第八章 「心の花」

 

 僕を車で自宅まで送ってくれた久弥は、片手でハンドルを操作しながらすごくどうでもいいことを言った。
「雲雀、僕は梅雨になるたびに君のことを思い出していましたよ。ほら、あなたウシガエルみたいな笑いかたするじゃあないですか、ぐぇっぐぇっぐぇ、みたいな。口もそんな感じに左右に裂けるみたいだし、およそ人間だとは思えません。前世はきっと蛙だったに違いありませんよ」
「やけに上機嫌に口悪いね。ここ数ヶ月僕にやさしくしてくれたのは演技?」
「演技ってわけでもありませんけれども、英里香ちゃんの死に対しては後ろめたさもありましたからね。僕のせいじゃあないとわかった今は怖いものなしです」
  たしかに君はそういう性格だよね。僕は溜息をついた。
「溜息つくんじゃあありませんよ。これでわかったでしょう、公章くんは最低の人間だってあなたにも。そうだ、ついでだから僕が最高の人間だってことも証明します。そろそろ雲雀の誕生日でしょう、何かお祝いを贈りますよ。ひまわりの種よりマシなものを」
「君の性格ってどうしてそこまでひん曲がってるの?」
「どういうことですか?」
「君だって公章の言葉にがっかりしたんでしょう」
  僕の言葉に久弥は少しだけ沈黙して、最後ににっこり笑った。
「しみったれた空気って最悪ですね。雲雀菌を置いておくと、きのこが生えそうです。ラジオでもつけようかなー」
  ぱち、とつけたラジオは音楽ならばよかったのに、天気予報だった。
  雨は今夜のうちにあがって明日には晴れ……僕の心も明日には晴れていればいいのに。
「ねえ、今度いっしょにどこか食事行かない?」
「男と食事に行くんですか? まあ、たまには付き合ってやらんでもないですよ。なんせ雲雀は友達がいなくて、雲雀は僕の食料ですから」
  こいつ、これからも給料日の前には僕のところに食べ物をたかりにくるつもりか。
  まあいい、英一がいない間は僕は本当に独りだし、酒をいっしょに飲み交わす仲間はほしい。
  この性格の悪い久弥とこれだけ腐れ縁になって、公章と心が疎遠になることがあるなんて思わなかった。
  なんだ、僕はまだ公章のことが大好きなのか。
  嫌いになろう嫌いになろうと思いながらも、どこかで心を許しているのだろう。
「なんだかやりきれないな」
「男ふたりの食事なんてそんなもんです」
  僕の呟きを久弥は勝手に解釈していたが、僕はもう訂正する気にもならなかった。

 馬鹿みたいに口の悪い男が去ったあとは、静かなものだった。
  あいつがうるさいのは今に始まったことではないけれども、いなくなると途端に寂しく感じるものだ。僕はたったこの数ヶ月で、孤独に弱くなったのだろうか。
  久弥が一口食べたきり残した麻婆豆腐を温めてやけ食いした。別に辛くないじゃあないか。
  そのあとはなんだか、テレビを見る気にもパソコンをつける気にもなれなかった。
  退屈なまま起きているのも暇なだけだし、早めに寝てしまおうと思って布団を敷いたとき、目に例の襖が飛び込んできた。
  ここしばらく君を観察していなかったけれども、君はやっぱり君のまま。そういえば英里香は僕のことを許してくれないんだったよね。
  君が許してくれないと言うのならば、僕は君に少しだけ心の隙間を許そうと思う。好きなだけ、そこに棲み続ければいい。
  電気を消して目を閉じた。精神的に疲れていたわりには、あっさり眠ることができた。

