ジョンは荷造りをした。持っていくものは財布、カード、下着、コート、それから自分が神様と崇めている無名の音楽家の出したCD。
扉に手をかけて、彼の元妻がこちらを見ていた。ジョンはその簡易な荷造りを終えると鞄ひとつで彼女の頬にキスをして別れようとした。しかしその口づけは拒絶される。仕方がなく、「キャメロンによろしくな」と娘の名前を口にして家をあとにした。
十代のときに家の近くの路端で歌っていた男を見て、音楽を志した。運良くクラブで歌っているときにスカウトがきて、順調にプロの階段を登った。問題は順調すぎたことだ。ジョンは金銭感覚も、貞操感覚も、あとは倫理も、すべてが狂っていった。そんなものは王様の自分には必要ないものだと思っていた。
崩壊はあっという間に訪れた。作曲をしても時代遅れだと売れなくなり、一昔前に流行ったアーティストとして、今は見向きもされない人間に成り下がった。
浮気相手はすぐに離れていき、それを知った妻との喧嘩も絶えなくなった。そして増大した物欲と借金だけが残った。他には何も残らなかった。
金を貸してくれと友達に言った。貸してくれた友達は一人だけだった。かつてその友達の詩を盗んだことがある。それでも彼は自分にお金を貸してくれた。
貧しいその友達は、なけなしの貯金を貸してくれたあとに「必ず返せよ?」と笑った。金は借りっぱなしの俺だったが、このときばかりはちゃんと返そうと思った。
「スージーと別れるんだろう? このあとどうする気だ?」
「別に。気ままに歌って暮らすさ」
「金だって稼がなきゃいけないだろう。今までみたいに簡単に稼げるなんて思わないほうがいいぞ?」
「そうだろうな。だとしても俺には歌しかない」
「路端で歌うつもりか? 一時期は全州の若者が君の歌を聞いていたというのに」
「また登りつめればいいだけだ。それまでは、道の端っこで歌うだけでも満足だよ」
「考え直すつもりはないのか? その、普通の仕事でよければ紹介できるかもしれないんだけど」
「ないな。プライドなんてくだらないとお前は思うかもしれないが、俺にはこれしかないんだ」
ジョンと友達は短い会話をした。
「色々なものを失っての再出発だな。家まで失っちゃって」
友達はそう言った。ジョンは笑って首を振った。
「俺が失ったのはピアノだけだ。歌はまだある」
そう言って固く握手を交わすと、手を振って別れた。
道ゆく人はもう彼の名前も顔もよくは覚えていない。ジョンは歩きながら鼻歌を歌った。自分の歌ではなかった。友達の歌でもなかった。かつて、自分が神様だと信じた、あの無名の音楽家の歌を口ずさんだ。
その歌は「悪い日もあるさ」と歌っていた。そう、今までいい夢を見すぎてきていた。いや、悪い夢だったのかもしれない。
不思議と足どりは軽かった。失ったものが多すぎて、肩の荷が降りたような気さえした。
(俺はきっと、学習しないんだろうな)
稼いで失って稼いで失って、何度も変わろうとしたけれども変われなかった。
妻を愛していた。娘も。音楽も愛していた。何が狂ってこうなったのかはわからない。たぶん狂っているのは自分自身なのだろう。
(辛かったら歌えばいい)
声を大きくしてさらに歌った。
さあ、歌おう。門出には相応しいBAD DAY。何もかもこれよりは悪くなりはしない。
(了)
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