01
「ねえさん、この広告はいったいなんなんですか?」
こめかみをひくひく言わせた状態で森下はたった今、廊下から引っぺがしてきたポスターを姉に突きつけた。聖はそれを一瞥すると何事もなかったかのように八月朔日に渡す。
「生徒会裁判に向けて裁判部をアピールしておくように八月朔日さんに言っておいたので、おそらくそれでしょう」
「だってそれなんだよ!? 『春風のように爽やかな新人弁護士を見に法廷へ』って!?」
ポスターには大きく引き伸ばされた森下の写真と恥ずかしいキャッチフレーズが書かれている。
「よく撮れているだろう?」
八月朔日がにっこりと笑いながら言った。
「学校中に貼ったんだけれども、あまりはないのかって女子から注文がきているくらいだよ。森下姉弟は顔はいいもんな」
「顔はって何ですか!? 成績だっていいですよ! 誰が撮ったんですか、こんな写真」
「戸浪くん、呼ばれているぞ」
「戸浪ぃー! お前が犯人か」
八重歯を剥きだしにした森下が部屋の掃除をしていた戸浪に向かって大声で叫んだ。戸浪は少しだけ顔を上げるとぼそりと聞き取りづらい声で言った。
「すみません……」
「戸浪、お前本当に張り合いのないやつだね」
あっさりと謝られて、開き直るとかすればいいのにと思いながら森下は肩を落とした。
パシャっとフラッシュが光った。八月朔日がカメラを持っている。
「はい、ふたりとも笑ってー?」
反射的ににっこり笑う森下と笑っているかどうかもわからない戸浪がデジタルカメラの中に収まる。八月朔日は今撮った写真を確認しながら唸った。
「森下くんは洗面台の前で笑顔の練習でもしているの? 完璧な笑顔だね」
「なぜかにっこり笑うほうが皆好感触なのでいつでも笑えるようにしているんです」
「わぁお、すごい仮面生活。戸浪くんは少し表情が固いね」
「……すみません」
どう言えばいいのかわからなくてまた戸浪は謝った。森下がため息をつく。
「戸浪、謝るんじゃあないよ。『自分だって笑えますよ』とか言ってにっこり笑ってやれ」
「いえ……自分は」
「森下くん、戸浪くんの笑顔は君のように国民的アイドルではないんだよ。ただ愛するひとりのために微笑む男、それが戸浪克典なんだ」
「勝手な設定追加しないでください。自分はゴミを捨てに行ってきます」
戸浪は裁判部の部室を出ると、焼却炉へと向かった。
焼却炉の中にゴミを捨てる前に灰になったものを確認するのはいつもの癖である。何か手がかりになりそうなものが平気で落ちていたりするのが東雲高校の焼却炉だ。
中を覗き込むと、そこには白い灰が積もっている。と、その中に薄汚れたカードが落ちていることに気づいた。
なんだろうと思って手を突っ込んで引き抜くと、それはプラスチックでできたカードで、余熱で少しひしゃげている。太陽に透かしてみると、そこには名前が書きこまれている。秋野千早と。
同じクラスの千早の顔を思い出した。ゆるく巻いた茶色い髪に印象的なくらい大きな目元、すらっとした鼻とぷっくりとした唇の、十六歳とは思えないほど大人びた美少女である。
裁判部の聖も美人だが、聖の凛とした凛々しさと清楚さとは違い、千早は大輪の花をしょったような華やかな印象の娘である。
たしかショートホームルームの最中に何か探しものをしていたのを覚えている。そのあと先生に何か相談をしていたことも。もしかしてこれを探していたのかもしれない。何故これがこんなところにあるのかわからなかったが、とりあえず戸浪はそれを持って五組の教室へと向かった。
まさかこんな時間になるまで教室に千早が残っているとは思わなかったが、千早はまだ鞄の中や机の中を探していた。
教室に入ってきた戸浪に気づいて千早は顔を上げる。
「千早さん、探し物ですか?」
「あ、戸浪君。うん、そうなの。バイト先の通行証なんだけれどもね、なくなっちゃったの。あれがないとスタジオに入れない」
千早はモデルのアルバイトをしていると聞いた。まだ駆け出しの彼女は顔パスというわけにはいかないのだろう。戸浪は先ほど見つけてきたカードを見せた。
「もしかしてこれですか?」
