三月の中旬、僕は最低限の荷物だけを持ってイタリアへと向かった。
  ローマで飛行機を乗り継いでシチリアのパレルモ空港に着いたあとは荷物を受け取って、そのまま待ち合わせの場所に移動した。
  最低限の荷物といっても、ただの観光客とは思えないくらいの大荷物である。十分目立つ。イタリアは窃盗が多いと聞いていたので、荷物の上に腰掛けてずっと待っていた。
  もう一生ここで生活するつもりだった。もしかしたらそのうち別の国に行くかもしれないけれども、日本にだけは帰らないつもりだた。
  紹介が遅れたけれども、僕の名前は不二早詩磨(ふじさきしま)。
  今年十六歳の男。中学は卒業したけれども高校には進学しなかった。そうして今、祖父の知り合いであるイタリアの友人のところへホームステイしようとしている。
  空港で待っている間、僕はしばらくこうなった経緯を思い出していた。もうこれから忘れる予定の、日本での出来事だ。

 不二早家は東京に古くからある名家のひとつだ。
  昔は随分と名の知れた一族だったらしいが、今となっては没落貴族もいいところ。土地代だけで食べていけるだけの金があったのにプライドの高い祖父が事業を起こして失敗した。
  その窮地を救ったのが僕の父親で、母と父は政略結婚をした。父は不二早家の名誉を守ったのは自分だと思っていて、祖父は父の家系を成金だと思っている。
  プライドの高いふたりはいつでもぶつかり合ってギスギスしていて、その間に挟まれた母親がいつも仲裁に入っていた。
  母親はとても美人で、性格もよかった。
  よかったというのは、母親が数年前に交通事故で死んでしまったから過去形なのだけれども、僕の唯一好きだった肉親が死んだ日から、僕はあの家を出て行くことだけを考えていた。
  どうすれば出て行くことができるか、それは僕が家名を継ぐのに値しない、価値のない人間だと思わせればいいと僕は考えた。
  パーティーに行けばその主催者に必ず恥をかかせるようなことをしたし、非行行為はもちろんのこと、犯罪にもけっこう手を染めた。
  そんな僕が中学最後の年で選んだ進路は名門校とはとてもいえないような工業高校。別に工業高校が悪いというわけではなく、そこの治安が悪いのだ。
「なぜ侑子が行った高校を受験しないのだ!?」
  不二早家は昔からずっと同じ名門高校を卒業している。全寮制のエリート校で、そこを卒業した人間の将来は約束されているなんていわれているけれども、たかだかエリート校を卒業しただけで将来が約束されているなんてことが今の時代であるわけはなく、箔をつけるためにみんなそこを卒業するだけだということくらい、僕にはわかっていた。
  僕はそういうプライドだけで生きるのは嫌だったんだ。
「高校卒業したらすぐ働きたいから、何かできること身につけておきたいし」
「いまどき大学も出ていない人間がどこかに就職できると思うなよ?」
  父親に睨まれても僕は面倒だなと思うだけだった。
  学校は嫌いだったけれども、勉強自体が苦手なわけではない。むしろ僕は本好きなほうだ。
  よく行く本屋の兄さんと友達だったのだけれども、彼は中卒でフリーターをしながら生活していた。
  資格なんてものは何ひとつ持っていない。それでも生活しているし、生活できる。
  人間は「これじゃなきゃだめ」なんて生き方はないということをお兄さんから学んだ。 僕は決められたレールの上を生きて父の家業や家名を継ぐなんて未来は嫌だったんだ。
「話がそれだけなら僕は部屋に戻るよ」
  父の制止も聞かずに僕は部屋に戻った。
  しばらくの間、部屋でごろごろ大人しくしていたけれども、そのうち暇になって時計を確認した。一時か……この時間だったら父は寝ているだろう。
  僕は部屋の鍵を開けると忍び足で外に出て、そのまま夜の市街を歩いた。まずはマックで腹ごしらえ、そのあと二十四時間営業の音楽専門店に入って好きなCDを買って、あとはぶらぶらと歩くだけ。それなりに目で楽しむ楽しみというものもあるよね、と思っていたときに、ふと目の端にあるものが飛び込んだ。本屋の裏口に誰かがぐったりと倒れていた。
  僕は思わず駆け寄ってからその脈がないこと、瞳孔が開いていることを確かめた。殴られた痕跡はなく、腹部に刺し傷があった。自分の服を見るとそこにべったりと血がついている。
「誰が……」
  こんなことをしたというのだろう。という疑問の前に、僕の思考は別の方向に動いていた。
「井山、お前ゴミ捨てに行ったきり煙草吸っているだろ。そろそろレジ替われよ」
  普段から僕とお話をしてくれるお兄さんが裏口の扉を開けたときに、僕と目があった。
「不二早くん、それ……井山。どうしたんだ?」
  お兄さんの声は震えている。死体を見たのが初めてなのだろう。
「なあ、死んでる……なんて言わないよな?」
「この人、死んでいるよ」
  僕は一呼吸置いて、言おうと思っていたことを口にした。
「僕がむかついて刺しちゃった」
  お兄さんは少しだけ沈黙して、聞き返してきた。
「なんだって?」
「だから殺したんだよ、僕が」
「不二早はそんなことをする人間じゃあないだろ! 何があったんだよ、ここで何が――」
  僕は血のべったりついた右手でお兄さんの首を掴んだ。
「お兄さんが僕のこと大切だと思うなら、警察呼んでよ。自首するから」
  僕に頚動脈を掴まれたままお兄さんがこくりと頷いた。
  これでいいんだ。これで僕は殺人罪の前科もちになって、不二早家を継がずに済む。

 ところが計画というのは思惑どおりになど進まないようで、僕は二日後に釈放された。祖父が釈放金を渡して一時的に家に帰すように仕向けたらしい。
  広い和室の中で祖父と向かい合って正座した。僕はこの祖父が、父よりも嫌いだった。母のことよりも家のことしか考えていなくて、僕のことよりも家のことしか考えていない。
「詩磨」
  僕の名前を祖父が呼んだ。
「警察の上層部に話は通してある。お前は通り魔に刺された被害者を見て、混乱した。そうだな?」
  僕は答えなかった。事実殺したのは僕ではないのだから、そうともいえるけれども、だけどこれが狂言だったと認めてしまっては僕はまた不二早家の跡取りに逆戻りだ。
「僕が殺しました」
「それは嘘だろう? お前の目が語っている」
「お爺さんに何かが見えるとでも言うつもりですか? 僕のことなんて、見ていないくせに」
  厳めしい顔を顰めて、祖父が渋面を作る。
  何か言いたげだったけれどもそれには触れずに彼は別のことを言った。
「高校は侑子の行った高校は嫌だと父さんに言ったらしいな?」
「はい」
「ならば留学してみるというのはどうだろう?」
  僕は怪訝に眉を顰めた。僕の考えていることが正しいかどうかを確かめるために聞いてみる。
「つまり、家名を汚すのは外国で汚せ、ならば日本まで伝わってこないとでも言うつもりですか?」
「そうだ」
  ああ、なんて愛のない人なのだろうと思った。だけどそれと同時にこれで僕はこの家から解放されるんだということも知った。
「留学の手続きをお願いします」
「イタリアに古い知り合いがな、いるのだよ。お前のような跳ねっ返りも平気で世話できそうな大物がひとり。そこにしばらく預けようと思う」
  祖父は一呼吸置いて、こう言った。
「だが詩磨、お前がもし家に帰ってきたい、家督を継ぎたいと思ったときには遠慮なく日本に帰ってきなさい」
「ご安心ください。そんなこと、万が一にもありませんので」
  僕の言葉に祖父は怒ると思いきや、少し意味深な含み笑いをした。何、すぐに帰ってくるさ……そんな表情だった。

 イタリア語を身につけるのは案外容易だった。日常会話や生活に困らない程度に読み書きできるようになるのは、受験勉強を真面目にやるエネルギーを全部イタリア語の学習だけに傾けてしまえばあっさりできることだ。
  僕はそうして、この地へと来た。
  冷たく何もいいことがなかった日本に「さようなら」すら言わずに、新しい地にせめてもの希望を託して。

 そんな回想をしているうちに、僕のことを探している様子の女性がこちらへやってきた。
  ゆるくウェーブのかかった長い金髪の、身長の高い女性だ。
  僕のほうを見るとすぐに「ciao! (こんにちは)」と話しかけてきた。
「シニョーレ・フジサキ、お迎えにきました。私の名前はサリタ=バッツィーニです」
  少し片言な日本語で彼女はそう言った。美人だな……そう思った。特に目が特徴的なんだ。映画で緑の目をした人はたくさん見るけれども、とても深い緑をしている。母さんが持っていたペリドットと同じ色だ。上質のペリドットはとても深い緑をしていてとても綺麗なんだ。
「よろしく、サリタさん」
  日本語が分かるなら日本語で話しかけてもいいかなと思って僕は母国語でそう返した。サリタはこちらを見つめて、
「あなたは小学生ですか?」
  と聞いてきた。僕は思わず顔を歪める。
「今年十六歳だよ」
「うっそ!? 私と同い年なんですか? 日本人って見た目がとても若いと聞きましたが本当に若いんですね。それにとっても肌がきめ細やか、綺麗です。Sei bellissimo!」
  セイベリッシモと言われてすぐにそれが君は超格好いいと言われたことに気付いた。
「ありがとう。君もすごい美人だよ」
「そうですか? ありがとうございます」
「だけど年上だと思った。二十歳くらいだって」
「いやだなー、あなたと同い年ですよ。駐車場に車駐めてあるので行きましょう」
  どうやら迎えにきたのはサリタだけではないらしい。僕とサリタで荷物をひとつずつ持って駐車場に行くと、サリタはある車の前で立ち止まった。
  あれ、これ名前は思い出せないけれどもすごく高い車じゃあなかったっけ? イタリアだし格好いい車が多いのかな。
  そう思いながら荷物を後ろに乗せて、後部座席に座った。サリタも隣に乗ってくる。前を見ると黒いスーツを着た男性がこちらをみてにやりと笑い、「ciao」と挨拶してきた。
  従者がいるってことはもしかしてこれから行く家はすごくお金持ちだったりするのだろうか。不二早家と古い知り合いだというのだからそういうことがあったって不思議ではない。

