繊細なのは弱いこととは違う

 ピアノを弾くとき、繊細な旋律=鍵盤を叩く音が弱いわけではない。
  繊細だけど力強く生きていきたいといつも思う。
  そんなピアノの旋律みたいな生き方ができるかどうかはわからないけれども、そう感じるのだ。
  私は透明になりたい。透明人間って意味ではなく、透き通るような純粋さで生きたい。
  ところがどっこい、私ときたら、不純物だらけの心だから透明に近づくにはかなりろ過しなきゃいけなさそうな予感なのだ。

 14歳の頃は自分は鋼になりたいと思っていた。チタンにさえなりたいと思っていた。
  ナイフで刺されようが岩で殴られようが傷つかない、涼しく笑っていられる存在でいたかった。
  今も硝子になりたいとは思っていない。透明なチタンになりたい。透明でその強度ありそうなのってダイヤモンドだろうか。
  だけどダイヤモンドになりたいって言うとキラキラしてそうなイメージだ。私はキラキラしたいわけじゃあない。私の人生にキラキラは必要だと特には感じない。

 弱い人で自分のことを「繊細なんだ」って言う人がいる。
  だけど「弱い=繊細」ってのは違うと思うし、「強い=鈍感」も違うと思っている。
「やさしい=繊細」も違うし「強い=冷たい」も違うって気がするのだ。
  強く、やさしく、繊細で、傷つかない心を持つのが理想なんだ。

 傷つくのは悪いことじゃあない。自分の心と向き合う時間。
  傷つけることも故意でなければ悪いことではない。なのに傷つけた自分に罪悪感。
  だけど「傷つけたくない」って気持ち、「傷つきたくない」って気持ちとイコールでないか? と自分に問う。
「傷つけるくらいなら傷ついたほうがいい」なんて言う人といっぱい知り合ってきたけど、傷つくことで自分を守る方法しか知らないからじゃあないのか。
  両方とも傷つかないって選択はないのだろうか。
  相手も自分も、強くなればいい。
  私は繊細だからとか、あの人は繊細だからとか、そんなのはおかしいと思う。

 世の中に傷つけちゃいけない人がいるはずない。世の中に傷つけていい人がいないように。

 私はもっと、強い心になりたい。
  ちょっとやそっとのことはストレスだと感じないくらい。
  繊細かつ力強く生きたい。透明な金属になりたい。