「沢寺」
  リヒャルトは従者の名前を呼んだ。
  リヒャルトは金髪の髪に、蒼い目をした、綺麗な少年だった。
  白いカッターシャツに赤いネクタイをきっちりと締めて、ダークスーツを着ている。
  その風貌は子供らしからぬ、冷たく、謐かなものだった。
  呼ばれた沢寺という女は、二十の半ばくらいであろうか。日本人らしい黒髪と穏やかな黒目をした、背の高い女だった。
  白いブラウスに赤いリボンタイ、ダークスーツの装束は、リヒャルトと対になるものである。
「なんでしょうか、リヒャルトさん」
「今日の気候は穏やかだね。昨日の嵐が嘘のようだ」
「そうですね。昨日はとても騒がしかったですからね」
「梢に巣を作っていた若親鳥は無事だろうか。雛はこの調子じゃあもう駄目だろうね」
「そうですね。どうしますか? 見に行かれますか?」
  沢寺に尋ねられて、リヒャルトは庭の散策に出ることにした。
  夏の雨に緑が濡れていた。蔓薔薇の甘い香りが庭を満たしている。
  空を見上げれば、暗い雲の迫間から、天使の舞い降りる舞台に降るような、白い光が差していた。
  リヒャルトは新鮮な空気を鼻いっぱいに吸った。夏は四季の中で二番目に好きな季節だ。
  生命が最も元気に息づいている。
  普段より、気にかけていた大木の枝に巣をつくっていたナイチンゲールは、この雨で巣を飛ばされて、空を旋回していた。
  足元を見れば、そこには小さな雛鳥がチチチと鳴いていた。
「足を怪我したようですね」
  沢寺が雛を拾い上げて、その足を確認して呟いた。
「いかがなさいますか?」
「自然の成り行きだ。ほうっておきたまえ」
「ええーっ」
  非難がましい声をあげた沢寺をリヒャルトは睨みつけた。
「人を人でなしのように言うな。どうしてもと言うなら、沢寺が面倒を見ればいい」
「そうしますよ。可愛いじゃあないですか」
  なんでも可愛いとか、可哀想とか言って引き取る癖のある沢寺にリヒャルトは溜息をついた。
  沢寺との付き合いはいい加減十余年になる。彼女の性格はわかっているつもりだったが、リヒャルトは彼女のこのどこまでも付き合う癖がとても心配なのだ。
「沢寺、お前……私が死んだらどうする?」
  リヒャルトは邸に帰る最中に彼女に聞いた。
  沢寺は雛に夢中だったが、リヒャルトの言葉に目をしばたたかせて、「やだなー」と言った。
「リヒャルトさんが死ぬわけないじゃあないですか」
「たしかにそうだがね」
「あなた、自分が死ねないことを忘れてしまったんですか?」
「いいや」

 リヒャルトの母親は、子供がほしいまま年老いた老婆だった。
  老婆は望んだ。「私に悪魔の子でもいいから授けてください」と。その一ヵ月後、老婆は子供を授かった。
  夫も死んだ高齢の女が孕むなどということがあるのだろうか、彼女は不思議に思ったが、それ以上に喜びが大きかった。
  生まれた子供にリヒャルトと名づけ、たいそう可愛がった。
  不思議なことに、老婆はその子供が十一を邀える頃、目立った理由も分からぬまま、眠るように死んだ。
  残されたのは老婆の生前稼いだ財産と、十一歳になる子供のリヒャルト、そしてたくさんの召使いたち。
  リヒャルトはその頃から不思議なことが自分の身に起きていることに気づいた。
  ある日、庭の薔薇を摘んだときに指に棘を刺してしまった。しかし、まったく痛みを感じなかったのだ。
  白い指先にぷっくりと浮いた赤い血を舐めて、それが鉄錆の味ではなく、蠱惑的な甘さを含んだ何かだということに気づいた。
  リヒャルトはその血の成分を専属の医師に調べさせたが、そこで分かったことは、これは血ではないということだった。
  ならば何なのか……答えは出なかった。
  リヒャルトの中に流れているのは血ではない。たとえるならば、保存料のような、少し鼻をつく甘ったるいものなのだ。
  それに気づいた頃から数年後、リヒャルトは自分が悪魔の子だということに気づいた。
  十一歳を境に、リヒャルトの身長は伸びなくなり、肌はどんどん病的なまでに白く、金髪は透き通るまでに美しい蜂蜜色になっていった。
  リヒャルトの歳は、母親の死んだ歳から一切とらなくなってしまったのだ。
  召使いたちはそんな彼を不気味に思って、ひとり、ふたりと辞めていった。
  今残っている召使いは、彼のことを可愛がっていた庭師とコック、そして沢寺だけである。
  沢寺はリヒャルトが十八歳のときに拾った、十四歳の少女だった。
  日本人を拾うというのも珍しいケースだが、ただの観光客だった彼女はアフリカを旅行している最中、親と離れ離れになって売り飛ばされたらしい。
  リヒャルトがアフリカのほうに仕事ででかけたついでに、目にとまった彼女は、他の奴隷の子供たちの中で、世間ずれしたかのように不躾で、リヒャルトに向かって手を伸ばしてこう言ったのだ。
「私に食べ物をちょうだい。もうずっと食べさせてもらってないの」
  リヒャルトは多少この躾のなっていない奴隷の少女に腹が立ったが、彼女が腹を空かせていることもわかっていたので、彼女を買うことにした。
  沢寺の失礼な言動が、沢寺の命をつないだのである。
  リヒャルトがアフリカに行っていた理由はひとつである。新しい製菓会社を建てるために、チョコレートの工場を探していたのだ。
  リヒャルトはまるごとひとつの会社を買って、奴隷をたくさん雇い、そしてチョコレートを作らせた。
  フランスのチョコレートはともかく不味い。そう思ったのは初めてイタリアのチョコレートを食べたときだった。
  美味しくて、上質のチョコレートをつくれば、きっと売れるはずだ。リヒャルトはチョコレートの会社を作ることにした。
  沢寺は日本のチョコレートがいかに美味しいかを知っていたし、甘いものが大好きだった。
  リヒャルトも甘いものが大好きだったが、沢寺のチョコレートへのこだわりは少し理解しかねる。
  しかし、お金を出して買ったチョコレート狂の少女の舌が確かだったためか、チョコレート会社は成功したのである。
  リヒャルトをモチーフにした、金髪の少年の横顔のレリーフの入ったチョコレートは、飛ぶように売れた。
  リヒャルトの周りには金に叢がる権威主義者が集まり、そしてリヒャルトは彼らに少量の金を与えて、根こそぎ利益を回収した。