 車は市街を走ってある高層ビルの地下へと入っていった。
  車が止まったので着いたことを知るが、そこはとても人が住む雰囲気の場所ではない。どちらかといえば仕事場、そんな雰囲気だった。
「サリタ、ここに住むの?」
「まさか。まずはバッビーノ(お父さん)に挨拶してもらうんですよ」
  ここで働いているというわけか。職場に来ると分かっていたらもうちょっと身なりをちゃんとしてから来たのに、そう思いながらサリタに案内されつつエレベーターに乗った。
  エレベーターが止まって連れて行かれた部屋にはひとりの茶髪の中年がいた。その風格からして、この会社の幹部級の男だということは一目で分かった。
「君が侑子の息子?」
  サリタよりももっと綺麗な日本語で彼はそう言った。
「私の名前はアロルド=バッツィーニ。このバッツィーニ・ファミリーのカポだよ」
「よろしくお願いします。バッツィーニさん」
  しかし僕は、挨拶したあとに今された自己紹介を反芻して聞き返した。
「カポ?」
「そう。カポだよ」
「つまり……その、ここは」
  あらかじめ予習してきたイタリアの知識の中でカポという言葉はあれを指している。
「そう、君が思っているとおり。ここはイタリアマフィアだ」
  あの祖父は僕をイタリアマフィアに売り渡したらしい。
「ええと君の名前は、とても古風だね。ウタマロって名前なのだろう?」
「ウタマロとは読みません。近いけれども麿ではなく磨くという意味の磨という字で、シマと読みます」
  自分の名前はよく詩麿と読まれるけれどもそんなどこかの落語家みたいな名前ではない。
  アロルドは僕のほうに近づいてきて、気品あふれた顔で僕の頬にそっと触れた。
「侑子に似ているね。私は侑子にずっと恋をしていたのだよ。君は彼女にとてもそっくりだ、美しい」
  背筋がぞくりとした。僕は自分でもナルシストなくらい母親似の美形だと思っているけれども別に女顔なわけではない。もちろん、男色なわけでもない。
「頬にキスしてもいいかな?」
「やめてください」
  イタリアでは両頬にbacio(接吻)するのが挨拶だというのも予習してきたけれども反射的に拒絶してしまった。
  僕は基本的に人に触られるのも嫌だと思うタイプだ。今、自分の頬に触られているのも本当ならばやめてほしいくらいだ。
「まあイタリアの風習にはそのうち慣れればいいだろう。君に新しい家を用意したよ、私のところには数日に一度顔を出してくれればあとは好きに暮らしていい」
  ありがたい。こんな変態なおじさんと始終いっしょの家で暮らさず済むというのは非常に助かる。彼は僕に部屋の鍵と住所を渡してくれた。
「家は息子のエミリアーノに案内してもらえばいい」
「エミリアーノさんですか?」
「さっきサリタといっしょに迎えに行っただろう?」
  あの運転席に座っていた人か。顔はよく見えなかったけれども僕は部下だと思っていた。
  アロルドにお礼を言ってから部屋を出ると、そこにサリタはいなかった。まあ来た道を戻るだけだしな、と駐車場に戻るとダークスーツを着た長身の男が駐車場でミネラルウォーターを飲んでいた。
「エミリアーノさん?」
「おう。バッビーノと会ってきたみたいだな」
  彼も日本語が達者だった。これだけ日本語が上手い人がたくさんいると外国に来た気分にはならないな。
  それにしてもエミリアーノはサリタ以上の美形だった。父親に似ていないことから母親似なのだろうけれども、深い緑の目と蜂蜜色の金髪がとても綺麗だ。笑う顔がとても人懐こい。
「うちの父親ってさ、日本人から見るとちょっと変な人に見えないか?」
「まあね」
「シニョーラ・侑子にすごく執着していたんだよ。人妻だから結婚できないってのに何度も求婚して君の父親とかなり険悪だったらしいぜ?」
  エミリアーノは笑いながら運転席に乗り込んだ。僕は今度は助手席に座ってシートベルトを締める。
「エミリアーノさんはサリタと何歳差なの?」
「五つ差かな。今年で二十一歳だよ」
  車を運転しながら彼はこちらを見て、「不二早」と言った。
「エミリアーノでいいよ、俺にさんづけはいらない。お前のファーストネームも教えてほしいんだけど」
「詩磨」
「シマか。女の子みたいな名前だな」
「そう?」
「イタリアじゃあ最後がaで終わる名前は女の子の名前って相場が決まっているんだぜ? お前ちょっと女みたいな顔しているし変な虫に捕まるなよ? 道ばたでナンパされて食べていいのはジェラートまで、断るときはnoとは言わずにgrazie(ありがとう)って言うこと。それで駄目だったらSono Cinese(私、中国人なの)が一番効く」
「それ全部女に教えることでしょう? 僕は誰にもナンパされたりしないし、誰にもついていかないし、そして日本人だ」
  ぶっすりとした顔のままエミリアーノに答えると、彼は少しだけ苦笑した。
「まあたしかに、実際にそういうことがあるとは思っていないけれども念のためだよ」
「サリタは、美人だしモテるんだろうね」
「あいつそんなにモテねえよ。肌がすごく白いだろ? イタリア人は肌がこんがりが好きなのにあいつどれだけ焼いても赤くなるだけで全然焼けないから」
「ふうん」
「まあ俺はモテるけどな」
  自慢かよ。僕は彼の言葉には何も答えずに車の外を見た。シチリアは空も青ければ海も青い。潮の香りがしてきてとても心地好い。本当に日本を離れて異国にいるんだな。

 海辺の丘に駐まった車の後ろから荷物を下ろした。
「二階がお前の部屋だから。じゃ、俺はこのまま帰るからな? あ、そうそう」
  エミリアーノは近くにあった白い車を指差す。
「あれ、お前の車だから」
「え? いらないよ。僕の年齢じゃあ運転できないし」
「私有地で転がしておけよ。免許とるとき慣れているほうがいいし。鍵は差してあるから」
  彼は軽く手を手招きするような格好した。これはイタリアではバイバイの挨拶、予習しておいてよかったなと思いながら遠くなる車を見送った。
  僕の家は二階と聞いたけれども荷物を持ってたくさん移動するのは大変だからよかった。
  階段を上がってから玄関の扉に手をかけると、それはもう開いていた。
  閉め忘れかな? まあいいけれども。
  中に荷物を運びこむとベッドルームに女の死体がひとつごろりと転がっていた。綺麗に心臓を一突きである、抜かない限りは血は出てこないな。
  それにしても嫌なものを見ちゃったよ。僕は荷物を全部中にいれると死体を抱きかかえて下に降りた。車の中に死体を放り込むとキーを回す。ギアを入れてから部屋から持ってきた重りを使ってアクセルを固定すると車はゆっくりと海の方向へと走っていった。それがコンクリートの端から落ちて海の中へとぶくぶく沈んでいくのを見送って、僕は部屋に戻る。
  まあマフィアの使っていた部屋だもの、死体のひとつくらい仕事で使ったのかもしれないし、別に僕は死体がひとつ転がっていたくらいで動転するような性格はしていない。血のにおいなんて一時間で換気できるし、僕にとってはこの問題によって万が一にでも日本に帰されることのほうが大問題なのである。
  僕は別に貢がれ癖のある女ではないのだ。新しくもうひとつ家を買ってほしいなんて言えるわけがない。
  部屋はとても広く、だけどインテリアは綺麗な部屋とは裏腹にいまいちだなと思った。
  冷蔵庫を開けるとそこには腐った牛乳や卵があった。とんでもないね。
  ビニール袋がどこにあるのかわからなかったので仕方無く片っ端にベランダから投げ捨てた。生ゴミだし、下で肥料になることを祈って。すると上のほうから声がした。
「おーい、ゴミの分別くらいしろよ!」
  見上げると染めたわけではないと思われる茶髪の男。年齢は二十代半ばといったところかな。エミリアーノのような美形を見たあとには大して格好いいとは思わないけれども、普通の外国人の顔立ちだ。
  もしここが日本で、日本人の女が近くにいたらきゃーっと言うかもしれないという顔をしている。
「上の人?」
「そうだよ、上の住人だよ。あんたは誰だ?」
「今日から二階に住むことになった不二早詩磨だよ。よろしくね」
「じゃあご近所さんですね。このレズィデンツァ(高級マンション)には俺とあんたしか住んでないから仲好くしましょう」
「断るよ。ばいばい」
  軽く手を振ると、僕は部屋の中に入った。近所付き合いだなんて、そんな日本でもないのにしたいとは思わない。
  せっかく、ほとんどの人間が僕のことを知らない土地に来たのである。ここでは誰も僕のことを問題児とか不二早家の恥とは言わない。誰も僕のことを知らない。このままでいい、やっと普通に生活ができるのだ。
  僕は疲れたようにベッドに倒れこんだ。シーツから古びた香りがするのが気に入らなかったのでシーツを完璧に剥いでからもう一度倒れこんだ。
  明日この部屋を綺麗に掃除しよう、そう思いながら眠った。

 エミリアーノかサリタに部屋の掃除を手伝ってもらうべきかなと思うくらい部屋が汚い。
  だけどサリタは女の子だし、せめて人が死んだ痕跡くらい消しておかないと呼ぶなんてことは無理だ。
  家具類は使えると判断して残し、食器類は気持ち悪いから捨てることにした。 カーテンとベッドシーツ、食器と食べ物を買ってくる必要がありそうだった。
  僕自身はそんなに金を持ってきているわけではないけれども、日本を発つ前に祖父名義のクレジットカードを持たせてくれた。
  これを使えばしばらくは困らないだろうと渡されたそれだけれども、あの祖父のことである、僕を日本に連れ戻したくなったら容赦なくカードをストップさせるのは目に見えていた。となると……こっちで仕事を探す必要がありそうだな。
  とりあえず電話帳でゴミ回収の業者を呼んでからその車に乗せてもらって中心街まで出た。
  百貨店で今のうちに買えるだけ必要なものを購入して、タクシーを拾って帰った。
  真新しい黄色のカーテンを付け替えて、イタリア特有のガラガラした模様の食器を棚に仕舞う。冷蔵庫にチーズや野菜、肉類を為舞って流し台の下にワインを置いた。
  イタリアでは十六歳から酒を飲んでいいらしい。まあ僕は十三歳から酒はたしなんでいるのでまったくそんなのは気にしていないけれども。
  買ってきたばかりのハウスワインとスモークチーズを齧りながらテレビをザッピングした。別によくわからないイタリア語で流れる番組には興味はないけれども、どのチャンネルがどういう番組を扱っているのかその傾向くらいは知っておきたい。
  だけど元からテレビを見るタイプでない僕はいつの間にか寝ていたらしく、気付いたら夜になっていた。
「腹減ったな……」
  自炊ってそんなに得意じゃあないんだけれども。可愛い彼女とかできて僕に毎日料理を作ってくれればいいのに。
  そういえばサリタ可愛かったなあ。今日は顔を合わせていないけれども、彼女はあまりモテないってエミリアーノは言っていたし、もしや僕にも勝機があったりするのだろうか。
「まさかね、僕がサリタみたいな可愛い子と付き合えるわけがないじゃあない」
  自嘲気味に笑ってから僕は今日買ってきた味噌で味噌汁と、あとはジャガイモとにんじんと豚肉しか入っていない肉じゃがも作った。シラタキはどこを探してもなかった。当然だ、ここは日本じゃあないんだし。
  自分で初めて作った肉じゃがはとんでもない不味さだった。これからしばらくこんな食事を食べて生活するしかないのかと思うと絶望的だった。
  日本からレシピの本を一冊持ってくるべきだったと今頃になって後悔した。
  しばらくするとインターホンが鳴った。誰かこんな時間に訪問する人なんていたっけと思いながら警戒しつつ扉を開けると、上の住人が笑顔で立っていた。
「お前さ、日本人? 中国人?」
「日本人」
  エミリアーノに中国人と言うとナンパしてこなくなると教えられたけれども、別に彼はナンパ目的ではないだろうから本当のことを言っても問題ないだろう。
「やっぱりなー。日本人は米が主食のくせに鍋で米が炊けないって本当? 困っているだろう、あんた」
「さっきすごく芯のあるご飯を食べたばかりだよ」
「だと思った。じゃーん、これなんでしょう?」
  彼は炊飯ジャーを取り出してこちらに見せ付けてきた。
「数年前に興味半分で輸入してみたんだけれどもあまり使ってないからどうかなと思って」
「Grazie mille!(どうもありがとう)」
  柄にもなくお礼を言ってしまった。彼はもうひとつ何か道具を取り出す。
「あとな、日本の家電製品は変圧器をつけないと使えないんだよ。知ってたか?」
「いや、全然」
「だろうと思った。ちょっと上がるぜ?」
  彼は冷蔵庫の近くにあるコンセントに変圧器をセットして炊飯ジャーと繋いでくれた。
「俺さ、ずっとここにひとりで住んでたし、ご近所づきあいとかほとんどなかったんだよな。困ったことあったら言ってくれよ」
  イタリア人ってみんなこういう風に親切心に溢れた人間ばかりなのだろうか。なんだかちょっとむず痒いような気もするけれども。
「あなたの名前ってなんていうの?」
「ヴァレリオ=ラッツァリーニ」
「舌噛みそうな名前だね」
「最初のラはLの発音でリーはRの発音で巻き舌。らっつあうりーにって発音するときっと日本人としては近くなるんじゃあないかと」
「発音できないとは言ってないよ」
  ヴァレリオは僕のほうをじっと見てきた。なんだ? もしやこの人エミリアーノが言っていたみたいにナンパ目的だったりしないよね? 
「不二早ってさ、ボスの初恋の相手の息子なんだろう?」
「は?」
「アロルド=バッツィーニに可愛がられているんだろ?」
「可愛がられているっていうか……」
  あの変なおじさんとは極力関わりたくないのだけれども、たしかにこんな広い家をひとつ用意してくれたんだし、可愛がられてはいるのだと思う。
「ヴァレリオはあのファミリーで働いているの?」
  可愛がられているという話題には触れずにそう切り返してみた。
「どう思う?」
「部下じゃあないの?」
「イタリアマフィアってたとえ同じファミリーの人間だとしても上司がOK出さないと自分の身分明かしちゃいけない決まりなわけよ。面倒だよね」
  本当面倒だね。エミリアーノかサリタがこないと彼は僕に自分が部下だと言ってはいけないらしいよ。まあ間接的に臭わせてくれたから聞かなくてもわかるし、突っ込まないけれども。
「ねえ」
「なんだ?」
「そのファミリーさ、僕が働くとかいうこともできるの?」
「お前さ、コーザノストラに入るってことの意味わかってる?」
「コーザノストラ?」
「イタリアマフィアは自分たちのことをコーザノストラと呼ぶんだよ。それはそれは厳しい決まりごとが色々ある上に、一度入ると抜けるのは死んだときのみというとてつもなく厳しい掟の場所なんだ。お前日本人だろ? 人も殺したことがないくせにアウトローな世界に足踏み込むなよ」
  反論することができなかった。
  僕は家族に人殺しだと思われているけれども実際に誰かを殺したことがあるわけではない。
「でもなんでマフィアに入りたいなんて思ったんだ?」
「仕事が欲しいんだよ。いつ仕送りが打ち切られても日本に帰らなくて済むように」
「ボスに相談してみたらどうだ? もしかしたら世話してくれるかもしれないし」
「あのおじさんの世話にはあまりなりたくない」
  僕がアロルドのことを拒絶しているのがわかったらしく、ヴァレリオは
「エミリアーノには言ってみたか?」
  と聞いてきた。
「あいつはアンダーボスをやっているから地位的には少し下だけれども、人の世話するのが大好きな奴だし、内緒で何か仕事くれるかもしれないぞ?」
「本当?」
「嘘をついてお前をぬか喜びさせて何か俺の得になることってあるの?」
  たしかに何もない。
  エミリアーノはいい奴に見えたし、僕が頼ればもしかしたら何か仕事をくれるかもしれない。

