海賊ヴァッフェンロース号

小鳥の羽音

止まり木の宿で夕暮れ近く、ひとり酒を飲む男がいた。
  年齢は40代近く、白髪が少し入り混じった髪の毛をがしがしとかきながら暗いディープブルーの瞳で酒を見つめる。
「まいっちまうよな。あいつ、まだあんなに若いとは……」
  呷るようにして酒を飲む。その右手の甲に髑髏の証。それを大事そうに撫でながら男は呟いた。
「あいつがあっちについてりゃあ勝ち目はねぇ。逃げてきて正解だったな」
  元空族の力があってよかった。どの道あの砦は壊れたし、幹部の連中も海賊と戦って死んだのだろう。自分を追ってくる相手がいないことがそれを証明した。
「さて、また転職だな」
  空族という商売はまことに儲からない。力はあってもそれが儲かることに繋がるとは限らない。だから空族の連中はよく転々とする。
  とその時、蝶番がギィと音を立て戸が開いた。
「あらやだ……」
  よく透る女の声だった。見ると鉛色の瞳を持つ美女がギターケースを持ってたたずんでいる。どうやらここの女主人、ヴァルーサに用があったようだ。
「邪魔だったか?」
「いいえ。そんなことはないわ。お隣いいかしら?」
  許可を得て、するりとスツールに腰掛ける女。隣に置かれたギターケースは傷だらけで、古いものだということが一目で分かった。
「ジン?」
  飲んでいる酒の名前だろう。言われて軽く頷く。
「そうだが?」
「じゃあ同じのお願いね、ヴァルーサ。お名前聞いてもいい?」
「バードだ」
「鳥みたいな名前」
  実際西洋の名前で鳥というものからつけられたと昔親に説明されたような気がする。バードはこくりと頷いた。
「そちらの名前は?」
「私? モニカ」
  海鳴にも似たような声でモニカが答える。海のさざなみにも聞こえるその声がとても耳に心地よかった。
「お前……空と海、どっちが好きだ?」
「そうね、私は海かしら。晴れた海は好きよ? あなたは?」
「俺はどちらかってぇと空かな……」
「やっぱり飛べるから?」
「そうかも」
  バードは肩をすくめて見せる。そろそろ海で仕事を探すのも悪くないかもしれない。そう思った。
  思いついたら吉日とばかりに、小銭を払うとバードは立ち上がった。
「時間だ。また会うことがあれば、その時はよろしく」
「あなたもね、バード。空に気をつけて、明日は雨よ」
  雨くらいでは空を飛べないこともなかったが、そう言われて軽く会釈をする。そのままバードは街の雑踏へと姿をくらました。