「あ、それそれ。よかったー、どこで落としたんだろうと思って」
「焼却炉です。直接燃やされたわけではありませんが、余熱で少しひしゃげています。使えますかね?」
「たぶん大丈夫。ありがとう、戸浪くん」
にっこりと笑う千早の顔をまっすぐ見れず、戸浪はうつむいた。
「自分は……別に」
大したことをしたつもりはない、そう言おうとした。
その瞬間、千早は戸浪の手をとった。
「このことは内緒にしておいてくれる?」
「このことってなんですか?」
「焼却炉で見つかったってこと。誰かが私の通行証を捨てたなんて、そんなこと誰にも知られたくない」
微かなぬくもりの伝わる手を見下ろして、今度は視線をあげた。千早の目を、今度は真っ直ぐ見つめる。
「千早さん、あなたは嘘をついていますね?」
「え……?」
「見つけたのが自分だったのが幸いなのかどうかわかりませんが、千早さんの通行証がなぜ焼却炉で見つかったのか、自分には心当たりがあるからです」
「どん……な?」
千早は息を呑んだように見えた。戸浪はなるべく淡々と言った。
「この前、陸さやかさんが集団カンニングの犯人として訴えられたのは知っていらっしゃいますか? あの犯人は進藤先生だったわけですが、どうにも解せぬ点がいくつかあるんです。進藤先生が誰かをかばっているように思えたんです」
「その、庇っているのが私だと、戸浪君はそう言いたいの?」
「半分当たりです。進藤先生が犯人なのは間違いないでしょう。ただ、もしそれに共犯者がいるとするならば? もし、テープを捨てに行ったのが進藤先生ではなく、千早さん、あなただとするならば、あなたの指紋がテープについていたことの説明がつくんです」
「酷いことを言うのね、戸浪君。あの時進藤先生も仰っていたじゃあない、私は廊下でぶつかった時にテープを拾って、それで指紋がついただけよ」
「だとするならばなんであんなにべたべた触ったあとがあったのでしょうか? いいですか? 千早さん、もしテープを拾ったならば、指紋は平面の側から採取されるはずなんです。だけど、あのテープからは、側面からも採取されました。これはテープをデッキに出し入れするときにつくものです。……もし、ですよ? 進藤先生が何かの用事でテープを捨てに行けなかったとします。そして共犯者が誰かいたとする……当然その人にお願いするでしょう。その共犯者はテープの内容がB面に入っていることを知らなくて、A面に重ねて録音して処分した…それだと、すべての説明がつくんです」
千早は沈黙していた。しかし表情は険しい。
「テープを焼却炉に捨てるときに通行証も落ちた。燃えていなかったのは幸いだったのか不幸だったのかわかりませんね。燃えていれば誰もあなたが焼却炉に行ったことを立証できなかったというのに。ついでに言うならば、八月朔日先輩を突き落としたのも――」
「ええ、私よ! 何よ、言えばいいじゃあない。ばらしなさいよ」
握っていた手をばっと払いのけて千早は一歩下がった。戸浪はぼそぼそと言った。
「誰にも言うつもりはありません」
「だとしたら何が目的だっていうのよ?」
「真相が知りたいんです。あの事件の裏には何があったか、つぶさに」
「……本当にそれだけなの? 聞き出して誰かに言うつもりじゃあないでしょうね?」
「誰に言うっていうんですか? 友達もいない自分が」
戸浪が肩を竦めてみせる。千早は少し疑ってかかったが、しばらくして話し始めた。
「営利目的よ。私はお金が必要だった、進藤先生は給料査定で儲かりたかった。陸をターゲットにしたのは次の揚足裁判で失墜してもらわなきゃいけないからよ」
「なんでそんなにお金が欲しいんですか? モデルの仕事、儲かっているんでしょう?」
「私、悪い男に貢いでいるのよ。だからお金がいるの」
身も蓋もない言い分だった。戸浪はどう言おうか迷ったが、「そんな男とは別れろ」と言う権利なんてあるだろうか。
「じゃあ、がんばってください」
「何をがんばれって言うのよ?」
「がんばって、貢いでください。どんな貢ぎ方をしてもいいですが、罪に問われるのは千早さんだということをゆめゆめ忘れぬよう」
