第四章 「白日夢」

 

 泣き疲れて寝た翌日も、仕事はある。
  けたたましく鳴る目覚ましを止めて、低血圧な僕は二度三度ゆめうつつの中を彷徨って、そして起きる。
  毎日が日曜日ならばゆっくり起きることができるのに。誰か僕に食って寝るだけの仕事をくれないだろうか。
  などとものぐさなことを考えながら、寝巻きのボタンを外す。クローゼットの中にあるシャツとスーツを取り出し、ネクタイは何にしようかと鏡を覗き込んだときだった。
  襖の異変に気づいて、僕は振り返る。
  ただの山水画だったはずのその襖に、小さな少女の後姿があった。
  こんなもの、あったかな? そう思いながら襖に近づいて確認した。
「雲雀、朝飯食べるか?」
  襖の向こうから英一の声がする。襖を開けて、英一を中に引きずり込んだ。
「英一、この襖、こんなのいたっけ?」
「は?」
  英一が襖を確認して、そして首を傾げる。
「こんなのって?」
「女の子の後姿」
「そんなのねぇよ」
  どうやら英一には見えないらしい。
「おい……まさかここに幽霊がいるなんて、言うんじゃあないだろうな?」
「英一は幽霊が出てきたとしたらどうするの?」
「ほうっておく」
  たしかに英一ならば幽霊くらいで動揺したりしないだろう。
「悪さしたら幽霊だろうと追い出す」
「幽霊に躾が効くならね」
  英一は霊感もなければ、霊がいてもどうでもいいと思う人間だ。
  朝食の納豆を食べながら、僕はずっと誰に相談すれば、僕がおかしいのか襖がおかしいのか教えてくれそうか考えていた。
  そういえば久弥は天使園の園内には幽霊がたくさんいるって言って公章を脅かしていた。
  公章が特別怖がりなのを除いて、久弥がともかく公章をいじめるのが趣味なのを除いても、あいつはもしかしたら霊感があるかもしれない。

 僕は仕事が終わったあとに昨日教えてもらった久弥の携帯番号に電話をかけた。久弥は数度コールしたあとに電話に出た。
――もしもし?
「久弥? 僕だけど」
――雲雀、今何時だか知ってますか? 十一時ですよ。子供はみんな寝付くし、大人はいかがわしいビデオを見る時間です。
「この時間にしか仕事が終わらなかったんだよ。ねえ、部屋に幽霊が出てきたら、君どうする?」
――ほうっておきます。
  こいつも放置主義か。どう切り出そうか迷っていると、向こうから話しはじめた。
――さては、女の幽霊に取り憑かれましたね。雲雀は昔から隙が多い男ですからね、何かにつけていちゃもんつけられたりしたんでしょう。幽霊にもきっぱりと言ってやりなさい、「訪問販売はお断りだ」と。
  途中から幽霊でなく訪問販売の話に切り替わった。どうやら相手は酒を飲んで寝ぼけているらしい。
「次の日曜日、僕の家に来てもらいたいんだけど、大丈夫?」
――行ってもいいですけどお茶菓子とお土産をくれなきゃ帰りませんよ?
「お土産くらいてきとうに用意するよ。ともかく、二日後の日曜日、車で迎えに行くから」
  僕はそう言って電話を切った。
  襖を確認すると、そこにはやはり少女の後ろ姿。君はどうして僕のところに姿を現したのだろう。幽霊が出現するのに理由なんて必要ないのだろうか。

