それは放物線を描きながら暗い海の底へと沈んでいった。
波はこんな夜にも穏やかに港の船着場に寄せてはひき、すべてを呑み込む。
こんなにも静かなのにマルガリーテスは嵐の夜を思い出す。仲間たちをすべて呑み込んで、止まり木の小鳥の大切な人を今も帰してくれない残酷な夜だ。
「こんな節くれひとつに愛を誓ったりするから、こんなに時が経っても忘れられないんだよ」
私の薬指は空いたまま。褐色の無骨な指を翳してみる。
マルガリーテスの指は大刀を握り、振り回しているうちに硬い皮膚になっている。船長……ダンテをあっさり攫ってしまったあの女性の細い指と到底遠い。
「厭な空だよ」
曇り空に向かって吐き捨てるように言った。遠くで雷鳴の光が見える。セイレーンが嵐を呼んでいるようだ。
「欠航ぅ?」
口先を尖らせて語尾を上げて聞き返してきたのはスミスだった。
行儀悪く樽の上にしゃがみこんで体だけ乗り出す。
「こんなに波が大人しいのに欠航だって?」
「ああ、そうだよ。風が吹かなきゃ船は出せないだろう?」
しれっと、出来るだけ乗組員が納得しそうな理由を探し出しマルガリーテスは言った。
「風なんて俺が起こしてやるよ! 出港しようぜー」
たしかにスミスが乗っている時だけは風はスミスを守るように思う方向へと導くように吹いてくれる。しかし、船長が帰って来なければ船は出せない。
「そういえば船長はどうしたんだよ? リタといっしょじゃなかったの?」
「迎えに行ったんじゃなかったのー?」
幼いテンペストとチナが交互に質問をあびせてくる。マルガリーテスは少しだけ顔を背けて
「あんな奴、しらないよ……」
テンペストとチナが顔を見合わせぱちくりと目を瞬かせた。
「でも、明日が欠航になってよかったよ。倉庫のジャガイモの一部が腐っちまっててさ、買出しに行かなきゃと思ってたところだし」
ディランがそう言って立ち上がった。明日は早朝から市場だと言ってハンモックのほうへと去っていく。
「私も湿布が切れててね……いい機会だ。買い足しておこうか」
と、レーラアも笑って医務室へと戻っていく。最後にクローセルが外を見た。
「今はまだ曇り空だけどもうすぐ嵐が来るわ。どっちにしろ沖は危ないみたい。ほら、夜更かししてるとセイレーンに攫われるわよ、子供たちは早く寝なさいな」
「クローセル、船長とリタどうしたの?」
「喧嘩でもしちゃったのよ。大丈夫、明日には仲直りしていると思うから」
優しくテンペストを抱き上げるとチナの手を引っ張って寝室のほうへ向かいながらクローセルはマルガリーテスのほうを振り返ってにっこり笑った。
「リタ、ひとつ貸しだからね」
どうやら大人の事情というやつが彼らにはなんとなく分かったようだ。ただ一人、分かってない大人もいるようだが。
「なあなあ、リタ。船長と喧嘩したのか?」
「してないよ。ただ、ちょっと気まずいだけさ」
「なんで?」
不思議そうに聞き返してくるスミスに半ば諦めたようにマルガリーテスはため息をついた。
「いつまでも船長と嫌がってもいい仲のリタじゃあないってことだよ」
その日の晩はひどく長く感じられ、なかなか眠れなかったマルガリーテスは気の向くままにふらりと陸へと降りた。
船長のいる止まり木の宿にはなんとなく近づけなくて、まったく初めての酒場へと入る。ラム酒の味もハバナクラブとは一味違う。どこのラム酒か聞いてみるものの、店のバーテンも知らないようだ。
宿代は払わないくせに酒だけは飲みまくる海の男たちの喧騒を遠目にみながらため息をついた。酒には強いが、慣れない味のせいか、いまいち頭の芯がぼぅ、としてしまう。
こんな夜は誰か自分をお姫様にしてくれる人がほしい。ダンテの右腕と豪語する女がそんな気分になるのも誰かさんのせいである。
「はん、そんなの売春婦じゃないか」
別に売春婦を差別するつもりはなかったが、人魚の島で嬌声をあげる売春婦たちを思い出す。
現役の最高年齢は六十五だというからすごい。自分は六十五まで生きられるのだろうか。