「戸浪くんって冷たい人! そういう時は『そんな男とは別れろ』と言うものじゃあない?」
「毒にしかならない男としかいっしょにいられない女の方というのが世の中にはいるそうですから。だいたい、自分に言われたくらいで別れるんですか?」
千早が絶句した。何か言いたそうにわなわなと拳を震わせたが、結局ぶつける言葉が思いつかないようだ。
「なによ、もう! あんたなんて、死んじゃえばいいんだ」
「その言葉、相手の男の人に言えるようになってくださいね」
今度こそ言葉を失った千早に背中を向けてから戸浪は言った。
「自分はこれで。安心してください、千早さんには恩があるので、このことは内緒にしておきます」
「……恩?」
その言葉には答えず、戸浪は歩き始めた。千早は追ってはこなかった。
◆◇◆◇
次の日も、次の日も、千早は戸浪が何かおかしな行動をしないか見張っていたが、戸浪は何もしなかった。
いつもどおり、ひとりで勉強して、ひとりで弁当を食べて、時間になれば部室へ行き、定時になれば帰って行く、それだけだ。
なぜ彼はひとりでいるのだろう。なぜ彼は友達を作ろうとしないのだろう。
千早はある日、立ち上がると戸浪に近づいた。
「戸浪くん、いっしょに外でお弁当を食べない?」
「外は今強風で砂が飛び交っていますが、それでもいいならば」
「……。いいわ」
今まで千早に声をかけられた男は迷わず「喜んで」と言ったものだが、戸浪は千早の本性を知っているだけあって、一筋縄というわけにはいかないようだ。
昇降口で靴を履き替えていると戸浪が聞いてきた。
「テラスにしますか? それとも人のいない裏庭にしますか?」
「人のいない裏庭に行って戸浪くんが襲ってきたら誰が守ってくれるのよ?」
「ご自分で守ってください。テラスには人がいるので千早さんが安心して本性を出せないんじゃあないかと気兼ねしただけです」
「本性って何よ!? 私を性悪女のように」
「性悪とは言っていません。男の趣味は悪そうですが」
「死んじゃえ!」
「ありがとうございます」
慇懃に頭を下げてから戸浪は裏庭のほうへと歩いていった。千早も慌ててあとを追いかける。歩きながら戸浪が話しかけてくる。
「千早さん、歩くの早いですね」
「走ってきたのよ!」
「そのヒールの高いローファーじゃあ大変でしょう」
「そう思うんだったらゆっくり歩いてよ」
「すみません、ゆっくり走ったんです」
「意外と屁理屈! 何よ、男は女に歩幅を合わせるのがマナーでしょ!?」
「千早さんを隣に置くのはよくないような気がして。自分は歩幅を合わせるだけの面倒ですみますが、千早さんはもっと面倒なことになるんじゃあないですか?」
「うぐっ……」
言葉に詰まって千早はそれでも戸浪の真横についた。一生懸命早足で歩きながら戸浪に追いついた。
「別に隣に男をはべらしているのなんて今に始まったことじゃあないわよ」
「そうですか。自分は初めてですが」
「じゃあお祝いしなきゃあね」
「藪の中で蚊に刺されながらね」
木漏れ日のもれる林の中でてきとうに拓けた場所を見つけると、そこにどっかと腰を下ろして隣をばんばんと叩いて座れ、と戸浪に合図した。
「千早さん、自分の前では容赦ないですね。あなたがどっかり腰を下ろすところを初めて見ました」
「あなたが真実をつぶさに語りなさいって言ったじゃあない!」
「これが秋野千早の真実ですか?」
「知らないわよ! 人の前でどかっと腰下ろしたのなんて初めてだもの」
これ以上つっこむと彼女がかんしゃくを起こすのではないかと思ったので、戸浪は大人しく隣にどっかと腰を下ろした。
弁当を食べながら暫しの沈黙が流れる。がつがつ弁当を食べる千早のほっぺたを触ってから戸浪は言った。
「ほっぺたにお弁当がついています」
「自分で取れるわよ! 放っておいてちょうだい」
「何かあったんですか?」
「あんたストレート! 直球勝負ね」
「千早さんは見事な仮面生活ですが自分はいつでもこのままなんで。疲れませんか? 仮面生活」
「逆に聞くけれど、仮面をまったくつけてないあんたのほうこそ疲れないの?」
「自分は女性ではないのでパックをつけたりは……」
