人生において離れていった人たち

 好き勝手に生きているのだから、当然出会いの数だけ別れのようなものもあった。
  嫌いで別れた人はほとんどいないけれども、どうしても無理だと感じて別れたことはある。そして私に対して無理だと感じて離れていった人もいる。

 私にきっぱりと「お前のことが嫌いだよ」とか「あんたは間違っている」と言った人もいたけれども、それよりか印象に残っているのは
「嫌いになったわけではないけれど、これ以上傷つきたくもない。自分だって自分を守りたいのだ」
  というパターンの人たちだ。
  こういう人がでるたびに、私は「ああ、またやっちまった……」と思わずにはいられない。
  別にお別れ自体が悪いと感じるわけではないのだが、むしろ無理に付き合うことのほうがお互いのためにならないと考えるのだが、だけどどこかでその人たちの負担になっていたことを反省するのだ。
  とはいえ、人間は変われるわけじゃあない。表面上変わることはあっても、本質的な自分を自分じゃあない誰かに置き換えることはできない。
  やっぱり自分の考えは言うし、感じ方もあるのだ。だから他人に全部をあわせるのは、ちょっと難しい。
  きっと相手も自分に合わせてくれるべきだとは思っていないのだと思う。
  合わせるべきだと怒った人たちには、自分から「断る」と言った。だいたいの人は「ならばさようなら」と離れていったけれども、別に自分じゃあない誰かの振りしてまで付き合う必要は感じない。そのうち理解しあえる日は来るかもしれないけど、その日までは別の道を進もうというやつだ。
  だから私が合わせない分、相手がついていけないと思って離れるのはわかる。
  だけど離れるときに「嫌いではなかったけれども」と言われると、なんとなく自分はその人に悪いことをしていたんだなあと感じるのだ。別に私も相手も悪くないのに、お互い相手に悪いことをしたような気持ちになるのは、とてもよくないことだと思う。
  だけど真心で接して離れられたなら、どうでもいい気持ちで向かい合って離れていかれたときの気持ちとショックは半分だ。
  いい加減な私ではなく、本当の私についていけないと思われたなら、本当に仕方がないじゃあないか。

 だから離れていった人に敬意をもって、私は私の人生を生きて、自分の価値観を大切にするのである。
  その人たちもきっと、私と接点のないところでいい人生を歩んでいることを祈って。