私にとってのものを書くということ

「なんで小説を書いてるの?」
  才能もないくせに。そう続きそうな感じの語調で誰かが言う、そこで夢から覚めた。

 久々に気持ちよく文章を書いていただけにこの夢は夢心地から醒めるような展開というべきか、起きてしばらくも何故自分は小説を書くのか、という答えを探していた。

 飯事雑居にある「あなたの中の脳内恋人」という話でも書いたが、私は口に出して「小説書くの大好き」とか「文章で食べたい」とか素直に言うのは奥ゆかしいくらい文章を愛している。
  自分の文章は崇高なものだと思ってなくても物を書くのは崇高な行為だと思っているし、だから私なんぞが容易く小説なんて書いていいのか、私は物書きを冒涜してないか、長い間悩んだ。

 よく「花南は物を書くことに真摯だよね」と言ってくれる友達が多いのだが、私ほど長い間文章を中途半端に愛した人間はいないと思っているので、「私の文章、輝け、私はお前のこと大好きだ」って今までの分も込めて毎日文章と向き合っているけど、いまだに満足いくまで輝かないのは私の才能か愛かどっちかが足りないわけで、どっちも足りないんじゃあないかなんて考えた日には、とことん憂鬱になる。
  少しでも納得いかない(長さが足りない、展開が早いとか)ものが出来て、だけどそれ以上は私の手では無理とわかると途端に悲しくなって、なのに書くことを辞める勇気もない臆病者なのだ。

 本当、私は何故文章を書き続けるのだろう。
  書くことは私にとって食事をとるやトイレをするの次に大切なことだ。趣味の範囲を超えている。
「何故」と聞かれると、答えに詰まるのだけれども、昔友達が教えてくれた言葉を借りるなら
「私が物を書くのは、物をつくる一族に流れる本能のようなもの」
  としか言えない。
  だけどそう言うと傲慢な気がするから、やっぱり何故小説を書くのか聞かれたらわからないとしか答えようがない。