とうめいにんげん

 今は思い出になりかけているけど、「戦争はよくない」とか「差別はよくない」とか、たしかによくないと思うんだけど、その根拠を聞いたときに感情論で言われるのが苦手だった。
  でも人間味のまったく感じられないことを言われると、それはそれで不気味だと感じるのだ。
  無難な答えを言われると、それは不満だった。
  そうして私はあるとき、私は自分に「感情的になるな」「人間らしくあれ」「思慮深くあれ」の縛りをかけていたことに気づいたわけなのだが、その縛りを外してしばらくして、今度は
「なんでそういう縛りをかけちゃあだめだと思ったんだろう」
  と逆の縛りに気づいた。
  年を追うごとに、どうでもいいし許せたりスルーできたりすることも増えたけど、なぜ腹が立たないほうがいいって思ったのだろう。
  狭量な自分が許せなかったのか、許せない自分が許せなかったのか、ネガティブな自分が許せなかったのか、いまだにわからない。
  相手を許せることが増えれば増えるほど、自分が許せなくなっていった。
  相手を深く理解できるようになればなるほど、自分が理解できなくなっていった。
  人を知る、許すという行為は、自分の可能性を広げると同時に、私が空っぽになっていく行為だった。
  八方美人とはちょっと違う。たまに私は不誠実じゃあないかと思う。
  強く信じているものなんてないし、強固な意志なんかももってないし、嘘は苦手だけれども詭弁は得意な人間だ。
  いかようにもとれる、空洞のような人間だ。

 当時の私は、鏡になりかけていたのかもしれない。
  相手の心を映すだけの存在。そこに自分は存在しないのだ。
  鏡が鏡に「あなたは誰?」と問いかけても、答えがあるはずがない。誰も映っていないのだから。
  誰かの心を、誰かの姿を映して初めて成立するような、そんな奴だった。

 もうちょっと人間味のある存在になれただろうか。
  必要なときはまた鏡に戻れるような人間だろうか。
  願えるならば、魂を持った鏡になりたいのだ。誰かの心を映して、だけど自分の感じ方も知っている、そういう魔法の鏡のような存在になりたい。