第七章 「雲雀殺し」

 

 天使園から少し離れたところにある公園についたとき、僕と久弥はその小さな公園のどこかに死体を隠すのは無理と判断した。
  英里香は生きているにしろ死んでいるにしろ、この場所から移動した。
「第三者が連れ去ったことはこの際考えないようにしましょう。範囲が広くなりすぎてどこを探せばいいのかわかりませんので」
  傘を僕の上にもかかるようにかざしている久弥がそう言った。
  ということは、英里香がこの場から動いたことのみを考える必要があるのか。
「英里香がここにランドセルを置いていくとしたら、どんなシチュエーションが考えられる?」
「ランドセルが邪魔なところに行くためじゃあないでしょうか。あと、この段階だったら、友達といっしょの可能性が高いと思います」
「どうしてそう思うわけ?」
「ランドセルが邪魔なところに遊びに行く状況考えてみてくださいよ。友達と遊ぶに決まっているじゃあないですか」
  なるほど。友達と遊ぶ、そしてランドセルが邪魔なところってここからどこがあるかな……と思ったときに、裏山のアスレチックが頭に浮かんだ。
「裏山のアスレチックってここからどれくらいの距離?」
「距離的にはすぐですよ。そこのフェンスの向こうですから。だけどあのフェンス高くて、越えられませんからけっこうな道のりありますね」
「君が体の小さい小学生で、すぐに遊びたかった場合はどうする?」
「ランドセルを置いて、フェンスの下をくぐってから行くと思います」
  それだな。
  フェンスに近づいて、僕はしゃがみこんだ。僕くらいの体型だったら、くぐれるか?
「ここくぐって行くつもりですか?」
「英里香が歩いた道のりを歩いたほうが彼女に近づけるからね」
「あなたはパーカーですけど僕は白いシャツですよ?」
  服が汚れるとごねる馬鹿のために、パーカーを脱いで渡す。下にTシャツを着ておいて正解だった。
  先にフェンスの下をくぐると、ここ最近酒を飲んでいた割には太っていなかったらしく、ぎりぎりくぐることができた。
  久弥もパーカーのジッパーをあげるとフェンスの下をくぐる。こいつは痩せているもんだからあっさりくぐることができた。
  先にフェンスの下に放り込んだスコップを拾い上げて、さらに裏山を進む。
  しばらく進んだところに、アスレチックはあった。
「何かキーワードになりそうなもの、ないでしょうか」
「子供の頃って何してた?」
「たしか銃の組み立てとかやらされてましたよね。子供の手が小さな部品組み立てるのに便利だとかで」
「最悪の幼少期だね。僕は蟻の巣に水をそそぎこんでる思い出しかないよ」
「お互い最悪の幼少期ですね。あまりに雲雀らしすぎるのでコメントは差し控えます」
  僕だって銃の組み立てをしていた思い出しかないよ。ボケたのに突っ込んでくれないんじゃあボケた意味がない。
  英里香は活発な子だった。運動神経もよかったし、アスレチックで遊ぶのなんてすぐに飽きて次の興味のあるものを探したに違いない。
「英里香ちゃんって何が好きだったんですか?」
「ええと……何好きだったかな」
  十年も前の記憶となると容易に思い出せない。
「『僕のことが好きだったよ』とかいうボケを期待していたのに!」
「何そのありえない黒井雲雀」
  雨が強いから寒いわけじゃあないと思う。いくら僕が英里香を大好きだからといって、こんな場面でまでそのボケは思いつかない。 ふと、鼻をつく匂いがどこからかしてきた。
「……なんか臭い」
「ああ、あれですよね。男の分泌液のにおい」
「その言い方やめなよ。たしかに栗の花の季節だけどさ。あ……」
「どうしました?」
「栗だ。栗がね、ともかく好きだったんだよ」
  ようやく思い出したキーワードに、久弥が「栗の実って六月でもありますっけ?」
  と聞いてきた。
「探せばあるんじゃない? 中に虫いるだろうけれども」
「じゃあきっといがぐり爆弾ごっこしますね。『あはは〜、虫が入ってら〜』って」
「ねえ、君本当に最悪の幼少期送ってたの?」
  あまりにも英里香がしそうなことをあっさりと思いつく久弥に呆れたように呟き、栗の花の匂いのする方向へと歩いた。
  大きな栗の大木がそこにはあり、周囲は少しひらけている。
「ここらへんに一度は来た前提で探してみましょうか」
「久弥はひとりでアスレチックしたり、ひとりでいがぐり爆弾ごっこしたりする?」
「どこの雲雀ですか? それ。僕は友達とそういうことはします」
「君に友達がいたとは知らなかったよ」
「黒井雲雀という友達が。いがぐり爆弾を投げつけるのは僕で、投げつけられるのはあなたです」
「いじめっ子め……」
  考えてみたら、幼少期こいつにいい思い出ってあまりなかった気がする。
  見上げるとしっかりとした大木で、けっこう登りやすそうだった。
「木登りしたかもね。登りやすそう」
「登るってことは、次の行動はおりてくるですよね?」
  当たり前のことを言った久弥に
「ばっかじゃないの」
  と言おうとして僕は固まる。
  登ったあとは、おりてくるだって?
