人が批判的になるとき

 ミクシィのニュースとかアプリのサポートとか見ているとみんな言いたい放題だなあと思う。
  普段、芸能人やサポセンの方と同じくらいバッシングやクレームを受ける人ってあまりいないような気がする。何をそんな、相手を否定するようなことや言う必要のないことを言う必要があるのかなと思ってしまう。
  お互い馴れあう関係で間違ったことを駄目だとも言えないのも問題だけれども、言う必要がないところまで批判的になるのはいけないと、私はそういう人たちに批判的なのだ。

 相手を批判しているとき、攻撃しているときに人体の中でどんな現象が起きているのかはよくわからない。きっとアドレナリンが活躍しているんだろうけど。
  ただアメリカの心理学っぽいなんかを読んだときだったと思うけれども、相手を攻撃しているとき人は妙な気持ちよさや昂揚感を得るのだと書いてあった気がする。
  さすがパワーゲームの国の心理学、というところだ。あの国は心理学でもアイヒマン実験とかたまに恐ろしい実験するけれど、人間の心理の本当に暗い部分にスポットライトを当てるというのはあの国の思い切りのよさだからこそできるのだろうという気もする。

 話を元に戻そう。
  攻撃しているときに自分の中に気持ちよさみたいなのが生れるらしい。
  まあわからなくもない、きっとそれは心がどんな健全な人でもそういう環境に追い込まれればきっとそう感じるのだと思う。
  逆に攻撃されてるときの心の中というのは、自分がどうしてそんな目にあうのかという困惑や、憤り、悲しみ、そんな感情が錯綜するそうだ。

 アメリカの有名な中学生教師で「相手をバッシングする授業」をやらせる先生がいるそうだ。
  班のひとつをいけにえにしてクラス全部で全力でその班員をバッシングするそうだ。それを順々に全部の班にやる。
  生徒たちはバッシングしているとき自分が気持ちがいいことを知り、そしてバッシングされるとき途方もなく悔しいことを知る。
  アメリカの格差社会の中では、一生バッシングされたり排斥されたりする層の人間がいるということを学び、そういう人たちに少なくとも自分はそうしないということを学ぶ授業らしい。
  母親からその話を聞いたときに私はすごく微妙な顔をしたと思う。その授業の重みに耐えられない繊細な子もいるんじゃあないかなって気がしたからだ。
  実際にその教師に「あなたの授業は最低です」と言った女子生徒もいたそうだ。そうして教室を出て行くというところまで行動に起こしたそうだ。
  その背後から教師は「あなたはいつでも教室を出て行ける立場でしょうよ。だけど一生差別され続ける人もいるのよ!」と言ったという。
  微妙に頭の中に刺さっている言葉だったりする。

 日本で同じ教育をしたら教育委員会はそれこそ保護者たちによってバッシングの対象になるだろう。
  私もこれが正しい教育かと聞かれたらもうちょっと言って聞かせることのできる子供がいることを信じたいところだ。
  ところが今のネットの攻撃的な言葉を見るたびに、案外攻撃する楽しみしか知らない大人が増えたものだということ、その子供もきっと誰かに攻撃されて誰かを攻撃するような子に育っていくだろうことを危惧している。
  そんな中で教育もなしに「私は相手を攻撃しない」と自発的に選択ができる子が育つなんていうのは理想論でしかないこと、などを考えた。

 正直私はまだ子供を育てたことがないので、このことを自分の次世代に上手に伝える術がなんであるかなどわからない。実際のそれは頭で考えているよりずっと難しいと思っている。
  ただできることは「私は攻撃しない」という選択を自分がすることだけだ。
  とはいえ、人間だからできないときもあるかもしれない。どうしても相手に否定的になる瞬間は、誰にだってあると思う。
  だけどそこからどう行動するか、または行動しないという行動を選択するかは、自分自身にゆだねられているんじゃあないか、そう思うわけだ。