 翌日、あの高層ビルに向かった僕は受付でエミリアーノを呼んでもらった。
  しばらく待っていると姿を現した彼は品の良いスーツ姿でこちらに軽く手を振ってから頬笑んだ。
「親父に会いにきたのか?」
「いや、エミリアーノに会いにきたんだ」
「俺に?」
  不思議そうな顔をするエミリアーノに、仕事が欲しいこと、アロルドを頼りたくないことを説明すると彼はまた苦笑いをした。
「うちのバッビーノを嫌わないでやってくれよ。侑子が大好きだったこと以外は普通の男なんだからさ。そりゃあお前から見れば自分を侑子の生まれ変わりみたいに見られるのが嫌なのはわかるけれども」
「エミリアーノには悪いけれども僕は居心地が悪いんだよ」
「まあわからないでもないよ。詩磨はきっと人に触られるのも嫌なタイプだろ?」
「当たり。正直誰かとハグするどころか握手するのだって嫌なんだ」
「触れ合いってとっても大切だと思うけれどもなー。でもまあ、俺がお前のこと世話してやるのは別に構わないけれども?」
「本当?」
  顔を輝かせた僕にエミリアーノは意地悪そうに口の端を持ち上げて笑った。
「サリタと同じ高校に編入できたら学費はおろか、イタリアで生活する費用は全部俺が負担してやる」
「サリタはどこの高校に行っているの?」
「サリタは今高校じゃないよ、大学生。あいつはとんでもなく頭いいんだよ」
「……。大学、行ってるの?」
「大学行ってどうするつもりだろうな? なんか日本が好きみたいでさ、日本語勉強しているけれども……そうだ! 詩磨、お前サリタに日本語教えてやるつもりないか? あいつのやたらレベルの高い高校に編入するよりもそっちのほうがずっと楽だぜ?」
  そんな頭のいい女の子に教えられるほど僕は日本語が達者だっただろうかと少し考えた。もしかしたら僕よりも日本語ぺらぺらだったりするんじゃあないかな。
「……がんばる」
「偉い偉い」
  僕の頭を撫でようとしたエミリアーノが寸前で手を止めた。
「、と。いけね。お前たしか触られるのは嫌いだったんだよな?」
  エミリアーノはかわりに懐に手を突っ込むと財布を取り出した。中から数枚ユーロ紙幣を取り出すとそれを僕に握らせる。
「とりあえず俺の今財布にある中身で渡せそうな金額はこれくらいだな。数日以内に口座とカード作っておいてやるから、それまでこれで食いつないでおけよ」
  そう言ったエミリアーノが消えたあとに手のひらを見てみた。合計七百ユーロ。単純計算十万円くらいか。え? それ普通に渡していい金額なの? イタリアマフィアは儲かるとはいったって、そんなに金渡してエミリアーノの財布の中身は大丈夫なのだろうか。
  僕はとりあえず自分の財布に金を仕舞って、それを大事に使おうと思った。
  ビルを出て喉が乾いたからジュースでも飲もうと思い、バールを探した。バールがないわけではない、むしろたくさんありすぎてどこに入るべきか迷うのだ。
  ふと、テラスでひとり珈琲を飲むサリタを発見した。
「サリタ!」
  声をかけてみると彼女は顔をあげてこちらを見た。
「詩磨、一日ぶりですね」
  入り口でアイスティーを一杯注文してからそれを持って彼女の座るテラスまで行った。テラス席は高めだけれども彼女は毎回テラスで飲むのが当たり前のようで、テーブルの上には分厚い洋書が乗っていた。
「サリタは今大学の帰り?」
「ええ、そうです。詩磨は留学してきたってことはそのうちどこかのスクールに通うつもりでしょう?」
「今エミリアーノにサリタの行った高校に編入しろって言われたところ」
「あそこに行くつもりですか?」
  サリタは少し怪訝な顔をした。何か嫌な思い出でもあるのだろうか。
「あの高校は治安が悪いんです。私はマフィアのボスの娘ってわかりきっているから誰も手出しをしてこなかったけれども、でもけっこう酷い目にあった友達とかもいました。だからあまりお薦めしません」
「ふうん。サリタが治安の悪い高校に行くイメージとかなかったな。なんだか育ちのいい女の子の行きそうなお嬢様女子高とかに行くイメージがあった」
「そうですか? 詩磨も不二早のおじさまが言うような躾のなってない子には見えないけれども」
  そんなことを父親は言ったのか。なんだか少し腹立たしい。
「サリタ、日本語勉強しているんだって?」
「はい。日本相手の貿易関係の仕事をするつもりなんです」
「へえ、格好いいね」
「あっちのマフィアはヤクザって言うらしいですね。麻薬高く買ってくれるでしょうか?」
  サリタもマフィアのひとりだったことを僕はすっかり忘れていた。貿易って密輸関係ですか、と胸中突っ込みをいれた。
「もし君がよければだけれど、僕が日本語教えようか?」
「本当? いいんですか?」
「その代わりサリタがイタリア語教えてよ」
「詩磨はイタリア語の発音とても綺麗です。文法もちゃんとあっているし、むしろネイティブなイタリア人よりもちゃんと話しているんじゃあないかしら?」
「そう?」
  僕は気をよくしてにっこりと笑った。サリタは可愛いだけでなく性格もいいなあと思いながら。
「どこで教えてくれるんですか? 詩磨の家に遊びに行ってもいいの?」
「え……」
  あの死体が転がっていた部屋に彼女を案内していいものか少し逡巡したあとに、拒絶するのもおかしいかなと思って僕は頷いた。
「じゃあ今から行ってもいいですか?」
「あ、待って。先に食器専門店行かない?」
「何か買いたいものが?」
「サリタのマグカップがないとお茶も珈琲も何も注げないから。一個しかないんだ」
「それはたしかに喉渇いたときに困りますね」
  回し飲みでもいいならば別だけれども、やっぱりこれから何度も来るとわかっているならば買ったほうが得策だろう。
  店に入って何がいいか見ているサリタを待った。彼女は苺の絵柄が描かれたものとさくらんぼの絵柄が描かれたものを睨みながら悩んでいるようだった。
「どっちが可愛いと思いますか?」
「ふたつとも買えばいいじゃないか」
「私はふたつ同時に使うのは無理だし」
「だから、サリタがその日使いたいほうを使って、逆のほうを僕が使えばいい」
「でも詩磨はもうマグカップ持っているんでしょう?」
「三つあって不自由することはない。誰かもうひとりくらい来ることだってあるかもしれないしね」
  レジにふたつを持っていって会計を済ませた。
  荷物を持ったままバスに乗って自宅まで帰ると、部屋の中に案内した。
「ここが詩磨の家?」
「そうだよ」
「インテリア少し変えましたか?」
「ちょっとだけね」
  少し腑に落ちない顔をしたサリタが不自然に見えたけれども、気にする必要もないかとあえて触れずに珈琲を二杯入れてからそれを飲みながら彼女の日本語教材を見つつ勉強を教えた。
  彼女は日本語をぺらぺら話すからきっと書くのも得意だろうと思っていたけれども、漢字を覚えるのが難しいと言ったので漢字のへんの作りの説明をした。
  僕は自分で思っていたよりも国語に強かったらしく、彼女の質問にはだいたい答えることができた。
  彼女は勉強中何度も「詩磨はとても頭がいい」と賞めてくれた。
  たしかに僕は頭がいいほうだけれども、飛び級して大学に行ってしまうような十六歳の女の子に頭がいいと曰われるとそれはそれで少しむず痒い。
  夕方の暗くなる前の時間に彼女は帰ると言った。バスストップまで彼女を送っていって、そして帰ってきたらレズィデンツァの前でヴァレリオがにやつきながら立っていた。
「何。気持ち悪いな」
「不二早、お前がサリタのことを好きだったなんて知らなかったよ」
「好きだなんて言ったっけ?」
「いやお前は絶対サリタに気があるだろ? そしてサリタも気があるよ」
「そんなわけないでしょ。からかわないでよ」
  家に入ろうとした僕の手を引っ張ってヴァレリオはこう言った。
「サリタはお前のことをすごく賞めなかったか?」
「……賞めてた」
「それで気をよくしたお前は彼女を部屋へと招待した。違うか?」
  前後は少しずれがあるものの大方の流れはあっている。ヴァレリオはにやりと笑った。
「サリタの作戦だよ、それ。お前と仲好くなりたいんだって」
「……それ本当なの?」
「イタリアの男は日常的に口説くけれども女だって日常的に誘われるのに慣れているからな。なかなか手口は巧妙だ」
  なんだか複雑な気分になった。サリタが僕に気があるのは少し嬉しいけれども、なんだか口車に乗せられたような気になる。
  ヴァレリオが僕のほうを見てから耳打ちをしてきた。
「不二早、お前さ……日本ではともかく、イタリアではモテないほうだろう?」
「は?」
「あまり女性に先回りして配慮することができないタイプだろうって言っているんだよ。はっきり言うとここでモテるのは顔のいい男よりも面白い男だからな、お前とても綺麗な顔しているけれども性格がつまらなさそうだ」
「んな!? 何言い始めるかと思ったら失礼な奴だね。たしかに面白い性格していないけれども別に女を求めてイタリアに来たわけじゃあないし」
「俺が教えてやろうか? 女性と付き合うためのノウハウを」
「エミリアーノに聞くからいいよ」
  ヴァレリオに掴まれた手を振り払って、僕は階段を上がって家の中に入った。
  握られた手が気持ち悪い。ヴァレリオに悪気があったわけではないことくらいわかるけれども、なんだか触られたところから人に侵食されているような気分になる。そこだけ僕の躰でないような気分になる。
  そういえばエミリアーノは触ってこないけれども、サリタに触られても嫌な気分にはならなかった。
  女だからということはないと思う。僕は誰に触られても拒絶反応が出る。日本にいる間、僕に好きと告白してきた女子はけっこういて、そして何人かと付き合ったこともある。だけど触られるのがとても駄目なんだ。キスなんて以ての外だし、手を繋ぐのすらだめだった。
  一番長く付き合ったのはひとつ年上の女の子で、僕にまったく触れてこないという条件はもちろん、話が上手で美人で頭もいい人だった。だけど彼女はとても自信家で、男が自分に惚れるのは当然だと思う人だった。
  僕は彼女が嫌いではなかったけれども、父や祖父同様、プライドの高い人間が苦手である。
  彼女はその自信に見合うだけの器量を持ち合わせていたので、僕の自尊心を傷つけることも自分の自尊心を傷つけることもなかった。だけどたった一度、僕に
「詩磨くんは私に『綺麗だよ』とは絶対に言わないわよね?」
  と言ってきたことがあった。
  彼女はたしかに綺麗な人だったと思う。だけど僕は母親譲りのこの容姿にだけはすこぶる自信のあるナルシストで、瞬時に彼女の容姿と僕の容姿のどちらが勝るかを比較した。贔屓目抜きに僕の圧勝である。
「君は賢いようで存外鈍いんだね。君のことを好きじゃあないからだよ」
  そう言ってみた。
  僕は生まれながら貴族の血を引いた血統書つきで、家は金持ちで、頭がよくて美しい。他にもあげればキリがないほど僕は完璧なオプションを持っている。そう、僕もあの忌々しい不二早家のがちがちのプライドの中で生きている人間のひとりなのだ。
  僕は本能的に知っている。自分につりあう存在など、女の中にはおそらくいないであろうことくらい。
  だけど僕は男に走るつもりはなかったし、自分とはつりあわない欠けた″存在だとしても、囲っておけばそれなりに暇つぶしになることも知っていて、それで十分だと思っていた。
  別に僕がナルシストなわけではなく、周囲の存在が遜色るからいけないのだ。
  だけどこっちのイタリアにきて化け物じみた美形をひとり発見した。エミリアーノである。イタリア人のベリッシモはとてつもなく美形だと聞いたことはあるけれども、あれはハリウッド映画の男優の中にだってそうそういるレベルではない。奴らは所詮人間じみた顔をしているけれども彼は何かの芸術品のような存在だと思ったから。
  もちろんそこまで化け物じみてはいないにしろ、サリタも十分美人だった。
  もしかしたら、僕は初めて自分から女と付き合いたいと思ったかもしれない。
  彼女が美人だからというより、僕の足りないところを埋めてくれるような気がするから。
  豊かな感性、知的な会話、笑顔、やさしさ。賞めすぎかもしれないけれども彼女が好きなのは本当だと思う。
  ずっと非行にばかり走っていたし、女性の扱いなんて心得ているわけもなく、僕は物を壊すのも得意だから彼女を傷つけるのではないかというのが怖い。それなのにやさしい嘘をついてあげるくらいならば多少捻じ曲がっていても本当の感情でサリタに接したいと思う、稚拙な僕。
  傍にいるだけで満足しているはずなのに、いつの間にかそれ以上を求めようとしている。
  ああ、僕はどうして彼女の前で臆病なのだろう。なんだか僕らしくないなと思って一言「殺せれば楽なのに」と呟いてから電気を消してベッドに倒れこんだ。