海賊の現役はいくつまでだろう、いつまで自分はダンテの隣にいられるのだろう。
またひとつ、ため息が漏れた。
どれくらいの時間飲んでいたのだろう。
気が付けば客の数もまばらで、そううるさくもなくなっていた。
だが帰る気にはなれない。
帰ったら陽気で騒がしい元通りの暮らしに戻る。だけど好きなあの人は別の女と同じ時間をすごし帰ってこない。
彼女が待つ「行ってらっしゃい」を言わなくてすむ日は、マルガリーテスにとっては「おかえり」を言えない日なのである。
もし彼女の口癖を真似たなら、自分のことを好きになってくれただろうか。髪を腰まで伸ばして爪をきれいにして、綺麗なヴァニラの歌声を持っていたならば愛されたのだろうか。
「あ……」
新しい客が声を出した。ふと振り返ると見知った姿。
長い褪せた金髪の優男、腕には[の文字が彫りこまれている。マッスル・セブンの船に乗っているフランシスだ。
目がかち合ったところで、酔っていたせいか鬱憤を撒き散らしたくなった。マルガリーテスはフランシスによく聞こえる声で独り言を呟いた。
「だーれか口説いてくれないかしらね、誰か。だーれか、だーれか」
フランシスは「はぁ……」とため息と共に声を漏らすと気乗りしない足取りでマルガリーテスの隣りに来るとわざとらしく話し掛けた。
◆◇◆◇
「お嬢さん、こんなところでお一人ですか?」
「あらマッスル・エイトさん、奇遇ね」
ラムに焼けた喉から低い声。そうとう酔っているのだろう、やはりあまり関わりたくなかったが、隣りに座る。
「今宵は月も翳り海の黒真珠にも光が届かないようだ。どうしてそのかんばせが曇っているのか教えていただけないでしょうか」
「ありがとう。でもあたしにはもう惚れている人がいるんだよ」
じゃあなんであんな声で誰か誰かと言っていたのだろう。慣れもしない口説き文句のあとには倦怠感のみが残り、フランシスはエールを頼むと酔っている女の横顔を見た。マルガリーテスが口を開く。
「だけどなぜ曇っているかは教えてやるよ。ヴァルーサのところのモニカは知っているかい?」
「いいえ。誰ですか? モニカさんって」
「長い髪のさ、ギター弾いている女がいるだろう。あたしと同い年くらいの」
そういえばいたような気がする。「ああ」と相槌をうつ。マルガリーテスは続けた。
「モニカにはさ、あたしたちんところの船長がまだ若かった頃の、あたしが船長に会うもっと前にアレンって男がいたのさ。現地妻とは言うけどね、アレンとモニカは固い契りを交わしてたんだよ、『結婚しよう』ってさ。そんな言葉信用ならないのにね?」
ぐいっとラム酒を呷ると女はバーテンにおかわりと言った。だが、さすがに酔いすぎたと思ったのだろう。首を横に振る。「ちっ」とため息をつくとマルガリーテスはフランシスのエールを奪った。
「ちょうど今日みたいな日だったよ。セイレーンが嵐を呼んでいた。時化ててね、あたしは人魚の砦で海が荒れるのを見ていた。アレンの乗っていたヴァッフェンロース号は転覆しちまって、翌日ばらばらになった船の板と、それに掴まっていたダンテが人魚の砦に流れ着いた……それがあたしとダンテの出会いさ。気まぐれに助けちまったらすっかり情が移っちまってね、お爺のボロ船をヴァッフェンロース二号にしてね、そのままダンテとあたしとでしばらく海で暴れていたんだ。そんな折、東の小島に寄る機会があったんだ」
フランシスは海賊になってまだ日も浅い。東の航路に乗り出したことはあまりなかった。
東洋には金が眠っている、不老不死の妙薬がある、摩訶不思議な魔法が眠っている……様々な噂を耳にするがその実東から来た人は僅かで、また東から帰ってくる人も僅かで、東洋というのは魅力的なところなのだろう。
