無意味なことと意味のあること

 とある友人に、生きる意味とか生きる価値とか、そんなことをよく聞かれた時期があった。
  彼女はいまだもって人生の悩みのど真ん中なのだろうと思う。
  昔は私もそれについてすごく考えていたような気がするけれど、今は「生きる価値」という言葉こそ無意味で無価値なものだと思っている。
  そんなこと考えなくたって、人間は呼吸して食べて寝る生き物だろうし、誰も認めてくれないならば自分でOKって言えばいいじゃないと思うのだ。
  社会的な意味での評価はあったとしても、人間の存在そのものを評価することができる人なんて誰かいるのかなと思ってしまう。

 と、そう割り切っていたって、 私もどこかで自分が完璧でないことに悩む。
  罪を犯すことを悔やみ、無力なことを懺いることもある。
  別に私は特別に信じている宗教があるわけではない。だけど神様なんて存在しないと思ったこともないし、人間は死ねば土に還るだけと思ったこともない。
  神様の意味がいまだにわからない。人間が死ぬ意味もよくわからない。

 そもそも「意味」ってなんだろうな、とよく考える。
  単純に言えばその存在や現象の理由なのだろうけれども、多くのことに理由を求める必要性を私は感じない。
  意味や理由があるものは一見重要な気がして、重要なものには意味や理由があるような気がする。
  それ自体は別に悪くないと思うのだ。
  だけど無意味なものや理由なきものは価値がない、となってくると私は「NO」と言いたくなってくる。

 実は一見無意味だと感じる、無駄で実用性を欠いた部分にこそ人間の癒やしってあるんじゃあないだろうか。
  前述の友人に「生きる価値って何?」と聞かれて、私がそれに「君にはこういう価値があるのだよ」と言った場合、その瞬間は価値が付随されるのだろう。だけどしばらくしてその価値が意味のないものになれば、彼女はまたしても自分の生きる価値を探すのではないだろうか。
  少なくとも「生きる意味や価値」を私に与えられて喜ぶ人はいないと思っている。
  だから私はこう言うことにした。
 
「とりあえず納得するまで考えてみてください。
  納得する答えが見つからなかったら保留にしても構いません。
  答えに疑問だと思ったら考え直してください。
  自分の納得のいくまで「生きる」ということに真摯に向き合ってください。
  答えが出ても、出なくても、人生の最後で「これでOK」と思ってください。
  あなたを認めるのはあなた自身です。
  あなたの人生を歩くのもあなた自身です

 ただひとつだけ言えるのは、私はあなたがどんな答えを出したとしても、あなたが生きていることを嬉しく思えるし、あなたに出会えたことを嬉しく思っています」

 さて、人にはこう言ったものの、私自身は自分の人生に答えが出るのだろうか。
  答えは「保留」である。
  私はこの出ない答えに今、とりあえず保留という答えを出している。
  そのうち「私はこのために生きていたんだ!」とか言い出すかもしれないけれども、今のところそういうものは見つからない。
  だから意味のあることも無意味なことも、価値あるものも無価値なものも全部全部、それについての意味を追求することをやめにした。
  そうして何を追及することにしたかというと、とりあえず毎日を楽しむことである。
「人間は考える葦」だなんてパスカルは言ったけれども、考えずとも生きられるのが人間である。
  そうしてどうしてそれが楽しいか、なんてものに理由を求めたりするのは無意味だ。
  楽しんじゃった者が勝ちである、と最後にまとめさせていただく。