「私だってまだパックつけるほど水分不足してないわよ!」
「……すみません」
何を言っても千早の逆鱗に触れるようなので戸浪は素直に謝った。
乗り出した身をまたもとの位置に戻してから千早は話し始めた。
「彼氏がさ」
「そういう話は男でなく女にするものです」
「あんたが『何かあったのか』って聞いたんでしょ。いいから聞きなさいよ。彼氏がね、『生徒会に立候補しろ』って言ったのよ」
「へえ、立候補してどうするんですか?」
「私の彼氏ね、晴嵐(せいらん)高校に行っているのよ」
「そこ、私立ですね?」
「知っているの?」
「いや、名前からして。東雲高校っていう公立があるほうが不思議な気がします。三年次から私立に変わるので制服が変わったり、色々していますが」
「そうよ、それ。東雲高校とね、提携を結んでいきたいって考えているのよ。学校同士というより、生徒会同士の。表向きは生徒の交流会ってことになっているけれど、東雲高校はいっぱい金が動くじゃあない? 晴嵐高校と繋がればもっと金が動くようになるでしょう? だから、今の生徒会が邪魔なんですって」
「なんだか壮大な話で千早さんの妄想に聞こえますね」
「私の妄想というより奴の妄想ね。できっこないわよ、ふつうに考えて」
千早はため息をつき、弁当の蓋を乱暴に閉めるとばたりと後ろに倒れた。
「生徒会はいらないと別れるってさ」
「いい機会じゃあないですか。向こうから別れるなんて言ってくること滅多にないですよ? 千早さんは金づるですから、ずっとくっついていたいはずなんです。……千早さんも彼を利用しているなら別ですが」
その発言に千早がぴくりと反応した。
「……あんた、魔法の目でも持っているの?」
「彼氏はすごく美形なんじゃあないですか?」
「ものすっごくかっこいいのよ! 聞いて聞いて! この前も雑誌のトップ飾ったんだから」
「やっぱり芸能関係の人なんですね。しかも権力的にもかなりあるんですね。彼はきっと金があって、生徒会に関係があって、あとあなたをモデルにデビューさせてくれたのも彼ですね?」
「一般的にそれは妄想って言うのよ」
「はい。ゴシップ記事にもならないような妄想です」
「その妄想がばちこん当たっているから恐ろしいって言ってるのよ!」
戸浪は千早のほうを見た。どうやらすべて図星だったらしく、むくれている。
「自分が怖いですか?」
「自分ってあんたのこと?」
「そうです」
「全然怖くないわね! あんたなんて私の彼氏に比べれば全然怖さも迫力も足りないわ。だいたい地味なのよ、イメチェンすれば? 前髪なんでそんなに長いのよ、切れば?」
「切れないから伸びているんです。自分はこれが好きなので……いや、」
そこで戸浪は言葉を区切った。
「これが自分の仮面なのかもしれません」
「前髪が仮面……あんたこそ仮面生活じゃあないの。何が怖いの? 日差し? それともツラにすごく自信がないとか?」
「日差しが邪魔なら帽子をかぶるし、顔に自信がないならサングラスをつけます」
「いいな、それ。あんたが麦藁帽子にアロハシャツでサングラスかけているところ見てみたい」
「お断りします」
ぴしゃりと断られて千早は一呼吸置いてまた言った。
「私がぶっちゃけているんだからあんただってぶっちゃけなさいよ! ムカつくのよ」
「すみませんでした。千早さんはどうしても自分に麦藁帽子をかぶせたいと?」
「いちいちあんたは核心を突いているんだかピントがずれているんだかわかんない奴ね」
「千早さんがあまりにも麦藁帽子姿を見たがっているようなので」
「そうでもないわよ」
本当はものすごく見てみたかったかもしれないが、そこらへんは意識して見てみたいと思ったわけではなく、想像できないから見てみたいと感じたのだ。宝箱の中身を見たい好奇心のようなものである。
「あんたはどうして前髪伸ばしているの? 前、見づらいでしょう?」
「見えないように伸ばしているんです」
「それってどんな効果があるの?」
「見えないという効果があります。あと、相手からも見えないという効果も」
戸浪は自分のお弁当を仕舞うと話し始めた。
