割と残念だと感じたのは、差別を受けている人たちの人権を守ろうという法律ができそうになったときの、とある反対声明を発表していたサイトの内容だ。
思想の自由を制限することに反対するのは別に構わない。
だけどJRが「障害者の方は前日までにご連絡ください」と紙を貼っていたことに対して、障害者のひとりが「行動の自由を制限された」と怒ったというニュースをそこで扱ってあったのだが、たしかにそれは障害者の方の過剰反応だと、私も思う。
だけど「思いやりまで差別の対象になるのか」という書き方はいただけなかった。
そんな恩着せがましい思いやりなど、障害者の人間たちは欲していないはずだ。まだ差別されていると感じた障害者の人の過剰反応のほうが理解できる。
「うぬぼれんなよ? 健常者」
私は舌打ちしてそのページを閉じた。
人間は正しいと感じると何をしてもいいと思う傾向がある。差別はいけないと言っている奴が一番差別をする人間を蔑視していることなんてままあることだ。
ところが、障害者の中にもけっこう甘えた奴らはいるのだ。
母親の話によると、昔会ったその人は足が不自由だから部屋は散らかしっぱなしなのだそうだ。
誰もその人に片付けを教えなかったから、その人は「私は足が不自由だから、誰か片付けて」っていう人なのだとか。
「あまえるんじゃねえ、ひとりで生きろ」
そう言いたくなる。障害者の甘える心というのは、ときにすごく不遜で、自分が弱者ならば何をしても許されると考えているそういう暴力的な側面がある。
こういう人を見ていると「これだから障害者は」とか「障害者は健常者の世界にくるな!」と言いたい人の気持ちもわからなくもないが、健常者は障害のある人間をデイケアなり作業所なりに詰め込んで、そうでもしないと秩序も保てないくらい無能な人が多いのだろうか。
目もふたつあって、耳も聞こえて、四肢が全部あって、IQも人並みにあり、脳内分泌に異常もないというのがそんなに偉いというのであれば、せめて有能で格好いいところを見せてもらいたいものだ。
つまるところ健常者が多いということがいけないのだろうかと考えたこともある。
だけど障害者がほとんどで、少数の健常者がいる社会もちょっとおかしいところがある。
「あなたは健常者(もしくは健常者に近い)なのだから、私たちより負担するべきなのだ」
という発想がまかりとおる社会というのは、単純に健常者が「こっちに来るな」という以上に歪に見えるのだ。
ノーマライゼーションという言葉を、不適切に意識した人も実は苦手だ。
たしかにそういう差別があると生きづらいのは本当なのだけれども、障害者だけが差別されているわけではない。世の中に差別はいっぱいある。
健常者と障害者が対等に生きていける世界だと? どう考えたって頭や体のパーツが足りない障害者のほうが分が悪いに決まっている。どうがんばったって、ハンデを負っているのは障害者のほうだ。対等にやっていけるわけがないのである。
一番あまり得をしていないのは、実はボーダーにいるような障害者たちだ。
重篤な障害はないから、障害者からは「健常者に近くていいわね」と仲間にいれてもらえない。健常者のほうからも「ちょっとあなたは違うわね」と距離を置かれる。
とても面倒だと感じるわけだ。
どうして世の中は、「やれることをやれるだけやる」というスタンスにならないのだろう。
世の中には働きすぎで壊れかけている人と、働けずに困っている人がいる。それは障害者も健常者もいっしょだ。
各自の収入は少なくなるかもしれないが、自分でやれるだけのことを、各自が負担する社会になれば、誰にとっても平等な時代と言えるのではないだろうか。自分が無理をしていないならば、人に対して不満だと感じる気持ちもそんなに湧かないだろうと勝手に考える、そんな障害者の中では比較的負荷が軽くなった私なのだった。
そういうノーマライゼーションならば、どんどん社会に浸透していってほしいと感じるのだ。 |