善意の自分と悪意ある自分のアンビバレンス

 男は女と比べて愚痴を言うのが苦手な人がけっこう多いと思う。
  比べて女はけっこうな勢いで愚痴を言う。私が「結局どうしたいの?」と聞くと、どうしたいわけでもないということは多い。
  変えられない事実もある。愚痴を言いたくなる瞬間もやっぱりある。
  だけど人の悪口を言うときにキラキラする女子を見ていると、どうしてもしょっぱい気持ちになるのだ。こいつはきっと私の悪口もどっかで言ってるんだぜ、そんなことを考える。
  もちろん世の中には「うわーそりゃひでえ」と思う人間もいるので、そういう奴の悪口で盛り上がるのは別に反対ではない。あまりにもひどいものを見ると笑い飛ばしてギャグに昇華させたくなるのが人間というものだ。

 だけどたまにそんな自分のメッセンジャログを振り返ったりすると、ちょっと凹むのだ。
  今から十年以上前のログを見ても凹む。ただの高校生の戯言だと思っていても、やっぱりどこか心が痛む。私はあの頃から、少しも成長していないのかな? と思ってしまう。悪口の対象が変わっただけで、やっぱり誰かのことを誰かにぶちまけている。
  だいたい十年前の私ときたら「いい人になりたい」と感じて行動した瞬間、失敗するんだとよく口にしていた。私は悪い人だから、いい人になりたいと考えるとかえって人のためにならない失敗をするのだと。
  だから精一杯ひねくれた、誰とも馴れあわない人間で、ひとりぼっちで生きていくのが正解なのだ。いい人とは話さず、悪い奴らとつるむのが性にあっている。善良な人の中に私の居場所などあるわけがない。そう思っていた。

 さて、今の私はどうなのだろうか。いい子になれたかな? そう少し考える。
  自分の気持ちに正直になった分、悪いときといいときの自分がとても激しくなったと感じる。
  やさしいときの私は、心の底から清らかなことを言う。
  悪いときの私は、心の底から暴言を吐く。
  そういう極端な人間だから、将来の夢は何かと聞かれて「世界平和です」などとミスコンにでも出るのかと言うようなことをのたまいながら、一方で人がばったばった死ぬお話をいっぱい書いたりするのだ。

「とてもアンビバレンスな存在なのです」
  と言ったところ「君がアンビバレントなのはわかった」と訂正されたことがある。英語はとても苦手なのだ。いまだに名詞と動詞の使い分けがうまくできないでいる。
  だけど極端に両義的な私には、その中間に他の人がいるのがあまりよく理解できない。
  普通は善いと悪いの狭間のどこかで、自分の納得いく妥協点を発見できるそうだ。
  私はその妥協点が発見できないから、真っ二つに自分の考えが割れる。そして困ったことに、考えが真っ向から対立していることを困ると考えていない。困るとしたら、「説明に困る」くらいなのだ。

 黒花南と白花南は別に仲が悪いわけではない。どっちも仲好しだ。
  よく天使の自分と悪魔の自分が葛藤している自分に囁きかけているような、漫画があったりするけれども、黒花南も白花南も自分の意見を言うだけで、別にどっちに判断する私が転がろうと、責めてくるわけではない。
  だから結局、私は良心の呵責に苛まれることもなければ、損した自分に馬鹿だと感じることもない。
  だいたい、いつも自分の出した答えには、その時点では最良の答えだったとOKが出せる。
  だから別に「結局あなたの考えはどうなわけ?」と聞かれても、そんな立場に明確なものを出す必要性などまったく感じていない、カモノハシのような存在だ。
  別にどっちかになりたいなんて、考えても無駄なことを知っているのだ。