 なぜか夢の中で、僕は十八歳の頃に戻っていた。
  天使園の中には大きな子から小さな子までたくさんの子供が縦横無尽に動きまわっている。
  昔はこれだけのたくさんの人に囲まれて生活していたんだ。すっかり忘れていた、いや、忘れたいと思っていたはずなのに、どこか懐かしい光景。
「幸次郎! てめぇ硝子割ったの俺に押し付けただろっ!」
「わっり。片付けてくれたか?」
  僕の横を冬馬と幸次郎がそ知らぬ顔ですり抜けて行く。僕はここにいて、いないような存在みたいだ。
  冬馬と幸次郎は本当に仲がよかったよなあ。あれだけ正反対な性格していながらどうしてうまくいっていたんだろう。
  夢の中での僕はなぜか懐かしくてしばらく園内を歩いていた。
  すると、園の裏に久弥と英里香がいるのを見つけた。
「英里香ちゃん、どうかしたんですか?」
  もじもじしている英里香に久弥はやさしく聞いている。
  なんだ、これはもしや英里香が久弥に
「私久弥兄と結婚する」
  と言ったあのシーンか? 僕は思わず夫の浮気現場を押さえた妻のようにじっと見ていた。
「あのね、英里香ね、あのね」
「うん。どうしたんですか?」
  久弥は英里香の言葉を我慢強く待っている。こいつは子供の面倒見だけは本当にいいんだよなあ。
「雲雀兄と結婚したいんだけど結婚できないって言うの」
  え? 僕そんなこと言ったっけ。すっかり覚えていない僕は頭をひねった。
「それはですね、雲雀が照れているからそう言ってるだけですよ」
「でもね、兄妹は結婚できないって比呂人が言うんだよ」
  なんだ、比呂人か。中途半端に知識をつけているから義理の兄妹は結婚できるとか知らなかったんだろうな。
  まあ、いくら英里香が可愛いからって、十歳年下の英里香と結婚したかと聞かれればわからないけれども。
「大丈夫ですよ。雲雀はきっと十年後にあなたを迎えにきてくれます。だから安心して花嫁修業してください」
「本当?」
「本当ですよ。もし十年後、あなたのことをあいつが忘れていたなら、あいつの目の前に現れてやりなさい。きっと大慌てですよ」
「うん、わかった!」
  久弥と英里香が指きりげんまんをしている。久弥の奴、大嘘つきめ。英里香が結婚したいって言ったのはやっぱり僕なんじゃあないか。
  ねえ、英里香。僕はもう今回のことで、愛とか友情とか、そんな言葉は何を基準に信じればいいのかわからなくなった。
  だけど、君に対して向けている想いは間違いなく愛だよ。天使園の同僚たちに向けている想いも友情だと思う。
  だけどどうすればいいだろう、僕はもうこの言葉の意味を信じられなくなったんだ。
  だから僕は愛を思い出そうとするときは、「愛」という言葉を使わずに「英里香」って呟くことにする。友情が思い出したかったら、仲間の名前をひとつずつ唱えてみることにする。
  まだ生まれていない自分の子供への気持ちや、僕がこれから出会うだろう仲間たちへ向ける気持ちも全部その言葉に乗せる。
  それこそが僕の中で、変わらない、揺ぎ無い事実なんだ。

「あなたが許せない」
  後ろから耳元に囁かれるように呟かれ、僕はびっくりして飛びのいた。
  するとそこに、いつしか見た、十七歳になった英里香が立っていた。
「英里香?」
「十年後迎えにきてくれるって約束したくせに、全然迎えにきてくれないんだもの。待ちくたびれて私のほうから来ちゃった」
「いや、あれは久弥が勝手に約束したことで……」
  しどろもどろに言い訳をしている僕。
「英里香、君は死んでないの?」
「死んでるよ。肉体的には。だけど雲雀兄が思い出してくれれば、私は何度でも雲雀兄の中でよみがえる」
  君は本当に英里香だと言うのだろうか。それとも僕の中で君の幻想を具現化させているだけなのだろうか。
  英里香はにっこり笑った。
「比呂人を許してくれてありがとう」
「怒ってないの?」
「雲雀兄が怒ってくれた。誰も怒ってくれない理不尽さに怒ってくれた。こんなのは間違っている! なんて嫌な真相! お前に腹が立つ! そう言っちゃえればいいのに、公章兄ったらひとりじゃあ腹も立てることできないんだよ? だからいつまでももやもやしたもの引きずってるの。雲雀兄が怒ったから公章兄は心のもやもやすっきりしたよ、雲雀兄が『ありがとう』って言ったから公章兄は救われた。もっと早く、本当のことを言えばよかったんだ、って。明日には公章兄は謝ってくるよ。『悪かった、ごめんなさい』それでいいじゃない。全部解決!」
「僕に公章を許せっていうの?」
「雲雀兄はもう公章兄のことを許しているよ。ただそれを言うきっかけが掴めないだけ。だから機会は逃さずびしっと言ってやれ! 『許してやる』って、偉そうに」
  たしかに偉そうだな。その許してやるって態度。
  英里香は笑った、あのまぶしい笑顔で。
「みんなで幸せになって!」