 二日後、僕は久弥を車で迎えにいった。久弥は白いシャツにベージュのパンツを履いてエンジェル本部の前に突っ立っていた。
「もしかして迎えに来るまでずっとそこに立ってたわけ?」
「そうです」
「君の部屋番僕が知らないわけじゃあないんだから、クーラー効いてるところで待っておけばよかったのに」
「でもあなた、実はエンジェルのメンバーお嫌いでしょう?」
  別に僕はエンジェルのメンバーが嫌いなわけではない。どうコミュニケーションすればいいのか分からないだけだ。
  久弥は助手席に座ると煙草を咥えてライターを取り出した。
「僕も嫌いですよ。公章くんなんて特にね……」
  また始まった。久弥の公章嫌いは今に始まったことではない。小学生のときからずっと久弥は公章をいじめているのだ。
「久弥は今も公章が嫌いなわけ?」
「ええ。なんですか、いい歳してかまととぶりやがって」
「まあいい子ぶってるのは認めるけどさ、そこまで嫌う理由って何?」
「園内で一番怖がられていた雲雀にまでそんなこと聞いてくるなんて心外ですね。あいつ生まれながらにして僕たちに命令できる立場ですよ、気に食わないに決まってる」
  それは公章にはどうしようもない問題だ。
  完璧いちゃもんつけて嫌っている久弥は煙草を燻らせると
「それで?」
  と聞いてきた。
「幽霊、出たんですか?」
「出たよ」
「美人でしたか?」
「わからない」
「顔がわからないほどグロテスクだったと?」
「ねえ、なんで女の幽霊だって思ったの?」
  信号が赤になって止まったタイミングで久弥のほうを見て聞くと、久弥はにっこり笑った。
「あなたは小さい頃から女の霊をぞろぞろひっつけて歩いていたんですよ。この車も引き寄せられるように買ったでしょう?」
「……この車、霊がいるの?」
「ずっと視線を感じるんですよね。笑い声とかも。あ、ほら……信号青になりましたよ? どうしましたか、発進してください」
  僕は安全運転を心がけながら、車のアクセルを踏んだ。
「久弥って霊感本当にあるんだ?」
「あると思いますか?」
「じゃあさっきのでたらめ?」
「いいえ。僕は霊感とかそんなの信じていませんけど、でも天使園に幽霊がいるってのは本当です。この車に霊がいるのも本当。あ、ほら、今の交差点に足の見えないおばあさんが……」
「怖いからやめてよ!」
「怖いもんですか。奴らは物理的には無害です」
  久弥くらい肝が据わっていれば幽霊のついた車に乗っていることくらいどうでもいいのだろう。
「僕は幽霊がいるかどうか見ることはできますけど、除霊とかは無理ですよ?」
「とりあえず僕の頭がおかしいのか襖がおかしいのかだけでも知りたいから、それでいいよ」
  家の前で車を止めると、車に鍵をかけておりた。藪の中にある日本家屋を見て、久弥の顔が妙に引きつる。
「このおんぼろ屋敷にあなたは住んでるんですか?」
「悪い?」
「地震がきて梁が落ちてきたら死にますよ!」
「幽霊は怖くないくせに地震は怖いんだ、へえ」
  僕は幽霊のほうが怖い。あの車は売り払うことにした。
  廊下を歩けばみしみし鳴るし、天井を見れば蜘蛛が巣を張っているような家だ。幽霊が現れる条件は十分揃っている。
  僕は自分の部屋に久弥をいれると、襖を閉めて指差した。
「ここだよ」
  久弥は眉根を寄せると襖を検分し、手でぺたぺたと触ってみてから振り返った。
「ここに何がいるんですか?」
「女の子の後姿の霊」
「おかしいのは襖でなく雲雀の頭です」
  僕の頭の中に衝撃のようなものが走った。僕はなんだかんだ、一〇〇%幽霊はいると思っていた。
――おかしいのは襖でなく雲雀の頭です。
  真顔で言われると案外ショックを受ける言葉だ。
  久弥はしげしげと襖を眺めて、ふむ、と唸った。
「やっぱり霊はいませんね。残留思念とかも感じられない」
「じゃあやっぱり僕の頭を病院に見せたほうがいいと?」
「病院に見せる必要ってあるんですか? 僕は毎日とてもたくさんの幽霊を見ていますが病院に行こうと思ったためしはありません。あんな幽霊の巣窟」
  たしかに病院こそ幽霊の巣窟だ。久弥はじっと僕を見つめてきた。
「何?」
「怒らないで聞いてくれますか?」
「怒ると思ってそう言ってるんでしょう。怒るかもしれないけれども言ってみなよ」
「雲雀の妄想だと思います。最近どんなこと考えていましたか?」
  僕はそう言われて、最近考えたことを振り返った。
  最近は企画書をどうしようか悩んでいて、あと彼女が三年間いないことに悩んでいて、そして腹がメタボリックとは言わないまでも少し出てきたことに悩んでいて、あと……
「英里香のことを考えていた」
  僕の行き当たった答えに、久弥は眉を曇らせた。
「天使園で行方不明になった英里香ちゃんですか?」
「そうだよ。死んだだろうけどね」
  僕は強がるようにそう言った。客観的に考えるならば死んでいると考えるほうが処理しやすいし、可能性も高いのだろう。だけど僕はどこかで、英里香が生きていてくれたらと思っているし、英里香が過ぎ去ったかつての人ではないのだ。
「とか言いつつ生きていたら『英里香ぁー』って一番に抱きつくのはあなたですよ」
  たしかに生きていたらそのシチュエーションが容易に目に浮かぶほど、僕は英里香のことを可愛がっていた。
「英里香ってね、僕が天使園の前に捨てられているの見つけたんだよ」
「知ってます」
「手がもみじくらいの大きさでね、指で突くとぎゅっと握るのさ」
「そうでしたね」
「名前つけていいって言われたから、僕が英里香って名づけ――」
「その話は過去に何度も聞かされたのでもう聞きません!」
  ぴしゃっと久弥に断られた。
  なんだよ、天使園の話が分かる人間とずっと話していなかったから、懐かしく思っただけなのに。
「まあともかく、ここに雲雀の妄想した英里香ちゃんが住み着いてるにしろ、特に雲雀の生活に影響があるわけじゃあないでしょう。問題なし!」
「本当にそう思う?」
「英里香ちゃんのために襖の前にご飯とか置き始めるようになったら僕が責任もって病院まで連れていきます。とりあえず、何かあったら僕の携帯に電話していいんで」
  久弥にしては珍しく協力的だな。そう思った。
  元から性格のいい奴ではないのだ。口調はとんでもなく慇懃なくせに、その性格ときたら蛇のように粘着質と言ってもいい。いじめる獲物を発見したらとことんからかうのが性分だ。
  僕は久弥を車に乗せて、彼の自宅と言われた社宅まで連れていった。
  別れ際に久弥が手を差し出すので、握手してやると
「お土産ですよ。握手はいりません」
  と言われた。
  そういえばお土産とか言っていたのを思い出す。僕は小さなきんちゃく袋を渡した。
「……なんですか? これ」
「うちの庭でとれたひまわりの種」
「トトロじゃないんですよ! ひまわりの種くらいでコキ使いやがって、雲雀の馬鹿っ」
  案の定腹を立てた久弥がきんちゃく袋を握り締めたままエレベーターに消えていくのを確認して、僕は車を発進させる。
  ひまわりの種は保存が効く上に酒のつまみには最高なのに。僕のちょっとした冗談もわかってくれないとは、久弥も随分とつまらない大人になったものだ。
  それにしても、襖に現れたのは英里香なのだろうか。
  あれが幽霊じゃあないのだとしたら、僕の妄想なのだとしたら、英里香以外の何者でもない。
「英里香……」
  君は今どこで何をしているのだろう。
  僕と二度と会えない運命でもいい、生きていてくれればと、切に願う。

