猟奇的なわたし

 特別でありたいとか、変わっている人になりたいとか思ったこともないし、普通の人でありたいとも思わない。
  ずっと、いい意味で猟奇的でありたい。韓国語の猟奇的くらいの意味合いで。
  なぜ? って聞かれたら答えられないけど、「ただもんじゃあねえ!」って存在でありたいのだ。不自然でない範囲でそうありたい。

「変わっているね」って言われて、それを個性的と勘違いして喜ぶ人は、実はあまり個性的ではない。だいたいは平凡だけれども、ちょっと迷惑な人だ。
  無害の範囲だけど変わっている存在の人は、あまり変わっていると言われて喜んでいるところを見たことがない。うちの妹のMさんが特にそんな感じである。あいつと同じような存在は二次元ですら確認したことがないのだ。
  本当に誰も思いつかないような前衛的な存在は、常にひとりぼっちだ。だから「変わっているね」って言われて喜ぶわけがない。だいたい眉をひそめて「ああ?」と言う。「変わっているね」はそういう人たちにとっては「お前は別の生き物だ」と言っている代名詞だから、とても不愉快なのだと思う。

 そんなこんなで、変わっている自分というのには興味はないけれども、いい意味で人の予想や期待を裏切るサプライズ的な存在にはなりたいのだ。
  だから私は、いい意味で猟奇的な存在でありたい。
  猟奇という言葉が猟奇殺人と直結しているのは、ドメスティックがドメスティックバイオレンスを連想させるようなものだと思う。意味は本来ならばまったく違うのに、その印象があまりに強いという意味で。

 私が考える個性というのは、別に他人と違うキャラをしているという意味ではない。
  個性的でなければと考える人は、自分の個性や人の個性を否定している。特別じゃあないと価値がないなんて、そんなの個性の域を逸脱しているじゃあないか。
  人間は生れたときから個なのだから、存在しているだけで充分個性的なのだと思う。
  テンプレートな人格とか言う人もいるけれど、雛形にすっぽりはまるのであれば、それはそれで雛形にぴったりという個性があるのである。なかなかぴったりな人は存在しないのだ。
  だから人を知るという行為は奥が深いのである。何かにあてはめて知った気になっちゃいけないのだ。