「アレンがいたんだよ。ダンテが言うんだから間違いない。生死を彷徨っているうちに大切な記憶を失っちまってね、向こうで世帯まで持っちまってた。ダンテの奴、アレンの胸倉を掴んで言ったんだ『モニカのことはどうするんだ!』『モニカはな、お前のことをずっと待っているんだぞ!』モニカは……そればっかさ。でもアレンはもう忘れちまったのさ。あの嵐の夜が止まり木の小鳥の時計を止めたように、アレンの記憶もあの時から時計を止めてしまった。左薬指の約束だけを持ち帰って、モニカにはそれだけを渡すことにしたんだ。もう契りを交わしたアレンはいないって……それでもモニカは待ちつづけた。何年も、三十超えてもだよ? でもね、待っていたのはモニカだけじゃないんだよ」
その待っていたのがダンテだってことはフランシスにもなんとなくわかった。エールを口に運ぶのをやめて、腕に伏せる女が低い声で言った。
「ずるいね、男ってやつは。どいつもこいつも、愛してる、お前が世界一だとか、そんな言えば言うだけ信用ならない台詞をいけしゃあしゃあと言うんだから。そんな言葉ばかり言う男をどうして女ってのは、信じるのだろう。信じてみたくなるんだろう」
最後のほうはもうフランシスの存在など忘れて独白に近くなっていた。
フランシスはそこまで静かに聞いていて口を開く。
「嫌がってもいい仲のリタさんらしくないですね。モニカさんがダンテさんの世界一ならば、リタさんは海の男たちの世界一じゃあないですか」
伏せていた顔をあげてマルガリーテスは笑った。
「あたしが誰の世界一だって?」
「マルガリーテスって真珠って意味でしょう? 黒真珠は海の男の憧れです。どんな財宝も敵いません」
たしかに金や他の宝石よりも黒真珠は稀少で価値が高い。ひとつ持っているだけでも一目置かれる海の中の恵みである。
フランシスは調子づいたように滑るように喋った。
「だいたい、その幹部級を表す全身の刺青、前にスミスから聞いたんですけど、海に愛されるように子供の頃に刻むんでしょう? リタさんは海と結ばれる運命にあるんですよ」
そこまで聞いて、マルガリーテスはクツクツと肩を揺らして笑った。
「なるほど。あたしはすでに海と結婚してたんだね。他の男と結婚したら重婚だ。よく教えてくれたね、ありがとう、フランシス」
今日初めて自分の名前を呼ばれてフランシスは照れ笑いをした。
マルガリーテスはスツールから降りると酔っているとは思えないほどしっかりした足取りで歩いた。
「さてと、そろそろ帰らないとね。海が拗ねちまうよ」
「あ、明日嵐らしいですよ? 船の中じゃ船酔いしちゃいますよ」
「そんなヤワじゃないよ。生まれた時から船の上なんだから」
バーテンに金を弾いて渡すとマルガリーテスは夜の港へと向かった。褐色の姿が消えるのはあっという間で、その後ろ姿が消えるのを見送って、フランシスはエールをもう一杯頼んだ。外で雷鳴が轟くのが聞こえる。
その晩は嵐の前の静かな夜で、翌日は荒れに荒れて船が揺れた。テンペストは嵐の夜に拾われたからテンペストという名前だが、嵐が怖いとチナと震えていた。
スミスは外でゲーゲー吐くし、クローセルは揺れを楽しんでいた。
嵐が終わり澄みわたった、雲ひとつない台風一過に、ダンテはいつもと何食わぬ顔をして帰ってきた。
「船長ってば帰ってくるのおそーい」
チナがばたばたと走っていってダンテにぶら下がる。続いてテンペストも飛びついた。
ダンテは笑い声を「がはは」とあげながら船へと乗り込んでくる。
「一日で足りたのかい?」
いつもと同じようにマルガリーテスがダンテに聞いた。
「まあな」
少し後ろめたそうにダンテが苦笑い。
「『お前が世界一だよ』だってね?」
にやっとマルガリーテスが笑った。
「世界二はあたしだよ?」
ダンテが負けずににやっと笑う。
「何言ってるんだ? リタは俺の世界一の右腕だぜ?」
「ばか。あたしゃ嘘つきは嫌いだよ」
そうやって騙されるほうが馬鹿をみる。しかし見てみたいのだ。馬鹿な夢を。
帆に風を受け、大空をウミネコが横切るのを見上げる。風に愛されるヴァンという名をもつスミスが出港の歌を歌う。ディランとレーラアが合いの手をいれながらヴァッフェンロース号は元気に出港した。きっとまた、ヴァッフェンロース号は戻ってくるだろう。止まり木の小鳥のために。