 彼女がめきめきと日本語を身につけるならば、僕もサリタに負けないスピードでイタリア語を習得しなくてはいけない。
  エミリアーノは僕をシチリアの高校に行かせたいらしい。高校といわずに大学に行くレベルの勢いで勉強してやると思って本屋でたくさんの参考書を買った。
  立ち読みしたときに中身を見たけれども、全部イタリア語で書かれていてこれを本当に僕が全部覚えられるの? と少し不安になった。だけど頑張ってみることにした。
  小さな食堂でアンティパストとパスタを頼んだらドルチェまで手が回らないうちに腹がいっぱいになってしまった。
  細いわりには食べるといわれていた僕ですら食べられない量が出るって、イタリア人はよくこれだけ食べても筋肉質でいられるよね。店の中を見渡してもみんな胸板が厚くて肩幅ががっちりしている。
  サリタもああいう屈強な男のほうが好きなのだろうか。エミリアーノもヴァレリオもマッチョとまではいわないけれども相当がっしりした体型だ。
  エミリアーノが僕のことを女みたいと言っていたのは顔や性格がというよりはどちらかといえば体型がという意味だと思った。
  バスストップからレズィデンツァまでは随分距離がある。人が苦手な僕にとっては好都合でもあるけれども、今日みたいなたくさん荷物があるときにこれはちょっとだけキツイ。
  長い距離をたらたらと歩いてついた自分の家の扉を開けた。ただいま我が家、とりあえず参考書を読む前にコーラが飲みたい。
  そう思ったのは束の間で、玄関の内側に転がっている死体に僕の思考は一瞬止まった。
  金髪に碧眼のティーンエイジャーの死体だった。一瞬サリタが死んでいるのかとさえ、思った。
  また心臓を一突きされて死んでいる死体を見下ろす。誰かがここで僕に嫌がらせをするために殺しているのか、それともこの女がここでたまたま自殺したのか。
  どちらもありえない話だった。だってここの鍵を持っているのは僕と、昨日僕が合鍵を渡したサリタだけだから。
「じゃあサリタが殺したっていうの?」
  僕はしゃがみ込んでその死体のナイフに触れてみた。指紋はつくかもしれないけれども気にしない。
  しっかり根元まで刺さっている。女の力でこれだけしっかり刺すのは一苦労しそうだった。ということはサリタが犯人という説は薄い。
  だとしたら何故こんなところに死体があるのだろうと思いながら、その死体を抱えて階下へ下りた。
  ヴァレリオはこの時間は勤務時間だろうし、見つかる心配はない。近くを見るとトラックがあったので、それに死体を乗せて上から青いビニールシートを被せてベルトで固定した。
  車を運転したことはなかったし、運転席が左にあるというのも初めての経験だったけれども人気のないところまで車を走らせた。
  僕は死体は怖くないし、死体ではないにしろ、ぼこぼこにリンチした人間をどこに隠すと見つかりにくいかくらいは知っている。
  その応用で持ってきたスコップで地面を掘って死体を埋めると、土の情報がスコップに残らないようにきれにに払ってから帰宅してヴァレリオが帰ってくる前に洗車して乾かした。
  あの女の死体と僕は接点0なのだから、死体を自分が始末してしまえば犯人像なんて見えてこないはずだ。
  部屋に戻って疲れてぐったりしているとピンポンとインターホンが鳴った。今はあまりサリタに会いたくないんだけれども…そう思いながら玄関を開ける。
「やっほー、いい酒手に入ったんだよ。いっしょに飲まないか?」
  四階のヴァレリオだった。面倒なご近所さんだと思いながら中に入れる。
  赤ワインを一本持ってきたようなので冷凍庫の中からこの前作った茄子とひき肉の炒め物を出してレンジで温める。ブルーチーズをオリーブ油の中に漬けたものを生ハムとかいわれ大根と和えていっしょに並べた。
「おおー。少年、家庭的じゃあないか」
「普通だと思うけれど?」
  買ってきたばかりのマグカップをふたつテーブルに置くと、ヴァレリオは笑った。
「可愛いマグカップだな。サリタの趣味か?」
「だとしたらなんだっていうんだよ」
「なあ不二早ってあいつのことが好きなんだろう? 俺応援しているんだけれども」
「しなくていいよ。自分でなんとかできるから」
  具体的に何をなんとかするつもりなのかはまったく考えないままそう言うと、レンジからおつまみを取り出して、ワインをマグカップに注いだ。
「俺さ、イタリアワインも好きだけれどもフランスワインも好きなわけよ。とても濃厚でいいよなー?」
  ワインの味がわかるほどたくさん飲んではいないけれども、舌の上で転がしてみるとたしかに濃厚だった。
  イタリアワインはけっこうライトなものが多いのに、フランスワインときたら完璧にフルボディなのだから、口に含むと渋い味が広がって不味いと思った。
「味わってる?」
「不味いからさっさと飲もうと考えているけど」
「ボルドー産だぜ!?」
「ああどうりで。キツイわけだ」
「どこが好きなんだよ?」
「シャンパーニュ」
「三鞭酒じゃねぇか。俺は赤のほうが好きだ」
「君の好みなんて僕聞いてないよ」
「これな、シャトー・シサックっていうちょっと口コミで有名なやつでさ、どうだ、味」
  そこで僕は口の中に広がったその味の感想を端的に、言ってみた。
「血の味みたいだ」
  だからフルボディは嫌いだと呟いた。

 それからまた、しばらく経った頃の話である。家に帰ったらまた死体が転がっていた。金髪碧眼の若い女の死体。
  僕は玄関にしゃがみ込んだ。
  別に誰が死のうが、僕には関係ない。だけど自分の好きな子と同じ特徴の女が二度も家の中で死んでいた。こんな悪趣味な悪戯はたくさんだ、そう思った。
  死体を持ち上げるとそれをまた車に運んで、この前と同じようにてきとうなところに捨てると自宅に戻った。
  この部屋は死体を孕むのだろうか。僕がいない間に、子宮が小さな種を命に育て上げるように、僕の中に潜む密やかな悪意を拾い上げてそれを容にしているとでもいうのだろうか。

 はっきり言って、僕はたまに世界中の人間は全員死んでしまえばいいとすら考える、そういう幼稚な中学生の延長線で生きている奴だ。
  だけど死体がこれで三体目。みんな死んじゃえとは思っていたけれども一般人が見る殺人死体の数としては多すぎる。
  アロルドに言って部屋を変えてもらおうか。だけどアロルドだって自分の娘と同じ特徴を持った女の死体が二度も僕の部屋に転がっていたとなると、きっと僕を疑うだろう。
  人を殺したことはないけれども、僕はきっと人を平気で殺せるタイプの人間だと思う。人を殺して罪を問われるまで、何故人を殺してはいけないのかがわからない、倫理観の乏しい奴なのだ。
  百歩譲って、アロルドに疑われるところまではいいとしよう。だけどサリタに僕が人殺しだと思われるのが嫌だった。
「僕は殺していない……」
  僕がサリタを殺したいと思っているわけがない。

「最近詩磨は元気ないですね。寝不足ですか?」
  しばらくぶりに僕の家を訪ねてきたサリタはベッジュマンバートンのヴァニラティーと手作りのパウンドケーキを持ってきてくれた。
  彼女の兄、エミリアーノがサリタのお茶以外は飲まないというのは、彼自身から聞いて知っている。そんなに美味しいものかと思いながら口に運んでみるが、上質なラム酒のような香りのする、甘さひかえめのヴァニラは素直に美味しかった。
  しっとりとしたパウンドケーキを口に運びながら、「君と同じ大学に行こうと思って勉強中」と答えた。
  別に嘘ではないけれども本当のことでもない。僕の元気がない理由は睡眠不足なんてそんな生易しいものではないのだから。
  サリタはもしかしたら嘘だと気づいているのかもしれないけれど、僕が拒絶の意思でその嘘を吐いたことは明白だったので深くは突っ込んでこない。
「この建物すごく立派ですよね。広いし、綺麗で」
「そうだね」
「他に誰か住んでいるんですか?」
「四階にヴァレリオというハイテンションな男が住んでる」
「ヴァレリオさん以外には?」
「誰も住んでないんじゃあないかな。確認したことはないけど」
「ご近所に挨拶しなかったんですか?」
「どうでもいいし」
  自分で言うのもなんだけれども、僕はきっと日本の田舎に行けば間違いなく村八分にされる人種の人間だと思っている。どう努力したって村八分にされるくらいだったら最初から何も努力しないほうが得策ってものだ。
  僕は努力すれば報われるという言葉は嫌いだけれども、誰も自分のことをわかってくれる人なんていないという考えも嫌いだ。
  たとえば学年全員に嫌われたとしてもたかだか二百名程度、東京全体の同い年の学生から見れば微々たる数だ。それなのに誰にも理解されないなんていじけるのはただ自分がそう思うほうが楽に生きられるからだと思う。
  僕は自分から理解してくれる人間を探したりすることはないけれども、希望そのものを捨てているわけではない。
  たとえ日本で理解してくれる人が誰もいなかったとしても、イタリアで誰も僕のことを理解してくれる人がいないなんてことはないと思っている。
  だけどそういう個人的なヒューマニズムとは別に、この部屋に自動的に死体が転がっているというものは誰かに理解してもらおうと思ってもそうそう理解される内容ではないことは知っている。
  たとえばここでサリタにこのことを打ち明けて、サリタがここにしばらく泊まって死体が出てくるか見てやると言ったとしよう。死体が出てこなかったら僕はただの妄想癖だし、もっと最悪の事態を想定するのならば、今度の死体はサリタ自身なんてことだって考えられるのだ。
「サリタ、この部屋の合鍵って君と僕と、あとアロルドのマスターキー以外に存在するの?」
「え……前にこの部屋に誰か住んでいたかってことですか?」
「そういうことだよ。この部屋は何かに使われていたんだろうかってこと」
「バッツィーニ・ファミリーの私物ですから何かに使われていたかもしれませんが、だとしても詩磨が住むことが決まった段階で普通鍵を取換えると思いますよ?」
  そうだよね。
  僕は頬杖をしてため息をついた。普通は鍵をそのままなんて無用心なことはしないだろう。アロルドがそんなうっかりをするはずもない。
「どうかしたんですか?」
「ちょっと最近ミステリー小説読んでね、部屋の合鍵をもうひとり誰か持っているっていうすごく馬鹿馬鹿しい種明かしの密室トリックで腹が立ったんだ。時間の無駄したって」
「身もフタもないミステリーですね」
「でも自分の家の鍵を第三者が持っているという可能性がどれだけあるんだろうってちょっと考えたんだ。もし君がまったく君を知らない誰かの鍵を持っていたら何をする?」
「うーん……泥棒、とか?」
「あとは?」
「その人の秘密を探るとか……」
「嫌がらせとかする?」
「しませんよ。私のこと知らない人の家にそんなこと」
  そう考えると、この部屋に何か仕掛けてくる第三者がいるとしたら、それは自分のことを知っている誰かということになるか。
  こちらでの知り合いなんてアロルドとサリタとエミリアーノくらいしかいないのだけれど、そのどれもが自分にそんなことをしてくるような関係ではない。少なくともそう思いたい。
  もしアロルドが自分に靡かなかった僕の母さんを恨んでいて、その息子の僕に復讐をしてやろうとか考えていたとしても、こんな人をたくさん殺す方法は使わないだろうし、そしてその題材に自分の娘そっくりの死体なんて使わない。
  エミリアーノやサリタに至ってはそれこそ嫌がらせをする理由そのものが見当たらなかった。
「エミリアーノってサリタにとってはどんなお兄さん?」
  念のため、探りを入れてみることにした。
「すごく優秀な兄ですよ。大学は出ていませんが高校時代からずっとバッビーノの下で仕事をしているからバッビーノも安心して仕事を任せられると言っています。たまにちょっと茶目っ気のある悪戯とかしますけれど、やさしいし大好きです」
「あととてつもなくベリッシモだよね」
「そうですね。あれはこの世の限界に挑戦したベリッシモだと思います」
  サリタはあれより綺麗な男を見たことがないと呟いた。
  まあたしかに認めるよ、彼はとんでもない美形だ。彼が隣にいるのが当たり前になったサリタにとって、僕なんて普通のつまらない男だろう。
「だけど詩磨もベリッシモですよね」
「そう?」
「はい。アジアンビューティーってたぶんあなたみたいなのを言うんだと思います」
「そうかもね」
  否定はしない。エミリアーノほどではないにしろ、僕だって綺麗な顔をしているのだから。
  だけどこっちに来てから、それがどれだけ意味のないことか知った。
  イタリアの女性は外見やオプションよりもどれだけ内面が優れているかを優先するみたいだった。
  サリタが言うにはキャリアウーマンが失業中の男性と付き合っていることだってあるそうだ。
  一時的に社会的な地位がどうかという問題よりも、いっしょに過ごしていて楽しいと思う人といっしょにいたい。そう思う女性が多いらしい。
  本当にプラトニックな感情なのだろう。僕がサリタといっしょにいたいと思うように、彼女も僕といっしょにいたいと思ってくれればいいのに。
「詩磨」
  ふいに名前を呼ばれて僕は視線をあげた。
「あなたといっしょにいるのは、とても楽しいです」
  君は、僕の心の中なんて全部見透かしているみたいなタイミングでいつも僕の望む言葉を言ってくれる。
  君がもし他の誰か違う男と付き合うことになっても、僕は君と出会ったことを後悔しないだろう。君はとても素晴らしい女性だ。アロルドにとっての僕の母さんは、こんな存在だったのだろうか。