朝になって目を開けたら、目覚ましが壁際で壊れていた。どうやらまたしても寝ぼけて時計を壁に投げつけたらしい。
  投げつけても壊れない目覚まし時計とかあればいいのに。ビニール袋を持ってきて破片を集めている最中、その時計が七時で止まっていることに気づいた。ということは……今何時だ?
「……遅刻だな」
  ダイニングにある時計を確認すると、車を飛ばしても絶対に間に合わない時間だったのでゆっくり朝食を食べていくことにした。
  タイムカードには努力した遅刻とは記載されない、もちろん最初から間に合わせるつもりのない遅刻とも。会計係は事務的に僕の給料を差し引く。
  インスタント味噌汁と卵焼きをつくって食べてから仕事場へと向かった。
  僕はいちおう表向きは模範的な会社員らしいので、上司からけっこうな量の仕事を任されている。
  遅れて出勤したことは軽く叱られたけれども、普段から夜の十時を回るまで仕事をしている僕だ、たまに遅刻するくらいは大目に見てくれる。
  昼間にカツどんを注文したのに、結局明日締め切りの仕事があったために、みんなが食事に出かける時間も僕は広報部の広告とにらめっこしていた。
  結局まともに食事がとれたのは五時を回ったあたりで、上司に出来上がった書類を提出してから誰もいない仕事場でひとりカツどんを食べた。
  もちろん、そのあとも仕事は続くのである。
  結局家に帰ることができたのは、今日も十時を回ったあたりだった。
  もう夕食を食べるのは諦めて、明日のために早く寝てしまおう、そう思って買ってきたばかりの目覚まし時計の時間を調節した。
  そういえば、あの襖はどうなったのだろう。僕はふと気になって、そちらを見た。
  そのときには僕はもう携帯で久弥の名前を探していた。
――もしもし。どうしました?
「身長が伸びた!」
――二十八歳にしてついに一七〇センチ台突入ですか、おめでとうございます。比呂人(ひろと)くんも今伸び盛りですよ?
「あいつエンジェルに残れたんだ!? てっきり売られたとばかり思っていた」
――僕の嫌がらせのおかげで奨学金をとって進学コース入りです。第二の冬馬が誕生ですよ。あいつが出世したら僕は過去の恩を売って楽して甘い液を吸うんです。そういう計画だったのです。
  比呂人も三歳のときに食べた毒草のお陰で、その後ずっと恩人にゆすられるなんて思ってもいなかっただろうな。なんだか呆れていると、久弥に「それで?」と言った。
「僕の身長でなく、襖の女の子の身長が伸びた。腰のあたりだったのに、十センチくらい」
――成長してるんじゃあないでしょうか? 比呂人くんみたいに、襖の女の子も。
  成長…?
  僕はもう一度襖を確認した。成長しているというのだろうか。これが僕の妄想した英里香だとするならば、僕が彼女の成長を願っていたから。
――でも、そのまま身長が伸び続けるのだとしたら……
「だとしたら?」
――一年後には全長三メートルくらいになってたりして。
  まったく真面目にとりあってくれないみたいだったから通話をオフにすると、折り返し向こうから電話がかかってきた。
――からかってすみませんでした。
「人が真面目に話しているときにふざけるのは不謹慎だ」
――真剣だったんですね。この前のひまわりの種みたいなお茶目心もないくらい。
「うるさいな。ひまわりの種ってウイスキーのつまみには最高だからためしに食べてみなよ」
――しばらく見ないうちに雲雀はハムスターになったんですね。まあいいです、何か変化があったらまた教えてください。身長が伸びた、振り返った、喋った、襖から出てきた。なんでもいいです。
「最後のあたり、怪談じゃない」
  襖から出てきたらホラーである。
  電話を切ってからもう一度成長した少女を見た。君は英里香と違って大人の女性になるのだろうか。
  君が大人になった頃、今度は襖に男が現れて君をさらっていったりね。