「もし私がバードという名前だったらどうしたかしら?」
  ヴァルーサにモニカは聞いた。
「翼という意味の名前だったら……どこかの国で錨(いかり)という意味じゃあなければいいけれど」
  もし翼が生えていれば、愛しい人のところに飛んでいったのだろうか。こんなところでただただ待つだけではなく、探しに行くのだろうか。そんなことを胸に、モニカはヴァルーサと笑う。
「そりゃ、どうだろうな……」
  戸の向こうから聞きなれた声がした。モニカの笑みがヴァルーサと笑った形のままで固まる。
「俺は鳥って名前でも……海を行くぜ?」
  新しい海賊帽をかぶって止まり木の宿の戸をくぐって入ってきたのはダンテだった。
  ふいに、モニカの顔が曇る。海はいつでも大切な人をさらっていく。
「よぉ、モニカ。ヴァルーサも元気か?」
  傷だらけの顔にぼろぼろの提督服。古い箱を肩に抱えてダンテは言った。モニカがしばらく喋れないでいるのを見て、ダンテが笑う。
「なんて顔してやがるんだ。珍しいものでも見たのか?」
  それでも言葉にならず、モニカの唇が薄くひらいただけだった。ダンテはクックと笑う。
「驚きすぎだぜ。言ったろ? 必ず帰ってくるって」
「……おかえりなさい」
  やっと唇から零れた声に、ダンテが優しく応える。
「ただいま。モニカも変わりねぇようだな」
「大きな箱……」
  隣に腰掛けたダンテにモニカが呟いた。ダンテは箱の中を漁るようにしながら聞いた。
「海賊と、姫……残るのはなんだ?」
「何かしら?」
  モニカは惚けるように言った。ダンテはモニカの髪の毛を梳きながら、もう片手で見つけた小箱の蓋を開けた。
「答えは宝物だ。約束しただろ? 世界一高い指輪をプレゼントするって」
  そういえばそんなことを、この前帰って来たときに言っていたのを覚えている。その指輪を求めて、こんなに傷だらけになったのだろうか。
  小箱の中には、小さな古い指輪が鎮座していた。
「世界一高価な指輪ってなんだろうって考えた。これは、俺の馴染みのばあさんがつけていた指輪だ」
  シンプルな銀の指輪を取り出して、ダンテは言った。
「ごうつくばりの婆さんだったが……皆に好かれてたさ。そして、婆さんも皆を愛していた。俺が愛した、俺にとっての世界一だ」
  言いながらするりとモニカの左薬指に嵌めた。そこには、昔アレンが送った銀の指輪があり、それと重なり細い指の上で止まる。
「愛してるぜモニカ。お前が俺の、世界一だ」
  その言葉に、モニカの唇が震え、大粒の涙がふたつ落ちた。
  泣かせてしまったことに少しひるんだダンテだったが、モニカが口を開いた。
「……欲しいものがあるの。ずっと欲しいと思ってきて、手に入れられなかった物が。世界一の箱の中に、それが入っている筈なの」
「何が欲しい? はっきり言わないと……逃げちまうぜ?」
「『行かない』と言って。『行かない明日』を私に頂戴? 貴方が海へ行かない明日を私に下さい。一日だけでいい……私に送りの言葉を言わせない日を下さい……」
  右手につけたビィズの指輪の上に海が堰を切って泣いたように大粒の涙がぼろぼろと零れた。その肩を抱いてダンテが囁く。
「望むがままに。涙は似合わないぜ? モニカ。ただ俺は、海で生まれ、海で育った。海からは離れられねぇぜ? ただ一時で良いのなら……一日で良いのなら、一月で良いのなら……丘を生きよう」
「怖い思いをしない日が欲しい。『いってらっしゃい』に答える筈の人は帰って来なくて、潮に濡れた指輪だけが、いつか知らない誰かの手から帰ってくる。そんな怖い思いをしなくていい日を……一日で……」
  支離滅裂になりはじめた言葉を堰き止めるようにモニカは唇を一文字に結んだ。ダンテはその背を抱き、モニカを抱きかかえると優しく言った。
「馬鹿だな、モニカ。お前が世界一なら……この指輪も世界一だ。俺は、必ず帰ってくるさ。陽気に酒を飲みながら、な」
  モニカはただただ頷いた。その時、外から低い女の声がした。
「出発は一日遅らせる。それでいいかい? ダンテ」
  モニカにも、ダンテにも聞き覚えのある声だった。ダンテが照れたように笑って言った。
「ああ、悪いなリタ。他の奴にもそう言っといてくれ」
「悪い男だよぉ、あんた? ……飛べない小鳥さんは、待つのをあきらめちまったのかね」
  キィキィと音を立てる蝶番から離れる瞬間マルガリーテスが言った言葉がダンテの耳に入った。姫に嘘をつく海賊というのは、たしかに世界一の悪者なのかもしれないと。

◆◇◆◇
  マルガリーテスはぺたりぺたりと石床の上を歩く。遠くの汽笛を聞きながら……潮風が闇を浚った。
「あたしは、嘘吐きは嫌いだよ。優しい嘘吐きは特にね」
  ぎゅっと握り締めたのは昔ティル・ナ・ノグで受け取ったアレンの指輪だった。すっかり錆びついた古い手触りを感じながら。
「結局、信じたほうが馬鹿を見る!」
  そのまま思い切り放り投げた指輪が、曇り空の中で放物線を描くように灯台の明かりに照らされ一瞬だけ光ると、そのまま海へと落ちた。
  黒真珠と言われる女の暗い瞳に見つめられながら、それすら見えなくなる暗い海の底でこぽりと銀の泡をたて、そのまま絡みとられるようにちらちらと沈んでいく。

 やがては眠る、海の細波を子守唄に、幻想の泡沫の消失を抱いて、やわらかな深緑は褥。