 文庫本を読みながらバスストップで待っていたら、見慣れた車がこちらに向かって突っ込んできた。唖然としていると車の扉が開いて伸びてきた手が、僕の腕を掴んで中に引きずり込んだ。そのまま車がスタートする。
  自分の推理が正しいかどうかを確かめるために引きずり込んだ相手を見てみるとやっぱりエミリアーノだった。運転席には違う黒スーツの男が座って運転している。
「お前さー、サリタとばかり遊んでいないでたまにはバッビーノにも顔出そうぜ?」
「アロルドに顔見せろっていうの?」
「そうだよ。ずっと顔見せてないんだろ? 『詩磨は元気にしているのだろうか』ってずっと心配していたぜ? サリタが元気にしているって説明してもちょっと納得してないみたいだったし」
「どうして?」
「サリタが嘘ついているのがわかったんだろ。『ちゃんと食べてないんじゃあないか』ってバッビーノが言っててさ、仕方がないから俺が食事に誘うって言っておいたよ。お前はバッビーノに会いたくないんだろうし、だけどバッビーノもきっとお前が元気かどうか確かめないと安心しないだろうしな」
  エミリアーノは本当によくできた性格をしていると思う。
  本来ならば高級料理店に入りたかったらしいけれども、僕がスーツは嫌いだと言ったからちょっとした美味しいトラットリアに入ることになった。
  家庭的だけれどもとても美味しい料理がたくさん並べられ、僕とエミリアーノは最近何をしていたのかお互いのことを話し合いながら料理を食べた。
  だけど結局、死体の話をすることはできなかった。

 しっかり夕食を食べ終わったあと、九時を回ったくらいに家に着いた。今日は死体がありませんようにと祈りつつ扉を開く。
  何もないことに胸を撫で下ろしてリビングに入ると、そこに冷めた味噌汁があった。
  サリタが味噌汁作りにきたんだな。
  もし連絡してくれたなら早く帰ったのに、お互い連絡を怠るからこういうすれ違いが起きる。
  僕は鍋いっぱいにある赤い味噌汁をかき混ぜて、スープボウルに入れると箸で口に運んだ。
「ぶ……不味っ」
  ぺぺぺ、と舌を出して濃すぎる味噌汁を見つめる。サリタの手料理はたまに食べるけれどもとても上手だ。あの料理が上手なサリタがこんな失敗をするなんて珍しいと思いながらせっかく作ってくれたものを捨てるのも失礼なので一杯だけ食べた。
  欠伸がでたので残りは明日食べようと決めてベッドに倒れこむとそのまま目を閉じた。

――恐れていたことが起きた。
  どうやら自分はよなよな金髪の女を探して部屋に引きずり込み、ナイフを突き立てて殺していたようだ。
  戦慄に顔を歪めたまま死んだ女を見下ろしてすごく空しい気分になり、こんなことをしたって彼女が手に入るわけではないと思いつつ死体を始末する……。

 古いモノクロォムの映画のようなシーンがそこまで見えたところで目がぱちりと覚めた。暗い寝室で今見たものが夢だったことを知り、安心した。
  僕が女を殺しているわけがないじゃあないかと軽く鼻で笑ってからふと、水が飲みたくなって近くの電気スタンドの明かりをつけた。
  明かりに照らされた床に金髪の女がうつ伏せに倒れて死んでいた――
  全身が粟立つのを感じて、心臓が一回大きくどくん、と鳴った。叫びたくなる衝動を必死で堪えて水を飲みに行く。
  水を飲むはずだったのに、喉を思うようにとおらず咽せた。ごほっ、と咳をした瞬間、それが止まらなくなった。
「けほ、かはっ……う、ごほっ、かほっ、ん、ごほっ……」
  昔から患っている喘息の発作が今頃になってまた再発した。中学生時代一年静養して治したはずなのに、よほどショックが大きかったらしく止まらない。
  肋が軋むような感覚に襲われて肩でぜいぜいと息をしつつ、それでも咳をし続けた。ごほっ、ごほっ、と血反吐を吐くような粘つく喉の嫌悪感と戦いながら息をがんばって吸うのだが、呼吸が苦しくなってきた。
  床に崩れるように倒れてからお腹を折ってまだ咳をする。頭に酸素がいかなくなってもまだ咳をし続けて、嗚咽にもなりきれない声ではゆはゆとか細い呼吸をしながら意識が遠のいていった。

 母親が死んで以来、喘息で自分が喘いでいるときに不二早家で助けてくれる人は誰もいなくなった。
  まだ発達していない背中を丸くして咳をして、吸入器を口に宛てて落ち着くのをひとりで待つ……それだけだ。
  父も祖父も、僕がことさらに病弱なことを知ったときには失望したように相手をしてくれなくなった。小学生時代はほとんど運動ができずに教室から体育の授業を見学していた。
  中学生になっていよいよ酷くなったそれを治すために一年間休学してから高原で静養すると都会から離れたせいか様態は落ち着き、次の年から僕は目覚しく体力をつけて、周囲を追い抜き、運動神経を鍛えていった。
  自分を助けてくれなかったこの世界に復讐してやろうと思った。手当たり次第に人間をぼろ雑巾の如く引き千切っていけばそのうち誰も逆らう奴は現れなくなり、実の親ですらその凶暴な息子に恐怖し、何も構ってくれなかった態度を一転して望んだことすべて叶えてくれた。
  ただそれだけの奴隷だった。愛してくれないのならば金のみを望もうと思った。金を望んで近づいてくる人間の安っぽい愛を搾取しては吸い尽くし捨てていった。きっと底のないコップのように、どこまで愛を注いでもどこからか流れ出していき器が満たされることは一生ないのだと達観した絶望の中で、それでもどこかに自分を愛してくれる人はいないだろうかと探していた。
  無償でなくてもいい、僕から何かを奪っていくかわりに何かを埋めてくれる存在があればそれが真価でなかったとしても満足するから。それ以上は何も望まないから……。
――誰でもいいから僕の心を満たして。

 うっすらと目を開けたら霞んだ視界にふたつの影が映った。
「……サリタ、」
「って俺の名前はなしかよ!?」
「……とヴァレリオ」
「おまけのように言うなよ。心配したんだぞ、大丈夫なんだろうな?」
  ほう、と呼吸をしてみた。咳は止まっているみたいだったのでベッドの上で上体を起き上がらせた。
「喘息って心臓が止まることだってあるらしいです。詩磨は吸入器持ち歩いたほうがいいですよ」
「サリタが僕を助けてくれたの?」
「ヴァレリオさんから夜中に電話がかかってきたんでびっくりしました。詩磨の部屋からずっと変な音が聞こえるって」
  言われてふと、そういえばあの女の死体はどうなったのだろうと思ってベッド下を見下ろすが何もない。
  自分はこんな状態なので死体を運べるはずもなく、だったら死体はどこにいったのだろうと思い首を傾げた。
「この部屋何か入ってきたときにあった?」
「たとえばどんなのですか?」
「ええと……不自然すぎる何かが」
  死体とは言えない。サリタとヴァレリオは顔を見合わせた。
「何かありましたっけ?」
「詩磨が床で倒れているのくらいだったよな?」
  おかしい。訝しみながらベッドから立ち上がりLDKのほうへと行ってみた。死体に見えたそれが実は生きていて移動したんじゃあないかと思って。
  しかしそこには何もなく、あるはずのものもなかった。
「サリタ、あの不味い味噌汁捨てたの?」
「捨ててませんけど、味噌汁を作るのに失敗したんですか?」
「違うよ。君が作って置いていったあの不味い味噌汁」
  サリタは不思議そうな顔をして
「私は味噌汁なんて作っていませんよ?」
  と言った。
  どういうことだろう。サリタが味噌汁を作ったわけじゃあないとしたら、あのさっき転がっていた死体が味噌汁を作ったとでもいうのだろうか。
  誰も作った覚えのない味噌汁があって、誰が殺したか分からない死体があって、そして両方とも自分が意識を失っている間に消えた……。あれは全部幻だったのだろうか。
  この前の死体もその前の死体も、そういえば最初に引っ越してきたときにあったそのその前の死体も、全部僕の妄想か何かで最初からなかったのだとしたら辻褄は合うわけだが、だとすると自分は妄想の中で四度サリタを殺していたことになる。
「病院行ったほうがいいかも……」
「そうですね。一度お医者様に見てもらったほうがいいかもしれませんね」
  妄想の中で四度も殺された女がそんなことは露知らずにのほほんと自分の様態を心配をしている。
  誰も案じてくれなかった僕を心配してくれる彼女を四度も殺してしまったことに自己嫌悪しながら暗澹とため息をついた。

 もうあんな悪夢は見たくない、そう思っていたはずなのに、それからしばらくしてまた帰宅してきたとき金髪碧眼の女の死体があったのに気づいたときにはため息をついた。
  笑って近づいてその頭を蹴飛ばした。これは自分の妄想だ、罪深い妄想だ。もういいよ、消えてなくなれ。お前は本当は存在しないんだろ? と死体に笑いかけてみるが動く気配も消える気配もない。
「なぜ消えないっ!」
  思わず怒声を含んで叫んでいた。
「この前は消えたじゃあないか! なんで消えないんだ、消えてくれ、消えろ! 消えるんだ!」
  鉄筋の建物の中で空しく声が木霊した。死体はもちろん消えなかった。
  幻じゃあなかったんだ。やっぱり死体は存在したんだ。
  孤独だった、ひとりだった頃よりも死体と生活するようになってからのほうが孤独だった。喋らないくせに無駄に存在を誇張してくるものが自分の精神を蝕んでいく。腐りゆく自分の心にせめて何も感じなければいいのにと思いながら、ふいに涙が頬を伝ったのが分かった。
  誰もいないんだし、泣いてもいいか。
  ひとりなんだもの。泣いたって誰も気づかないんだもの、格好悪いとか思わなくたっていいよ。もう格好悪いよ、僕は全然綺麗な生き物じゃあない。
  どこまでも透明感のある無機質な絶望の中で暮らしていたはずなのに、自分より美しい存在なんておそらくほとんど見つからないとまで自負していたのに、そんな自分を構成していたものが全部ぼろぼろと崩れていくようで、声を出して泣いた。
  赤ちゃんを卒業してから初めて本当に泣いたと思ったけれども、堰を切ったようにとめどなく流れてくる涙を美しいとか、格好悪いとか、そういうものにはカテゴライズできなかった。
  女の子はちょっといじめるだけですぐ泣く。彼女たちみたいに綺麗な感情で泣ければいいのに、雨の中のような澄んだ空気が吸いたいのに、曇天の暗闇の中で濁った排気ガスを吸いながら、都会の空の色は薄いんだな……と感じていた小学生時代を思い出した。
  ずっと忘れていたはずなのに、もう思い出したくなかったのに、どんどんとエントロピーして膨れ上がる感情をきもちわるいと思った。
「サリタを本当に殺しちゃえばいいんだ。あいつがいなくなっちゃえば、もうこんな苦しくなったりしないもの。また透明な僕に戻れるもの」
  殺しちゃえ、殺しちゃえ。自分にそう囁いてみるのに、理性がそう呟いているのに、心がうんといってくれない。
  底のないコップに注いでいた愛は全部どこかに流れてしまったけれど、そのコップの下でいつの間にか受け皿になっていた彼女のお陰で今はちゃんと心が埋まっていた。ちゃんと今まで出会ってきた人たちが、僕を愛してくれていたことを今は知っている。
  彼女が埋めてくれた愛ではない、だけど彼女が支えてくれていた心だった。支えを失ったらまた心が流れ出していく。ちょっとずつたまった愛なのに、受け皿が失くなるだけで一気に消えていってしまう、そんなのはもう嫌だった。
「……やっぱり君を、殺せない」
  それはとても自己中心的なことだと分かっていた。
  ひとりの女性を生かしておくためにこれから何人の酷似した女性が死んだとしてもそれを全部隠し通すと決めたのだから。