 襖の少女がどんどん成長していく。
  数日置きに身長が伸びていく彼女のことを、親が成長日記をつけるように久弥に報告する日が続いた。
「英里香の身長が一五〇センチを超えたよ」
  僕がそう報告したとき、久弥は
「雲雀にとってはもう英里香そのものなんですね」
  と言った。
  久弥は僕の妄想を馬鹿にしない。あいつの性格にしては珍しい例だと思うけれども、僕は今でも英里香が成長して、幸せになっていく姿を夢見ている。
  絵の中の少女が成長したら三次元に出てくればいいのに、今ではそう思うくらいだ。数週間前まで、そんなことがあったら怪談だと思っていたのに。

 そんなある日、僕は英里香の夢を見た。
  高校生くらいになった英里香が、近所の高校の制服を着て僕の目の前に立っていた。
「英里香、君はまだ犯人が許せないの?」
  それとも僕が君に会いたいって願ったから、僕の元に現れてくれたの?
  そう聞こうとした瞬間、英里香の能面のような顔の口が動いてこう言うのだ。
「あなたが許せない」
  そこで目は覚めた。
  僕は飛び起きて、洗面台に走った。口の中のねばねばしたものを全部すすぎ落とす。
  鏡を見るのが怖かった。そこに恨みがましい目をした英里香が映っているんじゃあないかと思って。
――あなたが許せない。
  英里香の声が頭の中で反芻される。
  なんてことだろう、彼女は僕が許せずにここに現れたのだ!
  でも、どうして僕が許せないんだ? 英里香を見つけることができなかったから? 犯人を捕まえることができなかったから?
  思い当たる理由は見つからない。
「まさか、僕が殺した……?」
  いや、落ち着け。僕が殺すはずがないだろう? だって可愛い僕の妹だぞ? 可愛さ余って憎さ百倍なんてことわざはあるけれども、僕にとっての英里香なんて可愛さ余って可愛さ百倍くらい可愛いじゃないか。
  いやいや、頭が混乱してきた。
  まさか僕の知っている天使園のメンバーの誰かが犯人で、それに気づけず今も天使園の奴らとつるんでいる僕を許せないと言っているのだろうか。
  蛇口をひねって止めた。
  ゆっくりと鏡を見つめる。僕は僕以外の何者でもなく、何人たりともその領域を明け渡さない。
  英里香が僕を許さないと言うならば、僕は今こそこの手で犯人を見つけるべきなのだ。