早は最後の手段に出た。
「森下くん……寒い」
ぽっと、周囲が暑くなるような上気した色っぽい表情を見せる千早に、森下はにっこり笑って言った。
「君ならば五千円どころか一万円だって出せるだろ?」
「今日ひったくりにあったのよ! お財布今日に限って空なの」
「……透くん、千早さんのクラスに灯油を20リットルほど譲っていただけますか?」
「戸浪がもう五千円出すなら」
「千早さん、お給料日に自分に返してくれるなら五千円出しますがどうしますか?」
「はい、出しまーす。戸浪くんありがとう! あいしてる」
あっさりと証言台から千早は降りると自分のクラスへと走って帰っていった。海馬がぎりりと歯を食いしばる。
「戸浪が先に色仕掛けに落ちたわ」
「いや、戸浪のことだからひったくりのほうに同情したのよ。あんな女になびくはずがないでしょ! 戸浪よ戸浪。あいつが絶対に自分の都合で裁判をひっくり返すなんてことありえないんだから。だから自腹切って灯油代出してんのよ、馬鹿正直に森下の馬鹿に一万円も払っちゃって」
「あいつ本当に融通きかないわよねえ。河野先輩みたいに部長権限で灯油貰えばよかったのに。それにしても、千早さんがもうちょっと頑張ってくれれば戸浪を篭絡して有罪にできたかもしれないのに」
「あれが限界よ。誰かあんな色っぽい仕草できる? 小指から動作入ってたわよ」
細かいところまでチェックしていた陸が千早の真似をして耳を掻き上げた。すると向こうの席に座っていたふたりが同時に「ぷっ」と笑ったのだ。
「ファック!」
「落ち着きなさいよ陸! そんな汚い言葉使う弁護士なんていないわよ」
しかし時すでに遅しと広報部が裁判部言葉の乱れとメモを取る。どんなに味方しようが敵に回そうが、ゴシップになりそうなネタは全部拾い上げるのが広報部だ。
「原告側、誹謗中傷は謹んでください」
「ほら陸、私情は挟まずに淡々とクールにいきましょう」
「OK。私今最高にクール」
絶対に怒っているのが一目で分かる陸が立ち上がると森下を指差した。
「被告森下にどうして灯油をがじめているか聞きましょうか!」
「森下くん、証言台に上がってください」
森下は持ち前のポーカーフェイスで言った。
「僕は自分がたまたま指値で一万円と指定した金額が、ちょっと高すぎたかなあと思って知り合いには五千円で売ることにしただけです。だって今日こんなに寒いし、みんなも灯油が高いと困るでしょう?」
「誰が灯油なんかに一万円も出すもんですか! 普通七百円が相場でしょうに」
「異議ありじゃ。原告側は灯油の重要性をまだ知っておらんようじゃの。森下、説明してやれ」
「今灯油の需要は高まっているし軽くバブルの状態だね」
「円安じゃ。対ユーロもすごいことになっておる。というわけで、一万円は妥当な金額であって五千円は破格の値段であることを被告側は主張する」
詭弁だ。どう考えてもそんな金額はおかしいと誰もが思うようなことをふたりはしらじらしく主張してきた。陸は冷静につっこんだ。
「灯油はガソリンスタンドで買えば六百円で買えるところもあるのよ。さすがにそんなに安くないにしても、五千円の灯油を誰が買ったか言ってごらんなさいよ! 戸浪以外に」
「意外と東雲高校に来ている奴なら買う奴いるんだよね。飯島さんと加藤くんと西園寺くんは自腹で買ったし、他のクラスもいくつかひとり二百円ずつ負担して多めな六千円払ってくれたところもあったよ」
「このとおり、灯油は全員で使うもんじゃ。ひとりが負担すれば五千円でも全員で負担すればたったの二百円じゃ。コエンザイムジュース一本の値段なんぞ安いもんじゃろ」
空乃に言われて二百円くらいだったら、というクラスが幾つか森下の携帯にメールした。
その場で成立したところから売れていく。陸がこの宣伝文句にぎりりと歯噛みした。
「空乃の奴……自分も一万円稼げるチャンスだからぬかりないわね」
「それにしても寒いなあ……みなさん法廷って寒くありませんか?」
森下がわざとらしく放送部に声をかけた。
「灯油いれましょうか? もちろんただで」
「森下ぁ、汚い手使いやがってぇ!」
凍えていた傍聴席の人たちがぱちぱちと拍手する中、ストーブがぱちぱちと音を立てて裁判は再スタートした。陸が続けて発言する。
「どう考えても、灯油の値段が五千円なのはおかしいです。飯島さんたちの家は裕福なのでわからないかもしれませんが、ふつう高校生は何万円も持ち合わせていません。鈴木くんを召喚したいと思います」
いきなり放送で呼ばれて、勉強中だった鈴木は授業の合間に少しだけ顔を覗かせた。
「陸先輩。次の授業絶対ノートとりたいので手短にお願いします」
「あなたの家で灯油20リットルに千円出しますか?」
「たぶん出さないと思うな。厚着すれば意外とあったかかったりするし、ホッカイロって手もあるし」
ホッカイロ、ホッカイロがあったと今度は一気にホッカイロの需要が高まった。空乃が負けじと主張した。
「異議ありじゃ。ホッカイロを買う値段は三百円するが灯油は全員が負担すれば二百円じゃ」
「たしかに全員が負担すればそうかもね。ひとり負担しなければ幾らずつ増えていくのかしら? ホッカイロを手に入れた人が十人いたとするならば二十人で五千円負担だから……」
「だから?」
森下が満面の笑顔で聞いてきた。
「……二五〇円」
「つまり二十人で負担してもホッカイロ一個の値段より安いわけじゃ。それにホッカイロは購買部にある数せいぜい三十個。一五〇〇人いる生徒全員のうち三十人限定とはえっと競争率が高そうですなあ」
外は乱舞吹雪で早退できそうもなかった。
煌々と明るい法廷の中で空乃の饒舌ぶりは絶好調だった。
どんどん森下の携帯に買いますというコールが来て、灯油を買ってないクラスはとうとう陸と海馬のクラスだけになった。