後輩が私のことをバトンで紹介したとき
「花南先輩は一見客観的に見えるけれども、でもあれはあくまで彼女の主観なのですよ。彼女の主観の中に、私は人の客観を知る」
みたいなことを書いてくれたことがある。
あまりにもズバリと本当のことで、自分でぴったりくる表現が見つからなかった分、彼女がよく私のことを見ているのだなあと思った。
他人の客観が花南の主観。花南は自分を客観視する中で己の感じ方に気づく。
こうも言い換えらえる。
私は自分自身を見るとき、感情をダイレクトに感じ取ることがあまりないと思う。どこかで俯瞰している自分に「私はどう感じているの?」と質問しているのだ。
そうすると客観的な自分は「花南はこう感じたんだよね」と私の感情を客観的に分析して代弁してくれるのである。
そう言われて初めて、自分の胸に広がった波紋の意味を知ることができるのだ。
あまりそういう人に遭遇したことはないけれども、ちょっと変なプロセスで世界を見渡しているのだ。
むしろみんなが主観といっている感覚がよくわからないかもしれない。
人生を一人称で生きるか三人称で生きるか、という話題を友達としたことがあるけれども、私は比較的三人称で生きていると思う。
一人称で文章を書いているときですら、私はどこか主人公がどこか別の視点から自分を覗いて、考えているのではないかと考える。だから視点はどこか神視点に近く、いつまで経っても一人称で書くのは苦手だ。
私の感覚は、誰かに何かを言われたときに汗がだらりと流れたとしても、「花南は汗がだらりと流れた。何か感じ取ったようだが、それが何なのかわかっていないようだ」みたいな感覚なのである。別の視点の花南が「あなたはこう感じたんだよ」と、作品のナレーションのように説明してくれないと物語というべきか、当事者の花南は自分がどう感じたかもよくわかっていない。
「なんとなく今違和感」とは思うが、それが快不快どちらの感情なのかすら判別がついていないことがほとんどだ。
逆に人の感情は妙に理解できるときがある。
ほとんど自分の感じ方に頓着しないということは、他人の感じ方に専念できるからだ。
まず相手の気持ちになってみるというのは、けっこう得意だったりする。だけど相手の気持ちになりきれないときもあるし、なりきると辛くなるときは自分の視点に戻ってくる。
だけどこれはつまり、自分の感じ方よりも人の感じ方を優先させることが多いということだから、それは自分を大切にしていることになるのかしら? とたまに疑問に思うこともある。
まあ、こんな自分も人も他人事の視点から見ている私ではあるが、たまに頼りにされるのは嬉しいことだ。心を開いてくれるのも嬉しいことだ。
たまには私自身も、私に心を開いてくれないかな? と感じる。
私は私が何を感じて今まで育ってきたのか、もうちょっと私自身を知りたいのだ。 |