創作に辛口であるということは悪口とは根本的に違う

 失礼な話、「私は辛口よ?」とか「私は本気でモノカキに向かっているけれども、あなたはそれほど真摯じゃあないのね」とか人に面と向かって言えるタイプの人間、もしくはそれをつまびらかにどこかで呟く人間は、本当の辛口な人間ではない。
  辛口という皮をかぶった、ただの口の悪い人間だ。
  プロの作家でも人の感性に口を出すときはとても慎重だし、編集者たちだってそこらへんは慎重だ。
  人の文章を正しく評価できると思っている時点で、自分を正しく評価していない。自分を過大に評価している時点で、人を評価するに値しない。
  真の辛口を発揮するのは、自分の体力も精神力も削る作業だ。

 だから私は、自分が辛口であることに疲れるし、真の辛口であるとは思っていない。
  ただ私の考える辛口は、辛口談義をするととても甘口になりそうな気がするというものだ。
  文章ってなんでもアリだ。ぶっちゃけ『自信ないから私を褒めて!』って言ってもいいし『辛口で的外れな批評書くけど、自分は甘口感想しか募集しない』と言ってもいい。
  モノカキとしての姿勢は、正直どうでもいいと感じる私だ。
  だけど人間として的外れなことする奴はモノカキになる前に、色々修行してこい。人間的に厚みのない考えしかない奴らにはモノを語る資格はない。
  これが私の考える辛口だ。

 さらに言うのであれば、なんでもありだと思う私は人間的に駄目でも文章的に面白いもの書く人もいると思っている。
  だけど人間的に薄っぺらいことを言う人は、小説が面白くてもモノカキとして薄っぺらいのだ。志とか魂とかモノを書く本能の部分とか、そういう部分が薄いのだ。

「人間的に紙のような奴だけど、物語は最高といわせる自信ある」
  って言えるだけ物語に厚み出せるならそれもありだ。だけど人の重さ分魂のってない人でそれをやるのはすごく難しい。すごく覚悟がいる。ある意味人間的厚みを求められるより、ずっと難しい。

 人間的に不愉快なキャラしているのもある意味、味というか厚みの部分だと思う。
  だけどそれすらできていないただの不愉快な人はせめて交流するレベルになるまでネットに触るなと言いたい。