 僕は彼女を避けるようにして生活するようになった。前みたいに家に招待することもなくなったし、彼女がどこかへ遊びに行こうと誘ってくれてもすげなく断った。
  サリタはちょっと不思議に思ったみたいだったけれども、別に僕が君のことを嫌っているわけではないことは伝わっていたみたいで、だから何も言わなかった。
  ある日、僕はアロルドに呼び出された。
  高層ビルの広い応接室に通されて、そして彼は僕を見て上品に頬笑んだ。
「イタリアでの生活はどうだね?」
「アロルドさんのおかげでいい生活をさせていただいています」
「そうか。君は侑子の忘れ形見だからね、好きなだけシチリアにいていいんだよ」
「僕の母さんは、若い頃どんな人でしたか?」
  僕の質問に、アロルドは懐かしむように目を細めた。
「とても美しく、利発な女性だったよ。とても透明感のある人だった、透き通るような声をしていて、笑顔が素敵な人だよ」
  僕の知っている母さんとは少しだけイメージが違うな。なんだか父と祖父に挟まれていつも困っていた母しか思い出せない。
「君は本当に侑子に似ている。生き写しのようだね」
「そうですか?」
「とても純度の高い感情で動いていると思う。自分の心に嘘をつかない、そういう目をしている」
  僕は穏やかな目をしているアロルドを見た。彼がマフィアのボスとは思えないほど、やさしい表情だった。彼は僕を見るとき、母に対する感情を思い出すようにやさしくなる。
「君が何か、社会的に間違った選択をしたとしても、それが君にとって必要だったとするのならば、たとえ誰に否定されたとしても、拒絶されたとしても、胸を張っていていいのだよ?」
「それは、守ろうとした人に拒絶されたとしてもですか?」
  僕は思いきって、質問してみた。
  アロルドはその言葉を聞いて、少しだけ頬笑んだ。
「私は侑子を守ろうと思ったけれども、実際に守られたのは私の心だったのだよ。彼女と出会ったことは素晴らしい経験だった。彼女が好きだったが、今の妻を愛することができたのは、侑子が人を愛するということがいかに素晴らしいかということを教えてくれたからだ。だから詩磨もそう思える人間に会えたら、大切にするんだよ?」
  アロルドは、もしかしたら僕の父親よりも母さんを愛してくれていたのかもしれない。母さんから彼の話を聞いたことはないけれども、僕はもし過去の母さんに会えることができるのならば、僕と父を捨てて彼のところに駆落してくれと言うかもしれない。
  母が彼に伝えた愛が、彼の娘に伝わって、そして間接的に僕にめぐってきた。 僕はサリタを愛するかもしれないけれども、たとえ違う誰かを好きになったとして、その愛はきっと順繰りめぐってまた違う人に愛を伝える基盤になるんじゃあないだろうか。

 ビルを出ようとしたときに、ロビーでエミリアーノが待っていた。彼は僕が心を許してしまう相手のひとりだ。
「お前さ、最近変わったな」
「何が?」
「他に好きな子できたのか?」
「そうだよ」
「嘘吐くときはもうちょっと上手につかないと駄目だぜ? 騙すのもうちょっと上手くなってくれないと騙されるフリも大変なわけ。わかる?」
  サリタにしろエミリアーノにしろ、僕が嘘をついていることがわかっていても普段はその話題に触れてこない。
  僕が彼女や彼に嘘をつくのは、自分を守りたいという思い以外にも大事だからという思いもある。
「本当のことを話してくれないことが、かえって傷つけることだってあるんだぜ?」
「本当のことを話して傷つけることだってあるよ」
「まあな。なんでサリタ避けてるんだよ?」
「言えない事情があって……」
「ふうん。まああいつはお前に嫌われるくらいヘとも思ってないだろうしな。そういやお前の家に遊びに行ってないけど住み心地聞いてなかった、いい部屋だろ?」
「最悪の環境だよ」
「なに!? あんな立地条件のいい、しかも完璧なインテリア空間にケチつけるつもりかよ」
  少しびっくりしたように言ったエミリアーノにめずらしく罪悪感を感じた自分がいた。しかし、ふとその言葉の不自然さに気づいて、聞き返す。
「完璧なインテリア?」
「うん。フィオットサルーンにアダルにエーフラット……全部一流の家具使ってもらうようにインテリアデザイナーにお願いしたし。俺も見たけどさ、かなり美しかった、あれ芸術の域だと感じたね。不満だったのか?」
  古びたシーツを引っぺがして寝た最初の日のことを思い出しておかしいと感じた。そして僕のその様子に気づいたエミリアーノが、確認するように質問した。
「お前部屋間違えて住んでいるなんてことないだろうな。何階に住んでるんだ?」
「二階だけど」
「ちゃんと九階建ての二階に住んでるんだろうな? 別の建物に勝手に住むなよ?」
「あの丘って他に建物なんてな……九階建て?」
  訝しむように眉を寄せて、そして頭の中で見慣れた建築物の窓の数を数えてみる。
「十階建てだと思うんだけど」
「九階建てだって。おま……本当に別の建物に住んでるんじゃあないだろうな? じゃあなかったら幽霊屋敷に住んでたりとか。夜中に数えると十階まで続く階段があってそこを登ると異次元に行っちゃったり……」
「学校の怪談じゃあないんだから。まあたしかに幽霊屋敷だけど、四階にヴァレリオが住んでるし聞いてみればわかるんじゃあない?」
  その言葉にエミリアーノはまた首を傾けた。
「ヴァレリオはさ、三階に住んでいたと思うけど」
「……なんだって?」
「恐喝班のヴァレリオ=ラッツァリーニだろ? 三階だよ、間違いない」
「でもあいつ四階に住んでるけど? って恐喝……あの笑顔で恐喝してるの!?」
  まぶしいまでにいい笑顔しているあいつがあの顔で誰かを脅しているとは驚いたが、そのときサリタの声が聞こえて彼女が足早に駆け寄ってきた。
「兄さん、詩磨もいるんだったらこれから三人で食事に出かけませんか?」
「お前あれだけ拒絶されまくっててもそれ言えるってある意味尊敬するよサリタ。なあ、ヴァレリオは何階に住んでる?」
「え……四階ですよね? 詩磨がそう言ってましたけど」
「それヴァレリオは何階に住んでるとか自分で言ったか?」
「だって二階の上は三階で三階の上は四階じゃあないか。言われなくたって四階だよ」
「でも詩磨って一階に住んでますよね?」
  不思議そうにサリタがそう確認してくる。エミリアーノと僕は一緒にサリタを見つめて、そしてエミリアーノがぎゃーっと叫ぶ。
「お前どこに住んでるんだよ!? きもちわりーな、どこ住んでるんだ!?」
「二階だよ! 下から数えてふたつめのフロアーだってば」
「下から数えてふたつめのフロアーは一階だろうが! え……ちょっと待てよ、詩磨に聞くけど、もしかして日本ではそれをニ階って言うのか?」
「どういうこと?」
  言っている意味がさっぱりわからずにいると、サリタが隣から補足説明をしてきた。
「イタリア以外もそうなんですけれども、ヨーロッパ圏では一番下のフロアーをフロントって言って、その上から一階、二階……って言っていくんですよ。中学時代に英語で習いませんでしたか?」
  中学時代は半分くらい学校に行ってなかったのだ、知っているわけがない。サリタはエミリアーノに聞いた。
「私は、詩磨が階段登るのいやだから一階にしてもらったんだとばかり……思っていました。違うんですか?」
「二階の鍵しか渡してないんだけどな。なんで一階に入れたんだろうな。二階の鍵で一階が開くはずはねぇのに」
  三人の間に沈黙が流れた。
  最初の日のことをよく思い出してみよう、たしか階段を上がって荷物を脇に置いてから鍵を開けようとしたら、もう既に開いていたのだ。
「え……でも最初に間違えて鍵が開いてた一階に入っちゃったとするよね? そこで内側から鍵をかけて寝るからその晩はOKとして…次の日は買い物に出かけるときちゃんと鍵閉まったの確認したし、エミリアーノそれ本当に二階の鍵だったの?」
「むしろ逆に聞くぜ? 二日目にお前が持っていたそれは本当に二階の鍵だったのかって」
「ぎゃー。ミステリーは苦手なんですよ! 兄さんは推理とか得意ですか?」
「いーや。でもこのまま詩磨の家に車で行ってみるのが先だな。現場検証」
  エミリアーノが車に乗ったので、僕とサリタも乗ってからそのまま丘に建っているレズィデンツァに向かった。