「どうかしましたか?」
「登ったあとはおりてくるって、通常の場合だよね?」
「ああ、雲雀なら空を飛べると。鳥ですからね」
「落ちたとしたら?」
  僕の問いかけに、久弥が沈黙した。
  遠くのほうで落雷の音がする。
「友達がいがぐり爆弾を投げつけて、それに驚いた英里香が落ちたとしたら? そうしたら友達は自分が殺したって思うんじゃあないかな?」
「つまり、雲雀は……」
  ごくん、と息を呑んで、久弥は言った。
「比呂人くんが犯人だと?」
  同じ園に住んでいて、大の親友の比呂人が理由もなく英里香とばらばらに帰ってくる、そんなことがあれば察しのいい人間ならば何かがあったことに気づく。
  僕はてっきり英里香と喧嘩したのだろうくらいにしか思っていなかったけれども、これだったらすべてに辻褄が合うのだ。
  ただ問題は、比呂人が殺したというのは間違えで、比呂人は事故死を自分が殺したのと勘違いしたということ。
  所詮子供、自分のしたことがどういうことなのかわかっていない。だけど天使園の子供、死体の隠し方くらいは知っている。
「どうしますか?」
  久弥が聞いてきた。このどうしますか? はこのまま英里香の死体を探すか、それとも一度比呂人のところに戻って当時のことを聞くか、どちらにするかという意味だろう。
「一度戻って、公章の意見も加えて考えてみようと思う」
「道理ですね。大人の意見をもうひとつくらい追加しないとふたりだけでは判断しかねます」
  帰りまでフェンスの下をくぐる必要はなかったので、遠回りをして車のところまで帰った。
  運転する久弥は無言だったし、僕もしゃべる気になれず、無言だった。
  途中でくしゃみをしたら、久弥が初夏だというのに車の暖房を目一杯にしてくれた。
  ずっと雨に当たっていたから体温が奪われて、なんだか寒い。こりゃあ風邪ひいたかな、と思いながら椅子に体重を預けた。
  車から降りるとき、僕が座っていたところはまるで幽霊がいたかのように小さな水溜りができていた。

 エンジェル本部のエレベーターに乗って、公章の執務室のところまで行く。
  僕と久弥のただならぬ様子に冬馬も幸次郎もびっくりしていたけれども、扉を開けたときにいた秘書の未波だけはいつもどおりだった。
「あっれー? 久弥くんは今日オフじゃあなかったっけ?」
  この泥だらけのふたりを見て最初にそれを言うのか。未波の頭は本当に大丈夫なんだろうか。
「未波さん、ちょっと公章くんと話がしたいので、席をはずしてくれませんか?」
「わっかりましたー」
  軽く敬礼して出て行く未波を見送って、公章を振り返る。
「何があったのか、だいたい想像ついているんじゃない?」
  僕が試しにそう言ってみると、公章は眉根を寄せてから僕たちに珈琲をついでくれた。 それを一口飲んで体が温まったところで、話し始める。
「気づいちゃいましたか?」
「まあね」
  僕が応じたのに公章はまた眉根を寄せる。 君はその表情をつくるとひときわ悲痛に見える。
「せめて、再来年になってからじゃあ駄目ですか? あいつ来年受験なんです。高校の成績よくって、国立大学受かるかもしれないんです。エンジェルを変えるきっかけに比呂人がなるかもしれないんです」
  君はやさしいの? それとも比呂人にはやさしいけれども僕たちには鈍感なのかな。
  エンジェルを変えるきっかけになる、けっこうな話だ。僕も賛成だよ。
  だけど君に疑われていると思って十年間苦しんだ久弥と、英里香を失って傷ついた僕の気持ちは無視?
  そして英里香はもう死んだから生きている人間のことだけ考えましょうとか、そんな無神経なことを言い始める気じゃあないだろうか。
  頭にくる、君のその中途半端なやさしさが。腹が立って脳に空気がいかないくらいなのに、それなのに公章のやさしさにどこか感化されつつある僕にも腹が立つ。
  十代のときの僕ならば公章を殴り飛ばしてこう言っていただろう。
「今すぐお前の弟分の幸せな人生を奪ってやる!」
  と。英里香の幸せを奪った比呂人の幸せもめちゃくちゃにしてやりたい。
  だけど気持ちはそうなのに、それができないのはどうして?