「自分には、人の表層と深層が一気に見えるんです」
「どういうこと?」
「正確にはそんな気がする、というだけですが。自分の見ているものが真実なのか偽りなのかすらわからない……ただ人の心のようなものが、透けて見えるような気がするんです。たとえば人は皮膚があって、筋肉があって、骨があって、その奥に内臓がありますよね? それが全部一気に見えたら気持ち悪いと思いませんか?」
「それと同じようなものだって言いたいわけ?」
戸浪はこくりと頷いた。千早は「ふうん」と呟くとしばらく陽光の下でぼんやりとした。残暑のオレンジ色の光は強烈で、千早は思わず目を細くした。戸浪の世界はいつもこうなのかもしれないと思いながら。
それからしばらくして、生徒会裁判の時期が近づいてきた。放課後の正門前で自分の名前を声高にアピールしている生徒が目立ちはじめた。西校舎の端にある、裁判部ももちろん裁判に向けて準備が始まる。
選挙委員が持ってきたプリントを見て、八月朔日が呟いた。
「今回は立候補者が随分少ないんだね。五人しかいないや」
「普段はもっと多いんですかぁ?」
空乃が隣からプリントを覗きこんで陸の名前を発見した。
「あ、陸ちゃん、やっぱり立候補したんだ」
「陸は生徒会長って器じゃあないと思うけれどもな。せいぜいしたっぱ?」
と、森下が茶々をいれながらプリントを見て、佐藤甲斐の名前を発見してから驚いたように聖のほうを向いた。
「ねえさん! 甲斐の奴が立候補しているよ。あいつまだ内申の点数足りないつもりかな?」
「森下くん、佐藤くんと知り合いなのかい?」
八月朔日に聞かれて森下が「従兄弟です」と答えた。
「佐藤くんは優秀だよね。二学年の首席だし、ビリヤード部でも賞とっているし。佐々木亮平は三年生か。玉木彦那は聞いたことないなあ」
「この四人の中で誰が勝つでしょうかね?」
「ちょっと森下、勝手に私を落選扱いしないでくれる!?」
四人という言葉に陸が敏感に反応する。八月朔日がプリントに書き込みながら言った。
「さやかちゃんは自分で自分の弁護をするからいいんだよね? 佐藤くんの弁護は綺ちゃんに任せよう、佐々木は……俺がやろうかな。玉ちゃんは海馬くん、あとはちぃちゃんの弁護士とサポートだけど……森下くんはあのポスター以来へそを曲げて法廷に出てくれそうもないから戸浪くん、お願いしてもいいかな?」
「誰ですか? ちぃちゃんって」
「秋野さんだよ。戸浪くん同じクラスでしょう?」
さも戸浪が千早の弁護につくのが当然のように八月朔日は言った。
「ちょっと待ってください、八月朔日先輩」
森下がその配置に異議をとなえた。
「なんだい? 森下くん、弁護やる気になってくれた?」
「いえ、まったく。そんなことより八月朔日先輩が陸の弁護をしないのはわかるにしても、佐々木って亮平って名前からして男ですよね? 先輩は勝訴したときの女性の笑顔がエネルギー源で弁護士やっているんですよね? 男の笑顔なんてしょっぱいだけじゃあないんですか?」
至極もっともな問いだった。八月朔日が男の弁護をするなんて前代未聞だった。海馬ははっと息を呑んだ。
「先輩、ひょっとしてその女三人にものすごく問題があるとか?」
「ややや、問題があるのはひとりしかいないよ」
「陸だね」
「違うわよ!」
森下の即答に陸がテーブルを叩いた拍子にマグカップが宙に浮いた。それをこぼれないように手でつかみながら八月朔日は言った。
「まあ……誰が問題かは裁判が始まればわかることじゃあないかな。それにほら、揚足裁判は普通の裁判とはベツモノだから、ここはババーンと華やかにやろうと」
「つまりこれは裁判を面白可笑しくするためのグループ分けなんですね?」
「まあ揚足裁判のおそろしいところというか、おもしろいところというか、基本的になんでもありだから。心してかかるように」
「つまり一番揚足をとられなさそうな人を選んだわけですね? 佐々木先輩は余程揚足とられない先輩なんですね。ライバルとして揚足とれるところ探すから資料くださいよ」
陸の言葉に八月朔日が詰まる。
「いや、さやかちゃんに見せるのはちょっと怖いなあ」
