序章

 夏が近づいてきていた。庭先に蔓薔薇が咲いているのに気づいたとき、もう五月になろうとしているのか、とギーは思った。
  ギーの誕生日は五月である。花のたくさん咲く季節にイタリアで生まれ、五歳になる前にフランスに移住した。
  五月が近づいてくると思い出すのは、自分が長く住んでいたパリではなく、イタリアのコモだった。ミラノから少し離れたところにあるそこは、美しい湖と緑の広がった保養地だ。美しい自然の中で育った幼少期はギーにとってかけがえのない思い出だ。特に庭にあったハーブ園は、ギーのお気に入りの場所だった。「お前、あれを摘んでおいで」と言われて、ハーブを摘んでくるのはギーの仕事だった。
  蔓薔薇のアーチをくぐったところにある、小さなハーブの園は、ギーにとって神秘的な場所だったのである。

「ギー、お前さ、いつまでシカゴにいるつもりなんだ?」
  そうチェスターが聞いて来たのは昨日だった。別に出て行けというわけではない、チェスターが警察に就職してから一ヶ月が経とうとしていた。ギーは卒業してから一ヶ月もアメリカでアルバイトをしながら暮らしているのだ。チェスターが心配しないわけがない。
「シカゴにずっといるつもりなら、今からでもシカゴ市警察に入らないか?」
「いや、アメリカの犯罪は怖いので」
「お前それいつも言ってるけどさ、だったらどうして犯罪心理学者なんかになろうなんて血迷ったこと考えたわけよ?」
  チェスターが好物のミートソースのパスタを啜りながらフォークでギーを指差した。
  ギーは自分の分のパスタを鍋からつぎながら、苦笑いをする。
「チーズいりますか?」
「いや、お前のパスタ美味しいからこのままでも十分いける」
「ありがとうございます」
  ギーもテーブルにつくと粉チーズを少しだけ振りかけて食べ始めた。
「でも、そうですね。そろそろフランスかイタリアか、どっちかに帰らないと」
「お前、帰るところくらい決めておけよ。フランスがいいのかイタリアがいいのか、俺だってばあちゃんのところに帰るかママンのところに帰るかって聞かれたら間違いなくばあちゃんって答えるぜ?」
「お母さんと仲悪いんですか? チェスター」
「いや、料理がばあちゃんのほうが美味いんだ」
「チェスターは食べ物のことばかりですね」
「それお前に言われたらおしまいだと思う」
違いない。
  ギーは苦笑いをもう一度してからパスタを食べる間、しばし黙った。

 イタリアもフランスもそれぞれの良さがある。どちらに住んでも何かに不自由するが、どちらかが特別不自由というわけではない。
  イタリアに住むとなるとおそらく親戚のおばさんの家で再びお世話になることになり、フランスに住む場合は自分で新しい家を探さなくてはいけない。
  一度手に入れた自由な生活が楽すぎて、居候に戻るのも、新居を探すのも面倒だと感じている自分は本当に惰けていると思う。
  どっちで暮らしたほうが将来的に楽にのびのびと生きることができるだろうか。結局ギーは、その選択を占いに託すことにした。