 ある日、リヒャルトは十八歳になる沢寺が泣いていることに気づいた。
  リヒャルトは彼女が何故悲しんでいるのかと聞いた。
「アフリカのチョコレート工場の子たちは、寝る間も惜しんで働かされて、そしてご飯ももらえないらしいです」
  リヒャルトにはそれでどうして彼女が泣いているのかがわからなかった。
  自分はご飯が食べられるし、そして沢寺だって無関係の暮らしをしているではないかと思ったからだ。
「夢の中にリヒャルトさんに拾われる前のことがよく出てくるんです。お腹は空くし、夜は怖い人たちが私に乱暴をしていきました。お風呂には入れないし、お父さんもお母さんもどこにいるかわからないし、だけど死にたくはなくて、生きたくて、助かりたい一心でリヒャルトさんにこう言ったんです。Help me!と。アフリカで英語を話すのは私だけみたいだったから、リヒャルトさんは私に気づきました。だけどあそこでリヒャルトさんが私に気づかなかったら、私は今頃お腹を空かせながらチョコレート工場で働いていたんです」
  リヒャルトはとてもショックだった。
  自分の大切にしている少女が、過酷な環境から縋るように自分に手を差し伸ばしたなどとはつゆとも知らなかったからだ。
  リヒャルトの会社の方針がかわったのはその頃くらいからだった。
  上質のチョコレートを、フェアトレードで。
  クリーンなイメージを定着させることに成功するまでは、かなり経営は悪化したが、それでもリヒャルトにとってはチョコレート会社も、そこで働く部下たちも、そしてチョコレート工場で働く子供たちも、大切だった。
  金額を上げる以上、チョコレートの質も向上しなくてはいけない。
  日夜美味しいチョコレート作りに励んだ成果は、今日に至るチョコレート会社の大きさにそのまま比例するだろう。
  そんなリヒャルトの人生に大きな影響を与えた沢寺は、今年で二十六歳になる。
  リヒャルトは本来ならば三十歳になるはずだった。しかし彼の外見は、今もなお十一歳のままで留まっている。
  リヒャルトはこの年齢になるまで、何度も自分が死ねない躰であることを確かめていた。多少の失血では頭痛がする程度だし、服毒しても、心臓を一突きしても、記憶が飛んだ翌日には傷は癒えて、復活しているのだ。

