世界と人間とひねくれた私

 どんな色が好き? と聞かれると、好きな色は色々あるけれども、最終的に一番好きな色は? と聞かれたら、私は「透明」と答えるだろう。
  どんな言葉が好き? と聞かれたら私は「物理法則」とか「理路整然」とか答えそうな気がする。
  人間の世界というのはごちゃごちゃしているけれど、世界の法則はどこまでも透明。だから数式も物理も、大好き。
  そんなこてこてな人間である。

 だけどそれは人間が嫌いという意味ではない。
  たとえばニーチェがどれだけ人間の悪いところを指摘したとしても、私は人間がそれだけの存在だとは思っていない。
  まあたしかに、ニーチェは面白い。だけどニーチェみたいに気の利いたことは言えないような人の中に、文学者も唸るような崇高な思想が眠っていることがあるかもしれない。
  そんな捻くれた人間でもある。

 さて、そうは考えたけれど、そもそも「世界は美しい、人間は汚い」という発想そのものが正しいのだろうか。
  世界の法則はどこまでも透明だけど人間の世界はごちゃごちゃしている。それはたしかにそうだと思うのだが、それが「世界は美しい、人間は汚い」という考えに直結していいのかがわからない。
  大自然が人工物より素晴らしいとは限らない、プラトニックな感情に偽善が勝てないとも限らない。
  これを言うと母親は頭で考えすぎだからハートで考えろと言うのだが、「こうじゃなきゃだめ」なんて発想は馬鹿らしいと思う。
  たしかに世界を見れば美しいと感じるものがたくさんあって、人間を見れば「これは汚い」と思わずにはいられないものがたくさんある。逆に大自然を見て「汚い」と感じることは少ないし、人間を見て「とてもうつくしい」と感じられるときがあったらとてもラッキーな瞬間である。
  だから「世界は美しい、人間は汚い」が答えでも、まったく問題がないと思うわけだが、どうしてか私はそう思えない。逆に「世界は汚い、人間は美しい」と思えたらまだ楽なのに、そうも思えない。

 結局何が言いたいかというと、世界も人間も「あるがまま」なんじゃあないかということ。
  それに人間が付属的に形容詞をつけたとしても、世界も人間も変わらないんじゃあないかってこと。
  実際には地球は汚れつつあって、人間は平和を愛する心に目覚めつつあるけれども、それも微々たるものだと思う。

 ただ困るのは、私自身が「あるがまま」のことを書くとだいたいの人が渋い顔をするということだ。
  誰もが自分が感じていない考え方には「そうだね」と首を縦に振るのが難しいと思う。だから別に私の考え方が正しいとか、素晴らしいとか、そんなことはまったく考えない。
  だけど逆を言えば私自身も自分の感じ方と違う考え方には「そうだね」と言えないわけで、「やっぱり自然は綺麗ねー」といわれても人工物のほうが好きだし、「この人の正体見たり」と思うような性格の悪さを露呈されても「たまたま機嫌が悪かっただけかもよ?」と答えを先送りにする。
  だけど多くの場合、そのことを人に説明しようとするととても時間がかかる。とても単純に、私と多くの人の感じ方が違うというだけなのだろうけれども、常識から真っ向から対立した考え方をよくしているので、そのうち私は反社会的だと誰かに怒られたり捕まったりするんじゃあないかと思うときもある。
  だからって考え方が変わるわけでもないし、だからって常識に逆らい続けるわけにもいかない。私は常識人の隠れ蓑を纏うことにした。
  ふふふ……誰も私が非常識な人間だとは思うまい。まるで天狗の隠れ蓑で透明人間になった男のように気が大きくなる私。そうして沈黙することを忘れて雄弁になる私。当然化けの皮が剥がれてみんなに「お前って非常識」って言われる私。
「なにさ、私は常識的よ」と言って「そうだね」と言ってもらえることが少ない。前述にも述べたとおり、誰もが自分がそう感じていないことに対して「うん」と言うはずがないからだ。

 最初の話に戻るが、そんなはちゃめちゃな私が憧れるのは「理路整然とした秩序」であり、限りなく「黒い」とか「腹黒い」といわれる性格をしているくせに「透明」に憧れる。
  人間はどこまでも正反対のものを求めるのだな、と思った。
  だから「世界が美しい」と思うのは、世界が汚い部分を見たくないからで、「人間が汚い」と思うのは自分の綺麗なところを認めたくないのだと思う。
  そんなの嘘だろ? と思う人、環境破壊に真剣に目を向けている人間がどれだけいて、自分の短所を省みない人間がどれだけいるというのだろう。
  だから私は主張する。人間も世界もあるがままでいいじゃない。そしてできれば私自身もあるがままでいたい。