ひとのために尽くすということ

 なんでも「自分のためにやる」という発想は好きじゃあない。
「他人のために、相手のために」も存在すると思う。
  だけどそこで「これだけしたのに」という思考や犠牲心がはいるなら、それは「自分のためにやる」だ。だから「あなたのためよ」と言わずに契約書でもつくればいいと思う。
「私はあなたに親切にします。だから私を尊重してください」という契約書にくらいサインしたっていいと私は考える。
  そこで「ええー」って言う人は、無償の愛とか奉仕とか、そんなものを根拠なく信じている人だ。しかも与える側でなく、もらうことを考えている場合のほうが多いんじゃあないかと邪推する。

 だいたいにおいて、無償で与え続けるというのはとても大変なことだ。
  だってそこに生産が発生しないから、与える側が削られていくばかりなのだ。
  愛情のある犠牲以外をよしとできる人間がどれだけいるのだろう。仮に愛していたとして、自分の限界以上のことをしてあげる犠牲心を、誰が要求できるというのだろう。
  無償には限界がある。つまるところ、自分の採算の合う範囲までしか犠牲にできないという。

 だから自分の一回りくらい年下の子が
「私は冷たいのかな。『愛しているよ』って言われても、理由がないと気持ち悪いと感じる。これこれこうだから愛しているって言われるとそうなのかって思えるけれども、無償の愛って何? と思うんだ。無償の愛以外は価値がないみたいな社会は気持ち悪い」
  みたいなことを言っていたとき、それも極端な話ではあるけれどもとてもわかる気がした。
  無償の愛は難しいのだ。だいたい誰もが、自分が心からしてあげたいときに、自分のできる範囲で尽くすのが、無償の愛だと思う。そこを越えると、見返りを期待する自分が発生するのだ。

 私もかつて、見返りを求めたことがあった。
  私の求めた見返りは、「健全な生き方をすること」だった。
  私はその子のどんなネガティブな話も聞いたし、その子が何に悩んでいるか納得がいくまで考えるのに付き合ったけれども、それは全部、彼女が前向きに人生をとらえられるようになってほしいと感じたからだった。
  世の中にはいいことなんてひとつもないんだって考えから、抜けてほしいから、私は自分の限界を越えても彼女にお付き合いした。
  今はそんなことはない。彼女は私に無理な範囲で無償の愛を求めていないし、私も自分のできる範囲での無償の愛だ。無理が生じなくなってからのほうが、たぶんきつくなくなったと思う。少なくとも、私のほうは。

 何度も言うけれども、人が思っているよりも無償の愛というものを貫くのは難しい。
  与え続けるということは、とても辛いのだ。
  何か見返りなり、報われる何かがほしいと感じてしまうのが人間だ。
  やさしさを与えて、唾を飛ばされ続けるのはとてもつらい。
  だから「無償の愛」は無理でも、「有償の愛」だって人を救えることに気づいてほしい。

「私はあなたのことを大事に思っているよ。だからあなたも、私が心から考えた言葉を真摯に考えてね」
  これくらいは契約書にサインしたって、別にあなたは何も損をしないと思うのだ。
  契約する内容じゃあないかもしれないけど、心で判を押すくらいはしてやってほしいと思うのだ。