「リヒャルトさん?」
  沢寺に呼ばれて、追憶を辿っていた頭が元の世界に戻ってきた。
「リヒャルトさんが死んだら、どうするかですか?」
「ああ、そうだ」
「チョコレート会社を潰さないようにがんばります」
「お前の経営センスだったらすぐに潰れる。普通に幹部に任せておけばいいだろ」
  リヒャルトは鼻息を荒くしてそう言うと、邸の中に入った。
「リヒャルトさん、リヒャルトさーん、何そんなに怒ってるんですか!?」
  後ろから沢寺が早足で付いてきながらそう言った。
「別に怒ってなんかいない!」
「嘘です。怒ってます」
「ついてくるな」
「だって今から食堂に向かう時間じゃあないですか。私もお腹空いたんですよー」
  リヒャルトが走りだすと、負けじと沢寺も走りはじめた。
  ばん、と食堂のドアを開けると、コックのピーターが食事の支度をしながらこちらを見た。
「そんなに腹空いたの? お子様たち」
「お腹空きました!」
「そんなに空いてるわけじゃあないけど、沢寺が空いてるそうだから早く支度してやってくれ」
「リヒャルトはいつでも沢寺のこと最優先だよね。結婚すれば?」
「はっ、身分が違いすぎるだろ」
「そうですよ。身分が違いすぎますよ」
「今のご時勢に身分ときたか……」
  ピーターは呆れたように呟いて、焼きたてのクロワッサンを沢寺に渡した。
「アリサちゃん、これ先に食べてて。今他の料理運んでくるから」
「ありがとうございます」
  ピーターがキッチンに消えて行くのを確認してから、沢寺は口にパリパリのクロワッサンを頬張った。
「ふも、おいひい」
「食べながら喋るな。沢寺、お前幾つだ?」
「にじゅうろくひゃいです」
  こうしていると、まったく二十六歳に見えない沢寺を席に座らせて、庭師のブノアとピーターが斉うのを待って、食事の祈りを捧げて、ブランチを食べた。
  ピーターの焼くクロワッサンは、少しばかり焦げ目がついており、苺のジャムをそれにのっけて食べると、バターの香りが口の中に広がった。
「リヒャルトさん、口に苺ジャムついてますよ?」
  隣から沢寺がリヒャルトの口をナプキンでぬぐった。
「自分でできる。子供扱いしないでくれ」
「でも見た目子供なんですもの」
  仕方無いじゃあないか。そう沢寺は言った。
  ピーターがにやにや笑いながら、「アリサちゃんもリヒャルトに世話やかれるほうから焼くほうになりたいんだよね?」と言った。
「そうですよ、何時までも子供じゃあないんですから!」
「はいはい、沢寺は大人大人」
「リヒャルトさん、全然私が大人だと思っていませんね」
  宥めすかすようにそう言ったリヒャルトを沢寺が恨めしそうに睨みつけた。
  リヒャルトは別に声高にして言うこともなかろうと思って言わないだけである。
  いつまでも子供ではない――沢寺アリサはいつか大人になる。
  いつまでも子供のまま――リヒャルト=アイゲンラウヒは大人になれない。
  言うまでもないことだったが、リヒャルトはその事実を寂しいと思うのである。

 仕事をしている間はリヒャルトも沢寺も静かである。
  沢寺は試食室に篭りきりだし、リヒャルトは社長室に篭りきりだ。
  会議室で流通の動きや、新製品の説明を受けながら、リヒャルトは彼女が今何をしているかを考える。
  新しく彼女が作り出したチョコレートというものを食べてみたが、昔少女時代、彼女が美味しいと言ったチョコレートのほうが美味しかったような気がする。
(妥協しやがったな。あいつ……)
  リヒャルトは内心舌打ちをした。
  沢寺が新製品になかなかOKを出さないことで、社員が不満を持っているのは知っている。
  フランスという土地で、日本人の無学な女がその全権を握っていることに嫉妬している連中が多いことも。
  だからこそ、妥協してはいけないのだ。
「沢寺」
  神経質そうに、リヒャルトは彼女の名前を呼んだ。
「なんでしょう?」
「お前、クビになりたくなかったら、美味いチョコレートを作れ」
  怒り心頭の声に沢寺がしゅんとして、腰を折って謝った。
「すみません、美味しくありませんでしたか?」
「お前の味覚を信じて任せてあるんだ。今度てきとうなもん喰わせたら、承知しないからな」
「わかりました」
「妥協は一切赦さない」
「すみませんでした」
「わかったら、仕事場に戻れ」
  リヒャルトはチョコレートを沢寺に押し返して、仕事場に帰した。
「リヒャルトさんでも沢寺を怒ることってあるんですね」
  秘書がびっくりしたように呟いた。
「私が沢寺を怒らない理由があるのか? あいつは部下だってのに」
「なんだか仲睦まじいから、なんでも赦しちゃうのかと思っていました」
  リヒャルトはかちんときて、きっぱりと言った。
「いいか? 私はこんなナリだが、この会社の社長だぞ? 部下は千人もいて、チョコレート工場で働いている人間たちはさらにたくさんいる。その私のことを甘く見るくらいだったら、君にも辞めてもらうからな」
「すみませんでした」
  慌てて謝った秘書に仏頂面のまま、リヒャルトは思った。
  子供の姿をしていなければ、こんなに嘗められることもないのに…と。