 カチリ、と音がして一階の玄関が開いた。中に入ったエミリアーノが
「普通の内装だな。この部屋はお前の部屋じゃあないぞ」
  と言った。
  マグカップを三つ並べて珈琲を注ぎ、立ちながら飲みつつ話を再開する。
「でも一階の鍵が開いたってことは、それは一階の鍵ってことはたしかだよな」
「そうですね。ということは詩磨が持っていたはずの二階の鍵はどこに行ってしまったのでしょうか」
「そして僕が持っている一階の鍵はどうやって手に入れたのかというのも問題だね」
  嫌な沈黙が流れてから、沈黙をごまかすために三人同時に珈琲を啜っていた。
「鍵の問題はちょっと置いておくとして……ひとつ気になることありませんか?」
「鍵以上に気になることってなんだよ? サリタ」
「詩磨が一階を二階だと思っていたってことは…本当の二階は誰も住んでいないのでしょうか?」
「そういうことになるんじゃねぇの?」
「もしかしたら一階の住人が二階に住んでたりとか……なんて思ったんです。だってここあきらかに誰か住んでた場所ですよね? 家具があるんですから。だとしたら一階の人は今どこに住んでいるんですか? 住むとしたら二階くらいしかないじゃあないですか。詩磨の二階の鍵を使って上の階に住んでいるかもしれません」
「お前どこでそのぶっ飛びロジック生まれてくるんだよミステリー音痴! じゃああれか? お前の理論で推理するならこうだろ、詩磨が鍵の開いてた一階に間違えて入ったあとそのまま寝ちゃって、そのあと一階の住人が帰ってきて自分の鍵で扉を開ける。そこには詩磨が寝ていて詩磨が寝ている間に鍵をすり替えて二階に住んでいる。普通に考えたら『隣人さん、あなたお部屋間違えてますよ』って起こすだろうが! 馬鹿じゃねぇのか、何が悲しゅうて詩磨に住んでる部屋貸しちゃうんだよ、どこの親切さんがそんなことするんだ」
  苛ついたようにエミリアーノが怒鳴った。あまりに頭の可哀想な人間を見ていると苛々してくる性質なのだろう。
  サリタは別に頭が悪いわけではないけれども、たまに誰も考えないようなボケを言う。僕も今の無茶苦茶なミステリーは絶対に買わないだろうと思ったけれども、しかし少しだけ気になる。
「実際に二階がどうなってるか見に行ってみない? サリタの言っているように一階の住人が住んでるなんてことはなくても、僕はこの部屋不気味だから嫌いなんだよね。荷物少ないし二階掃除してから引っ越したいかな」
「たしかにそうだよな。こんな人の使った中古家具そのままお前に使わせ続けるわけにはいかねぇし」
「お引っ越しの話ですか? そうですね、たしかに一階の方に悪いし二階に引っ越したほうがいいですね」
  珈琲を全部飲みきると、階段を上がって二階のインターホンを押してみる。もちろん、誰かが出てくるはずもない。
  エミリアーノが当たり前のように二階の合鍵を取り出したので、もしかしたらこの建物はアロルドというよりもエミリアーノの不動産なのかもしれないと思った。
  カチ、と音がして扉が開く。あきらかに下の部屋とは別空間と思える美しいインテリアにサリタが息を呑んだ。
「ここだよ、間違いない。ほら、すげぇ綺麗だろ?」
「これはどこのハリウッド男優が住んでいるお城なんでしょうか? セレブですねー」
  サリタが中に入っていって、そしてぎゃーっと叫んだ。女としては相応しくない悲鳴だと思いながら僕とエミリアーノも中に入った。
  綺麗な黒いテーブルの上に、たくさんの女の死体の写真が散らばっている。
  どれも心臓を一突きされていて、そして一番上の数枚の写真はこの数ヶ月に僕が埋めた女たちの顔だった。
  サリタもエミリアーノもマフィアだったし、僕も死体は見慣れていたはずなのに、僕はへた、と膝から力が抜けて数歩後退した。
「埋めたはずなのに……」
「どうした詩磨?」
「埋めたはずなのに! どうしてここに写真があるんだ、なんで!?」
「落ち着けよ、詩磨!」
「変な悪戯はもうやめてよ。もううんざりだ、サリタを殺すのも、サリタを埋めるのも、消えた味噌汁も、消えた死体も、みんなもう嫌だ!」
「落ち着いてください詩磨、どうしたんですか。この写真と私と何か関係あるんですか?」
  サリタが僕の手を握って、じっと見つめてきた。
「あの写真の人たちと私は違います。私はこうして生きています」
  残暑の中で湿って汗ばんだ手から体温が伝わってきた。自分の手はすごく冷たくて、そして彼女の手は赤ちゃんのように熱い。基本的に低体温低血圧の自分よりかなり代謝がいいのだろう。彼女は生きている、今も生きている。自分に何度もそう確認させた。
  人に触られるのが嫌だったはずなのに、サリタに今こうして触れられること、自分と違う誰かに血が通っていることにすごく安堵感を覚える。
「詩磨、ずっと何か隠してることがあるんだろ」
「言ったら、頭おかしいと思われちゃうよ……」
「おかしいのはお前の頭じゃあなくこの状況のような気がするけどな。なあ詩磨、俺もサリタもお前が何をしてようと、してまいと、お前を嫌いになったりしないって誓うよ」
  完璧に子供をあやすように黒い髪の毛を上からわしわしと掻き混ぜられた。
「十分苦しんだだろ? 話して楽になろうぜ、お互いにな」
  苦しんでいたのは自分だけだと思っていた。エミリアーノやサリタだってずっと自分のことを心配していてくれたんだとそのときやっと分かった。
  イタリアに来た初日に部屋に死体が転がっていたこと、死体が何度も部屋に転がっていたこと、全部自分が殺したんだと思って何度も埋めたこと、死体や味噌汁が消えたこと、全て、全て話した。
  ふたりとも僕の話を真剣に聞いてくれたので、最初から話しておけばこんなに苦しくなかったのかもしれないと思った。早くはなかったが、遅すぎるわけではなかった。今この場になって、打ち明けられたことがよかった。
  エミリアーノは話を聞いたあとに顎に手をやって唸った。
「お前さ、死体の隠蔽工作が上手すぎるってのも考えものだな。普通どこかで死体が見つかるのに全部完璧に跡が残らない形で隠しちゃったんだろ? 死体埋めた位置は覚えているか?」
「だいたいは覚えているけどまだこっちの地理に詳しいわけじゃあないから最初のほうとか曖昧かも」
「とりあえず部下に言って掘り起こさせる。この写真の数見るとその一階の住人は相当殺してるみたいだし、バッツィーニ家としても尽力するつもりだ。サリタのおばか推理が当たるとは思ってもいなかったな、一階の奴が二階にいたなんてさ」
「でも一階の鍵って詩磨が持っているんですよね? 二階に住んでいてどうやって一階の鍵開けるんですか?」
「サリタの鍵は詩磨のスペアキーだろ? それと同じ要領であらかじめふたつ以上スペアキーを持っていれば可能じゃあねぇか? それにしても悪趣味だよな、何度もお前に似た女を詩磨の部屋で殺すなんてさ」
「エミリアーノ、じゃあ僕は今回誰も殺してないんだね?」
「当たり前だろ、お前がサリタを殺すわけがない。だってお前こいつ大好きだし」
  サリタの頭をぐりぐりしながらエミリアーノがにかっと笑った。僕の全身から緊張が解れた瞬間だった。
「よかった。殺してなくてよかった……」
「詩磨は日本ですでにひとり殺したって聞いていてマフィアの素質十分だと思っていたんだけれどもな。泣く子も黙るような非行少年が一匹の馬鹿のためにこんなに苦しむんだぞ? 愛って偉大だと思わないかサリタ、愛されるって素晴らしいな。付き合えば?」
「どさくさにまぎれて何言うんですか! もう、この部屋にそいつが住んでいたとしたらもっと遺留品があるはずです。探してみましょう」
  サリタが家の中を探索しはじめた。がたん、がたんと色々持ち上げたりひっくり返したりしてしばらくしてからひとつ鍋を持ってきた。
「これ洗ってありますけど消えた味噌汁の入っていた鍋じゃあないですか?」
  でかい寸胴鍋を見せられてたしかにそれだということを確認する。指で鍋の側面を叩きつつサリタは言う。
「このでかい鍋いっぱいに味噌汁を作ったんだとしたら日本人ではないですね。ひとりじゃこんなに食べられないことくらい分かってますし」
「ということはイタリア在住の可能性が高いなあ。あと詩磨にすごく執着した奴だと思う」
「まるでエミリアーノかバッビーノみたいですね」
「そうたとえば俺みたいな……違うだろうがサリタ。何がどうなったら俺がいそいそと睡眠薬入りの味噌汁で詩磨を眠らせてベッド下に死体を放置になるんだよ。その上死体が消えてるんだぜ、あきらかに詩磨をいじめるためだけにやったんじゃあないかと思う」
「なんのためにですか? あなたもサディストですよね、エミリアーノ=バッツィーニ」
「俺は明るくナチュラルサドを目指しているからこんな陰険なことはしないっての。詩磨をいじめる目的でないとしたら、予定が変わったのかもしれないな。たとえば詩磨が死体を始末してくれるはずだったのに、いきなり発作で倒れちゃったからこのままじゃあ第三者に死体が見つかって殺人がバレてしまう。急遽味噌汁と死体を二階に隠してあとで落ち着いた頃を見計らってもう一度詩磨の部屋に投げ込むとほら、四回目の死体と五回目の死体が同一人物だった辻褄がつく。でもあきらかにサリタのこと知ってる奴としか思えないよな、この犯行さー」
「ということはバッツィーニ・ファミリーの誰かがこの犯人ってことですか?」
「その可能性も視野にいれたほうがよさそうだ。サリタ、上のヴァレリオをここに呼んでこい。あいつから一階の住人の特徴を聞けばバッツィーニの誰だか絞り込める」
  サリタが三階にあがってヴァレリオを呼んできた。軽く状況説明をしたところヴァレリオは口をあんぐりと開いて僕を見た。
「ってことは、だ……お前あの死体がうじゃうじゃ生まれてくる部屋にずっと平気で住んでたわけ? 神経疑っちゃうなあ」
「平気じゃあなかったよ。正直君みたいな能天気が遊びにこなかったらとっくの昔に首縊ってたかもしれないね!」
「そんなこと言うなよ、お前がいなくなると俺はその一階の住人とまたふたりきりでここに暮らす羽目になるんだぜ? 嫌だね、相当やだね」
「引っ越せよ、ヴァレリオ」
「ここの家賃こーんなに広いのにすげぇ安いんです。社宅担当班の奴が俺の書類だけ偽造してくれててね」
「それ上司の俺に言っていいのか? お前の家賃元の値まで釣り上げられたくなかったら一階の奴の情報をしっかり思い出せ」
「思い出しますよ。ええとね……」
  ヴァレリオはとんとんとこめかみを叩きながら目を動かす。
「あれ……」
「なんだよ?」
「いや、たしかに女の子がよくあの部屋に入っていくのとかは、見ていたんですよね。相当女好きだったというか、モテてたというのか……だけどそいつの顔どころか会ったこともないなって思ったんです」
「会ったことないのか? ここに数年住んでて、一度も」
「うーわー、すげぇ盲点だった。勝ち組男の顔一度くらい見ておくべきだったかも」
「思い出せよ。絶対にそいつの顔一度くらいは見ているはずなんだ」
「でもあの部屋女が入って、出て行くところしか……」
  ヴァレリオは渋面で呟くと、「まてよ」と顔をあげた。
「そいつ……女ってことはないでしょうか?」
「なんだって?」
「女が入って出て行くところしか見てないってことは、女の中の誰かが犯人だったらきっと中にまぎれてわかんなくならねえ? なあどうだろう、エミリアーノ」
「ありえるな。だけどナイフで胸を一突きだろ? その女相当怪力だぜ」
「複数犯ってことは考えられませんか?」
  サリタが隣からそう次の仮説をとなえてみる。
「ふたり以上いたら被害者を取り押さえて刺すのは少し楽ですよ。時間をずらしてひとりずつ入ればそんなに目立ちません。極論するならば一日目にひとり、二日目にもうひとり、そして三日目に被害者が入ればヴァレリオさんはその女の人が昨日と今日と別人ということに気づきませんよね?」
「背格好が近けりゃあ…気づかないかもなあ。なんせ不二早が何度もサリタを殺したと思ってたくらいだろ? 不二早が間違えるくらいだし、俺だって昨日部屋に入った金髪と今日きた金髪が実はサリタとほにゃららさんと別だったとか言われたらきっと気づかないね」
「有力そうな線だな」
  僕も少し考えてみる。犯人がサリタそっくりの女だとして、自分に近づいてきたら違いが分かるだろうか。おそらく分かると思うけれども、もし昨日会ったサリタと今日いるサリタがまったく別のDNAを持った存在だとしたらどうするだろうか。
「すごく壮大で馬鹿馬鹿しい仮説を思いついたんだけど、聞いてくれる?」
「どうぞ」
  エミリアーノの許可を貰って僕はため息をつくと
「存在論的絶望に帰一する殺人だとしたら……」
  と言った。
「ソンザイロンテキゼツボウ?」
  ヴァレリオがよく分からないといわんばかりに鸚鵡返しで言った。
「この場合の存在論とは存在のイデアだと考えてほしいんだけど、それのどこかに欠陥のある女たちがいたとする。人間の形はしているけれども存在論的なところに絶望を有ったDNAとかが存在したとしたら……たとえばそのDNAの中にたまたま金髪で緑の目をした女はハイティーンに自分の存在に絶望するとプログラムされていたとする」
「すごく大胆な仮定だな」
「その女たちがなんらかの形でコンタクトをとる方法……それは掲示板でもメールでもなんでもいいんだけど、ともかく連絡手段があって、バッツィーニ・ファミリーの部屋をひとつ偽名で借りるとする。そしてふたり一組で入ってひとりがもうひとりを殺し、写真を撮って次の人に回す。次の人はその回してきた女を殺してまた写真を撮って同じように次に回す……合鍵と写真とをバトンのように渡していきながら次、次、次と殺していく……するとあの部屋は永遠に金髪の女が死んでいくようなサイクルになるでしょう? ロジック的には成立するかな、って……ちょっと思った」
「だから存在論的絶望か。死体になるために生まれてくる女たちってむしろ最初から死んでいたという定義もできなくもないよな。いや十五年間は少なくとも生きてるんだけどさ、そもそもそれって人間なのかなってところに疑問が残る」
「エミリアーノは今の壮絶なボケにボケを重ねるつもりみたいだぜ? サリタ」
「なんだか哀しすぎるボケで突っ込みようがないから流すことにしたんですよ」
  あきらかにサリタのミステリー音痴を凌駕した理屈を持ってきたのになんだか全員が納得しかけたところ、いやいやいや、とヴァレリオが首を振った。
「普通に考えてそんな金髪女がハイティーンになると殺し合う部屋なんてあるわけないだろ!? お前ら頭で考えてるからそんなありえない話に納得しちゃうんだよ。認めないぞ、そんなきもちわるい話。不二早はそんなことばかり考えているとそのうちしんじゃいたくなるんじゃあないのか?」
「僕が死ぬの? 馬鹿なこと言わないでよ、ばーか」
「馬鹿は不二早のほうだろ。あきらかに知識を間違ったほうに利用してるじゃねぇか、ハートで生きたらどうなんだよ。もっと単純に生きてれば楽しいことってたくさんあるぜ?」
  正論だな、と思って何も言えなかった。ヴァレリオはきっと自分と違って生まれてきたことを悲しいと感じたことがないのだろう。
  楽しいと感じることを見つけるのが得意で、誰かといっしょに過ごす時間が好きで、フルボディの赤ワインを飲んでもそれが血の味のようだなんて感じたことが一度もないんだろうなと思った。
エミリアーノが最終的に仕切り直す。
「ヴァレリオが言ったとおり最後のは馬鹿馬鹿しかった。もっと現実的な話、この部屋を借りていた人間は社宅担当班に訊けば名前は分かるはずだ。偽名かもしれないけれど、バッツィーニの関係者であることは確かだな。とりあえず今日は解散しよう。詩磨、今日は俺の家で寝るか? ホテルとるならそれでもいいけどどうする?」
「あの部屋に犯人がきたら殺してやりたいから一階で寝ることにする」
「ちょっ! 詩磨、あの部屋で寝るんですか!?」
  やめたほうがいいと言いたげなサリタを見てこう言った。
「嘗めた真似されてちょっと腹が立っているんだ。もし僕がこのまま今日何事もなかったかのように寝たら何も知らない犯人はまた死体を転がしに来るかもしれない。殺してやるよ、絶対に」
「殺すなんて物騒なこと言って。詩磨、もう平気なのか?」
「あの死体たちがサリタじゃあないってことと僕が殺したわけではないということが分かった今なら別にこれからどれだけ転がってようと平気で眠れるけど?」
「お前のその肝の据わり方は本当敬服するよ。俺あとで詩磨のところに行くから、いっしょにばば抜きでもしつつ犯人待とうぜ?」
「なんでヴァレリオとばば抜きなんてしなくちゃいけないのさ。邪魔だから来ないで」
  しっし、と手を振ってから僕は玄関を開けて出ていった。
階段を下りていく最中に
「泣いた鴉がもう笑うとはこういうことを言うのかね?」
  とヴァレリオがおどけたような声が聞こえた。諺には詳しくないけれども僕はたしかに鴉のような男だと思う。非常に獰猛で、艶やかな肉食類だ。

