犯罪心理学のサディズムとSMプレイのサディズムは全然違う

 SMについて知らない人でも「お前はSっ気あるな」とか「私ドMなんですよ」とか言うことはしょっちゅうだと思う。
  私は自分の精神的なドMっぷりに自分でなんだかなと感じる瞬間はある。それくらい自分を虐めるのは大好きだったりする。
  そういう虐められっ子の空気を出していると、とても勘違いしたお兄ちゃんたちが近づいてくることもある。
「君は虐められると気持ちがいいんでしょ? 虐めてあげようか」というタイプの人だ。

 ええ、虐められるのは大好きですよ? 言葉責めも焦らしプレイも大好きです。自分の心をずたぼろにしてくださいと感じるときもある。
  だけどそれは全部「きもちいい」と感じる範囲でしてほしいのだ。
  自分好みの下種男に言葉でなじられるのはストライクだけれども、それ以外の男になじられるのはそいつが勘違いした下種男でなかったとしても、不快以外のなにものでもない。それを理解していない男が苦手だったりする。

 SMプレイを甘く見てはいけない。サディストを心得てない似非サドにハードなプレイさせると、とても怖いことを経験するだろう。
  自分の気持ちよさだけで突っ走ってマゾの気持ち考えないからだ。
  信頼関係といえば聞こえはいいかもしれないが、相手にどれだけ委ねられるかが大切だと思う。私もそんなに詳しいわけじゃあないけれども、SとMがお互いの嗜虐欲と自虐欲に対して奉仕するというべきだろうか。
  SMプレイしたこともないのにSMについて語ると、片腹痛いといわれそうだけれども、Sはいじめるのが好きな人じゃあない。虐められたい人の望むことを奉仕することで快感が得られる人のことをSって言うのだと思う。
  首しめて苦しんでいる様子にイく奴は変態って言うのだ、それは犯罪心理学のサディズムなのだ。首しめて相手が恍惚としているのを見てイくのがSMプレイのサドである。

 Mってなんだかんだ、自分に気持ちいいことしてくれる人を好きなのあって、苦しかったりきもちわるかったりする虐められかたは不可なのだ。
「生かすも殺すもあなたの勝手」と相手にゆだねたフリをして、その手綱を握っているのがMというイメージがある。
  だからSMには信頼関係というより、そういう意味での倒錯的な主従関係があるといえるかもしれない。
 
  何度も言うが、私はSMプレイには詳しくない。どちらかといえば犯罪心理学のサディズムのほうが詳しいくらいだ。
  だけど私にとってのマゾの気持ちというのは、どんなサドを探しているかというのは、SMプレイのSの気持ちMの気持ちよりもずっと自分にとってはリアルなので、私のSとMの考え方、SMの心得はそんなところなのだ。