 目が覚めた。まだ夜だったらしく、部屋の中は暗いのに、外は少しだけ明るかった。
  布団から這い出て縁側から空を見上げると、晴れ渡った空にきれいな月が昇っていた。
  まぶしいまでにあたたかな色の月だった。英里香の心を映したかのように美しい名月。 そして僕の心の月にかかっていた暗雲は君が全部吹き飛ばしてくれた。
  ものすごい突風だったよ。僕は今、最高に気分がすっきりしている。
  襖を振りかえると、そこに少女の後ろ姿はなかった。僕の幽霊との同居生活は静かに幕をおろした。

 翌日、出勤前に公章から電話がかかってきた。
――雲雀さん、昨日は、いえ、長い間すみませんでした。
  開口一番公章は謝ってきた。僕はもう君のことを許しているのに、どう言おうか迷って「電話ではまず名乗りなよ」
  とどうでもいいことを口走った。
――本当にすみませんでした。
「まあ君が反省したならいいけれどもさ、今度から僕にあんな嘘ついたら本気で怒るからね?」
――そんなことしません!
「栗の木の下、掘るために比呂人に場所聞きたいんだけど。死体遺棄の時効は三年だから比呂人は無罪だよ」
――本当ですか?
「嘘ついてどうするの」
  電話の向こうで公章がべそをかく声が聞こえた。
「君って奴は、本当に二十五歳になってまでべそかいててどうするつもり?」
――すみません。
「理不尽なことには怒りなよ。君の理不尽な組織、なぜか流れていた黒井家の血筋、未波の黒こげパウンドケーキなんかに文句つけたって誰も怒りやしないよ」
――が、がんばる。
  まあ努力次第でなんとかなるものばかりじゃあないけれども、努力なしに何もかもが変わるわけがないんだ。
「ねえ公章。僕さ、天使園を出て、変わらないものってたくさん見てきたよ。社会なんてすぐに変わるわけじゃあないし、僕ひとりの力じゃあ限界がある。逆に天使園の仲間たちも変わってなかった、それは嬉しいこと。変わったこともたくさんあったよ、僕は今犯罪をしなくても生きていけるようになったし、公章はボスになった。今度は、君が何かを変えていく番だ。すべてを一気に変えようと思わなくていい、少しずつでいい。僕たちの子供たちに、これが僕たちの歩んだ道のりだって胸張って言える、そういう親になろう」
――がんばります!
  電話の向こうで公章が姿勢を正すのが見えるようで、僕は口の中で含み笑いをした。
  電話を切ったあと、襖のほうを見ると英里香がこっちを見て笑っていた。僕もそっちに向かって笑いかける。
  仕事に出かける寸前
「いってらっしゃい」
  と声が聞こえた気がして、僕は
「いってきます」
  と言って玄関を飛び出した。
  空はきれいな晴天だった。
  僕の心もまっさらに晴れていた。

 そういえば、昔英語の授業のときに、杞憂のことを英語で
「空が落ちてきたら雲雀でも捕まえよう」
  と言うって習ったな。
  空でもなんでも落ちてこいよ、全部雲雀で受け止めてやる。
  空を飛ぶ雲雀を見て僕は頬笑んだ。