 僕は一階の扉を開けるとき、さあ死体が落ちててももう怖くないと思いながら一気に開いた。
  合憎と期待していたものは転がっていなかったけれど、別に転がってようが転がってまいが今なら同じ部屋に何体ごろごろあったとしても平気で眠れるくらい精神は回復していた。
  とりあえず腹が減っては戦はできないと思って炊飯ジャーに米を入れてスイッチを入れる。冷蔵庫を開けて味噌と小松菜を取り出して具の少ない味噌汁を作りつつ、片手間にニラ玉を作った。
  上からひき肉のあんをたっぷりとかけて先ほど仕込んだ炊飯ジャーのほうを見ると炊飯にも保温にも明かりがついていない。
  近づいて何度かボタンを押してみるが反応してないので舌打ちしてからしゃがんで後ろのコンセントを見た。
「まったく。すぐ接続が悪くなるんだから、不良品め」
  変圧器からプラグを引き抜いて、もう一度嵌めなおす。まだ反応が悪かったのでコンセントの根元から抜いてやると力を込めて引っ張ってみた。
  ばきっ。変圧器が壊れた。
「あ……」
  やっちゃった。元来からの破壊魔は物を直すことより壊すことのほうが得意なのである。
  ため息をついてばらばらになった部品を燃えないゴミに入れようとしたとき、ふとそれ″に気づいた。
「……なるほど」
  そういうことか。種明かしが見えてきた。
  その変圧器の中に仕込まれていた盗聴器目掛けて、僕は低くやさしく囁いた。
「ヴァレリオ、僕に殺されたくなかったらすぐに一階に来てくれないかな? 変圧器壊れちゃったみたい」
  それは存在論的絶望なんていうわけのわからない奇妙な世界の話ではなく、すごく単純なトリックだったのだ。
  バッツィーニ・ファミリーのヴァレリオ=ラッツァリーニはふたつの部屋を別々の名前で借りているという、それだけのこと。
  女を呼んで殺す部屋と、自分の住む部屋。このレズィデンツァにはもともとひとりで住んでいたのだから目撃者がいるはずもなく、またひとりしかいないのだから一階の住人なんて誰も知らなくて当然なのだ。
  誤算は不二早詩磨が引っ越してきたこと、そしてさらなる誤算は僕が死体を隠蔽し続けたこと。そして調子に乗ってこいつは自分好みの女を何度もここで殺して自分の殺人衝動を満足させたあとは、僕に汚いあとの始末をさせたのだ。
  僕の様子を盗聴器でうかがいながら、親切な隣人のフリをして監視し続けて、僕のことを苦しめた。本当に、それだけのことだったのだ。
  すべてに納得がいった。感情がみるみるうちにクリアーになっていくような気がした。これで透明な不二早詩磨に戻れる。とても、心地よかった。すべてをゆるしてやろう、そういう広い気持ちになれた。
  階段を下りてくる音がして、自分が開ける前にヴァレリオは持っていた合鍵でその扉を開けて中に入ってきた。自分の推理が確信に変わった瞬間だった。
「変圧器もってきたぞ、不二早」
「それには盗聴器仕込んであるの?」
「いいや。これは俺の部屋の備品だから大丈夫。米炊きながら話そうぜ?」
  普段の腹黒笑顔でにかっと笑ってそれを手渡してきたのでコンセントに差し込んで炊飯ボタンを押すところまでやった。
「それで、俺を殺してやるとか言ってたけどどうするつもり? 心臓を一突きですか」
「心臓を突くものがこの部屋には包丁しかないんだ。なくなると困るからそれは却下することにする」
  優婉と目を細めてから僕は笑った。ひどく気持ちがいい、気を抜くと声をだして笑っちゃうんじゃあないかと思った。
「じゃあどうする? エミリアーノに俺を突き出すのか」
「それもどうだっていいよ。僕は今とてもすがすがしい気分なんだ、君をゆるしてあげよう。明日殺すか明後日殺すか、ずっともっと先に殺すか……よく分からないけれども今日はとりあえず許してあげる。君は僕のよき隣人だ、変圧器がなかったら米が食べられない」
「不二早はなんだって壊すもんな。命を助けてくれるってんならありがたい話だ。何度だって変圧器を替えにきてやるよ。安心して壊せばいい」
「ついでだから今度シャンパーニュ地方のワインを君の自腹で買ってきてくれないかな? ワインの澱みはそれを一番厭う者のグラスに入るというけれどシャトーは大嫌いなんだ。いつも渋いのが入ってくるからね。君みたいなのがちょうどそのワインのように見えるよ、グラスに注いだら向こう側が見えなくて真っ暗でさ。三鞭酒は向こうが透けて見えて綺麗だよね、泡が踊っててさ、甘いし、さわやかだ。僕はそういう存在であり続けたいよ」
「よく喋るねえ、不二早。よほど機嫌がいいと見える」
  ヴァレリオがにやにやと笑った。口角を持ち上げて笑う態がとても綺麗だった。たぶん自分も今綺麗に笑っていると思った。僕の顔を見てあいつは笑っているのだ。
「ただゆるせないことがひとつあるよ。あの睡眠薬入りの味噌汁の味は最悪だった、何を考えて僕が寝ている間に近くに死体を置いてやろうなんて思ったの?」
「なんていうの? お前がびっくりするところ見たいなって思ってさ、ちょっとした悪戯心だったんだよ、本当にな。お前が喘息で倒れたのにはびっくりした、すごく心配した。俺はお前のこと大好きだし、これからも死体の処理をしてもらいたいと思っていたから、死体を上の階に運んで、急いでサリタを呼んだよ。あとはエミリアーノの推理がだいたい当たっているかな」
「ふうん。で……僕を利用して死体を始末していた君、まだ女を殺すつもりがあるなら僕はもう始末しないから。この部屋から上の階に引っ越す。だから鍵を返してくれないか? そして僕はこの鍵を君に返そう。それで全部終わり、お互いの今までの生活に戻るだけだよね」
  僕とヴァレリオはお互いの鍵を交換した。それをポケットに為舞って、そして僕はお向かいを指差した。
「正しい味噌汁の味、教えてあげるから食べていかない?」
  と誘ってみるくらいの余裕はもうあった。

 その晩、エミリアーノに電話をしてみた。電話の向こうでいつもの「pronto,sono Emiliano」という声が聞こえる。
「ねえ、エミリアーノ。あの事件解決したからもう調べなくていいよ」
――犯人を殺したのか? 
「殺したよ。靴音がしてね、また死体が今日も僕の部屋まで歩いてきたって思ったんだ。だけど死体は僕の部屋には入らず、そのまま僕の部屋の前に二階の鍵を返して帰っていった。のぞき穴からその顔見たんだけど、やっぱり金髪に緑の目をした女でさ、ちょっと笑っていたからもう絶望することはなくなったんだと思う。だからもうこの部屋が死体を孕むことはない」
――お前の嘘って想像力豊かで本当面白いよな。そんでそいつのこと許してやる気になったんだ? まあお前が許すってんだったら、俺は別にいいけれども。お前が被害受けたんだし、死体は全部消えちゃってるから誰も言及することはできないしな。写真も燃やしちまえよ、あったってもう意味ないだろう?
  さすが影で人を殺しては硫酸プールに沈めている世界のボスは言うことが違う。僕に被害があればどれだけだって助けてくれるのに、自分がそいつを庇ってやるだけであっさりとそれをやめるのだから。
「本当にエミリアーノは僕に甘いよね」
――甘やかしたいんだよ。可愛いから
「じゃあサリタも僕にちょうだいよ。彼女が好きなんだ」
――あいつが好きならばあいつがお前のこと好きで好きで仕方なくなるように仕向ければいいだろ。まさかお前が勝算なしなんてことはないんだろう? 
「まあね。僕は不二早家のブランド持った男だし、そして美人な母さんの血を引いている」
――まあたしかにお前は美人だよ。ベリッシモだ。でも侑子はそんな性格ブスじゃあなかったらしいぜ? うちの母親ですら「侑子は大好きだった」って言っているくらいだからな。サリタを振り向かせたかったらまずお前のその性格直さなくちゃだめだよ、イタリアは真の美しさを愛する国だ。今のお前には大事な妹はやれないね。
「サリタが僕を好きだって言ったら?」
  僕はエミリアーノが怒るだろうかと思ってわざとそう言ってみたけれども、彼は怒るどころか大笑いした。
――自信を持つことはいいことだぞ、詩磨。お前は美しい男だ、きっとイタリアで本当の美しさを学べば真の素晴らしい男になれるはずだ、俺のように。
「エミリアーノがナルシストだと思うんだけれども?」
――基本ナルシーのほうが顔綺麗って知ってる? 綺麗だからナルシストなんじゃあないんだってさ。さて、無駄話もここまでにして、そろそろ俺は電話切るぞ。
  プツリと音が切れる。携帯を充電器にかけてからさっき二階から持ってきた写真をフライパンに放り込むと燐寸に火をつけて放り込んだ。
  燃えて灰になっていくそれを見ながら、死体たちにひらりと手を振る。
「ごきげんよう、君たちのことをもう忘れることにする」
  とつぶやいて。

 翌日、二階に引っ越すと言った僕の手伝いにヴァレリオとサリタがきてくれた。エミリアーノは仕事の重役だけあって、忙しいらしい。
「それにしても詩磨の荷物はほとんどが参考書だけですね」
  本棚の整頓をしていたサリタがそう呟いた。
「これだけ勉強すると本当に私の行っていた高校に行けるんじゃあないでしょうか」
「行くのは君と同じ大学だよ」
  僕はしれっとそう言ってみた。サリタはくすくすと笑って、
「じゃあ来年は同じキャンパス歩くかもしれないですね」
  と頬笑んだ。君の隣を歩くに足る存在になるのが大学だというのであれば、僕はもちろん大学に進む。
「でも詩磨、私は今のままのあなたも十分大好きですよ? ちょっと性格が意地悪で、自己愛に溢れたナルシストぶりにまったく歯止めをかけていない根暗なあたりも」
  サリタのその言葉に僕はぴしっと固まった。
「……僕のことそう思っていたの?」
「私、気を遣っていないとけっこうな毒舌らしいです。でも素敵な女性として見られているよりも、詩磨と私は『お前いい性格しているよね』と言い合えるような仲のほうがずっと続いていきそうな気がする」
  サリタは本当に飾らない性格の女の子だなと思ったら急に可愛いと思った。軍手を外してからサリタと向き合うようにして座る。
「サリ……」
「不二早! 引越し中に冷蔵庫の電源入ってなかったみたいで生肉腐ったぜ?」
  あともう少しでキスできると思ったところで、ヴァレリオが声をかけてきた。
  軽く苛っとしながら「すぐ行く」と声をかけなおす。
  でも行ってみれば冷蔵庫は電源がついているではないか。僕はその瞬間邪魔されたんだと知ってヴァレリオを軽く睨みつけた。
「あーあ、こりゃあ冷蔵庫の中身全滅だな」
  ヴァレリオがそのまま大道芸のような演技を続ける。
「不二早、お前今日はサリタといっしょに外で食事してきたらどうだ?」
「え?」
「今の時間じゃあ市場閉まってるものな」
  ああ、お膳立てしてくれたんだ。ヴァレリオは熱いウインクを一度こっちに送ってからそのまま三階に戻っていった。
  僕は彼の親切心に甘えて、サリタを振り返る。
「サリタ、今日何が食べたい?」
  僕とヴァレリオも、僕とサリタもきっとうまくやっていけるんじゃあないかって思った。

(了)

 

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