猫の死

 もうそろそろ気持ちの整理もついたので、私の家の愛猫が死んだときのことを書こうと思う。
  うちの猫はエイズにかかった。死の宣告をされてからほぼ一年が経った頃、もう生きていても苦しいだけだろうからと獣医に安楽死させてもらった。
  私はその場面にいなかった。かわりのいたのがニノさんだった。
  十二年飼っていた猫である。ニノさんは顔を泣きはらして帰ってきて
「猫が死んだ。猫が可哀想だ」
  と言いつづけた。
  猫はたしかに最後苦しかったと思う。安楽死させてあげてよかったねとは思わない。だけど生きていることが猫の喜びだったとは思えない。
  そうして、外側の人間である私たちが、猫はエイズで死んだというそこだけの事実だけで、猫は不幸で可哀想だった奴だ、と決め付けるわけにはいかないし、逆に十二年可愛がってもらって猫は幸せだったよ、と安易に人間の立場から言っていいとも思えなかった。
  私は
「猫は猫の人生を生きたんだよ。可哀想じゃあない」
  とニノさんに言った。思えばそれが間違いの始まりだったのだと思う。
  感情的になったニノさんが私を
「冷淡な奴だ。猫が死んだのを見てないからそんなことを言えるんだ」
  と信じられないと批難しはじめる。
  別にまあ、それだけならば構わない。実際に私は猫が死ぬ場面を直視していたわけではないし、自分の感情にニノさんは正直だけど、私は正直でないときがある。
  悲しんではいけないと思ったし、あまり悲しくはなかった。
  ただ猫に、「よくがんばったね」「今までいっしょにいてくれてありがとう」という気持ちはあった。だけどそれをどう表現すればいいのかわからなかったし、その感情を「猫が可哀想」あるいは「猫は幸せだった」という安易なものに置き換えたくなかった。
  それはあくまで、私の感じ方だ。猫の感じ方ではない。
  猫が私たち飼い主のことをどう見ていたかわからない。犬のような性格をした、人懐こい猫だった。
  私の膝によくぴょんと飛び乗り、朝重いと思って起きると腹の上に座布団のように乗っているような奴だった。
  私なりに何か感じ取っていたし、私なりに猫とのお別れを考えたつもりだった。

 ニノさんは自分のブログに猫が死んだときに感じた気持ちを書いた。
  何人かの友達がニノさんに「ニノさんにそれだけ思われて猫は幸せでしたよ」というコメントを残した。
  ニノさんはそれを見てもお決まりの定型句でしかなく、あたしの心には響かないと言った。ニノさんはあくまで、猫は可哀想という立場にいた。
  私は言った。
「じゃあ、どう言ってほしかったの? 猫は可哀想ですね。死んじゃったんですもの。って言えばよかったの?」
  と。ニノさんは黙った。
「外側の人に言えることなんて、限られてるに決まってるじゃない。自分の期待した言葉なんてこないよ」
  私は事実を告げる。愛情のある本音をかけるより無難な言葉でまとめるほうがいいときもある。
  事実、私は自分の本音をニノさんに話したことを後悔した。おかげでそれから長い間、私は「花南は猫を可愛がらなかった」と言われ続けた。猫の話題を持ち出すたび、彼女は「生きている猫」の話ではなく、「死んでいる猫」の話をしたがった。それくらい、死に際を見たニノさんにとって、猫の死は強烈だったのだろう。
  あまりにも毎回、猫の話が出るたびに「花南は冷たい奴だった」と彼女が言い出すので、最後は私も腹が立って
「あんたが面倒見たのは猫がエイズになったって気づいてからでしょ。私はそれまでの十年、猫の世話を誰よりもした人間だよ。最後だけ可愛がって可愛がった気になるな」
  と言ってしまった。そんなことが言いたいわけではなかったのに。私は猫を可愛がったと主張したかったわけでもないし、ニノさんが猫を可愛がっていなかったと言いたかったわけではない。
  だけど彼女は私が怒り出すまで私を罵り続けたし、私は最後の最後で猫の死をとても残念な形で終わらせてしまった。非常に残念だったと感じる。

 今考えれば、もっと単純なことなのだ。
  ニノさんは自分が悲しかったという気持ちに「悲しかったんだね」とだけ言ってほしくて、そこに猫は幸せだとか可哀想だとか、そんなことを誰かに言ってほしかったわけではない。ただ、自分といっしょの感情を共感してもらいたかっただけなのだ。