  僕が大切なものを奪われる苦しみを知ったから、躊躇しているとでも言うのだろうか。
  自問してみる、答えは出てこない。
「雲雀、顔が怖いです」
  久弥に注意された。
  僕は相当凶悪な顔をしていたらしい。
自分の思考に蓋をするように、珈琲を飲んだ。
「『はい』とでも、言うと思ったか……?」
  ようやく、搾り出すような声で言ってみた。
  相当感情を抑えたはずのそれは、思ったよりも低い声で、手に取るように怒りが露になっていた。
  僕が公章相手に本気で怒る日がくるなんて思っていなかったよ。君って奴は、本当に僕の後ろばっかついて歩いてきて、泣き虫で、久弥にいじめられては泣いてばかりいるのを僕がかばっていて、だから僕から見れば君はエンジェルの上司であると同時に可愛い年下の弟みたいなものだったんだ。
  だけど君は今、もう立派なエンジェルのボスだ。部下のいない僕と違ってきっと苦渋の決断もいっぱいしてきたに違いない。
  そうだというのに、今の君ときたらどうだろう。僕にしかられて目をうるませて、まるで僕が君をいじめているみたいじゃあないか。
  僕の咎める言葉に罰を受けるような顔をしている。
  冬馬が前に、僕の視線を受けると「断罪されている気分になる」と言っていた。
  丁度今、僕は君を裁こうとしているのかもしれない。君たちの仲間としてではなく、罪を犯していない者がお前たちとは立場が違うと壇上から木槌を振り下ろすように。
「英里香が死んだ夜、比呂人が夜泣きをしました」
  いきなり公章はそう言った。
  僕は何を言い始めるのかと思ったけれども、公章が真剣そのものだったから何も言えなかった。
「泣きながら俺のところにきてこう言うんです。『英里香が僕の夢に出てきた! 『比呂人が私の甘栗を食べちゃったの。ぱくぱくむしゃむしゃごっくん、ぱくぱくむしゃむしゃごっくん、ぱくぱくむしゃむしゃごっくん、私の栗を食べて返してくれないの。返してよ、私の甘栗を返して!』って言うんだ! 英里香が栗が大好きだったから栗の木の下に埋めたのに、僕が昨日食べた栗を返せって怒っている!』って。あいつは混乱していて、未波が薬で眠らせました。未波は比呂人が眠ったあとしばらく泣いていました。俺だって、しばらくは茫然自失です。翌日、久弥がランドセルを玄関に置いていくのを見て、俺はこのまま誘拐犯が英里香を攫ったことにしてしまおうと思った。幸い比呂人は昨日の出来事をきれいさっぱり忘れていたし、事実を知っているのは未波と俺だけだった。だから、俺と未波はふたりで約束をした。比呂人を守れるのは俺たちだけだって。俺も未波も久弥がどう感じるかなんて考えなかった。ただ、自分たちは最高に不幸だと思って、すべてなかったことにしてしまいたかったんです。雲雀さんがどう感じるかも考えていませんでした。久弥と雲雀さんの強さに甘えたんです、最低です」
「本当最低ですね」
  久弥が冷ややかにそう言った。
  久弥ほど痛烈ではないけれども、僕だって君にすごく失望しているんだ。
  うんざりしてきた。
  世の中には知っていいこと、悪いこと、知って後悔することのみっつがあると君は言ったけれども、本当に知らなければよかった。
  君の僕たちへの無神経さも、英里香の不幸な死に方も、君たちの不幸も、みんな知らなければよかった!
  あのまま英里香はどこかの変態に殺されたと思っていれば、せめて君のことは好きなままでいられたというのに。
  僕の中で色々なものが崩壊していた。
  信頼、幸福、おもいやり、怒り、悲しみ……
  言葉にできるものだけでもこれだけ崩壊したのに、言葉にできない感情が今もどんどん、ほら、がらがらと音をたてて崩れている。
  わかりたくないのに、英里香を傷つけた奴らの気持ちなんて知りたくもないのに、わかってしまう自分がいた。
  公章の苦しみも、未波の苦しみも、比呂人の苦しみさえも、わかってしまうんだ。
  お前たちを許さないって思っていた感情に罅が入る。どこかで、これでもう誰も苦しまずに済むんだと思ってしまう。
  だからって英里香はもう戻ってこないのに。誰も幸せになれるストーリーではないのに。
「君を嫌いになるかもしれない」
  罵倒する言葉が思いつかず、僕はそう言うのが精一杯だった。
  たぶん嫌いになることはないだろうけれども、もう好きになることもないだろうと思った。
  人間が人を一〇〇%信頼する瞬間というのは、言葉以上のものを感じとったときだ。
  僕と天使園のメンバーは、少なくとも言葉以上のつながりがあると思っていた。
  だけど今の君の言葉で、僕の公章への感情は九十九%以上あがらないものになった。最後の一%を信じられない存在に成り下がってしまった。
「本当のことを言ってくれてありがとう」
  僕は、君に魂を殺された。