そんな八月朔日から空乃は問答無用で資料を取り上げて陸に渡した。一年生がその資料を一気に覗き込んだ。
「八月朔日先輩、こいつの笑顔……もらう前に考え直したほうがよくありませんか?」
「今時こんな熊と戦ったような傷を顔につけている人なんていませんよ」
「アタシこういう顔を交番の指名手配の張り紙で見たことあるわ」
いかめしい顔の右目に袈裟切りのような傷をつけた男の写真を見て口々にそんな感想をもらした。陸はじっとその資料に目をとおしてから聞いた。
「揚足とれそうなところってツラしかないんですか?」
「それは君がでっちあげなさい」
「でっち……」
「つまり虚偽で満ちた裁判なんだよ。言ったでしょう? なんでもありだって」
「そんな嘘まみれの裁判で生徒会長決めてどうするんですか?」
うめくように呟く森下に八月朔日がにっこり笑ってあたりを見渡した。
「森下くんにこんな台詞言われたくないと思う人手をあげてー」
そこにいる全員が挙手した。前回の裁判でことごとく嘘と嘘を繋ぎあわせて真実を引っ張り出した森下には言われたくないということだ。
「あれは仕方がなかったんですよ。ねえさん何か言ってやってくれよ!」
「配属は今の発表でいいですか?」
「ああ! ねえさんまで聞いちゃいねえ」
聞こえるような舌打ちをしながら森下は資料を机の上に投げた。結局、そのままの配属で次の打ち合わせとなった。
一週間という月日はあっという間に経ち、裁判の日を明日に控えて戸浪は千早と最後の打ち合わせをした。教室にはもう千早と戸浪しか残っていない。日が翳りはじめてから校舎には西日が差していた。まぶしそうに顔をそむけると千早がカーテンに手をかけながら言った。
「まぶしいならカーテンしめましょうか?」
「いえ、お気遣いなく。もう少しで日は沈みます。日が沈む前に聞いておくことがあります、会長になる覚悟はできていますか?」
「生徒会に入れればそれでいいわ」
「じゃあ今のうちに言っておくことはありますか?」
「何よ?」
「最近千早さんから聞いてない内容があるんですが……彼氏からの指示は何かないんですか?」
「何よなんかあるの?」
「この一週間、まったく千早さんが彼氏の話をしないものだから。別れたんですか?」
「勝手に別れたことにしないでよ!」
千早が腹を立てたので戸浪はすぐに「すみません」と謝った。
「何? 別れてほしかったの?」
「いえ、もし別れたのならば揚足裁判とか、生徒会立候補とか、降りてほしかったです」
「覚悟ができてないのはどうやら私じゃあなくてあなたのほうみたいね」
千早は戸浪の向かいの席に座ると脚を組んで戸浪をまっすぐに見た。戸浪はその視線から逃げるようにうつむく。
「何が見えるの? 戸浪くん」
「ぐちゃぐちゃで何も見えないんです。正直自分の処理能力がどこまで追いつくのかわかりません。攻撃されたときに避けるので精いっぱいかもしれません」
「私たちはそれでいいのよ。他の人たちがお互い潰し合ってくれれば自然と残れるでしょうから」
立候補者たちがどんな攻撃をしてくるかはわからなかった。ただ戸浪にはひとつ心がかりがある。佐々木と組んでいる八月朔日だ。千早は八月朔日を階段から突き落としたことがある。八月朔日がそれに勘付いているとしたら、その点に触れられたらどう切り返せばいいのかわからない。
陸は佐々木のことを嗅ぎまわっていたようだからこちらに矛先が向かないだろう。玉木と海馬は何をやっていたのかまったく動きが掴めなかった。ただ、日に日に海馬が衰弱していっているような気がした。佐藤については空乃が森下のことを穿り返すのに一生懸命だったことしか覚えていない。
結局何も動きが掴めていないも同然だった。
あまりにも戸浪が沈黙しているので、千早は元気付けるように笑った。
「戸浪くんはチャンスだと思ったときに、ここぞと言ってくれるだけでいいから」
戸浪が顔をあげると日は既に落ちており、黄昏の中に千早だけが真っ黒に見えた。乱雑に飛び交っていた情報は、飽和量を超して、ただ、真っ黒に塗りつぶされていた。
もう何も見えない――