「リヒャルトは何かアリサちゃんにしたの?」
  ドライフルーツをチョコレートでコーティングしたものを寝室に運んできたピーターが言った。
「何かって?」
「なんかアリサちゃん帰ってきたら元気なかった」
「ちょっと会社で叱っただけだが?」
「あー、リヒャルトは会社じゃあ鬼みたいだからね」
  プルーンのチョコレート漬けを口に運びながら、ピーターは言った。
「ちゃんと仲直りしなくちゃだめよ?」
「わかってるよ」
「リヒャルトはわかってないない」
「何を?」
「アリサちゃんは大人としてリヒャルトに認めてほしいんだよ。リヒャルトはいつまでもアリサちゃんのことを十四歳の子供と同じように扱っている。それってさ……お前のことを十一歳の子供と同じように扱う嘗めた連中といっしょじゃねぇの?」
言われて反論する言葉が浮かばなかった。
  ピーターはチョコレートの皿をリヒャルトの頭の上に乗っけて言った。
「これでも食べて、アリサちゃんと仲直りしてきなさい」
「お前も私のことを子供扱いしてるじゃあないか」
「子供ですよ。五つも年下なんだもの。リヒャルトもアリサも子供。無理に大人になろうとしなくたっていいじゃん。遊べるのは子供のうちだけだぜ?」
  ピーターはそう言うと、鼻歌を歌いながら部屋の外へ出て行った。
  リヒャルトはチョコレートをひとつ口に運んだ。干したマスカットにチョコレートのコーティングがして あるそれは、さわやかな酸味がして美味しかった。
  そのチョコレートの皿を持って、少し離れたところにある沢寺の部屋を訪ねた。
「沢寺、入るぞ?」
  二度ノックをして、扉を開ける。
  沢寺は布団を被って寝ていた。瞼が脹れているところを見ると、少し泣いたのかもしれないと思った。
  リヒャルトはこういうとき、沢寺をどうやって励ませばいいのかわからない。
  仕事に妥協するわけにはいかないし、だからといって、彼女が頑張っていないと思っているわけではないのだ。
  子供の自分に弱さなんて見せられない、そう虚勢を張っている沢寺に、子供の頃のように頼ってくれていいのだと、言い出せないのだ。
  沢寺にとって、自分は子供にしか見えていない。リヒャルトは沢寺に自分のことを大人の男として認識してもらいたかったが、それは叶わぬ願いなのである。
  ふと窓辺を確認すると、真綿の中にナイチンゲールの雛がいた。
  あの雛も、いずれは大人になる。
  だけど自分は? ピーターや沢寺が今のブノアよりも年上になったとして、それでも自分は子供のままなのだろう。
  いつになれば、自分は死ねるのだ。
  そんなどんよりした感情が、頭の中を支配する。
「アリサ……」
  沢寺の名を、小さく呼んでみた。
  彼女は深く眠っているようで、まったく反応しない。
  彼女の手のひらを突くと、赤ちゃんが反射的に握るように、ぎゅっとリヒャルトの手を握った。
  リヒャルトはおかしくなって笑った。なんて可愛い、自分のお姫様。
  だけど先ほどピーターが「いつまでも沢寺を子供扱いするな」と言ったのを思い出して、自分の心を叱りつけた。
(私が沢寺に子供であってほしいのは、きっと自分が歳をとらないように、彼女もずっと子供であって欲しいからだ)
  いつか、彼女は、自分以外の男に恋をして、結婚して、母親になるのだろう。
  その邪魔をリヒャルトはすることができない。
  恋、なのだろうか。
  あまりにも長い間連れ添ってきたので、今となってはそれがどんな感情なのかわからない。
  リヒャルトは沢寺の隣に寝転がって、彼女の寝顔を見た。
  しゃべると幼いとはいえ、今ではもうすっかり成人した大人の顔立ちである。
  ぺたりと自分の貌を触れば、そこにあるのはあどけない子供の輪郭。

 大人になりたいなあ――

 リヒャルトはそう思いながら、目を閉じた。朝目が覚めたら、大人になっていたなんてことがあればいいのに、と願いながら。

「んぎゃー!」
  朝の目覚めに相応しくない声で、リヒャルトは目を覚ました。
  あのままうっかり寝てしまったらしい。
  隣で大声をあげた沢寺を見ると、彼女はリヒャルトを見つめたまま、こう言った。
「何時の間にそういう関係になったんですか!?」
「は?」
  思わずぽかんと口を開けて、リヒャルトは次第と馬鹿馬鹿しい沢寺の勘違いに気づく。
「馬鹿か。ここでただ単に私が寝てしまっただけだ」
「そ、そっか。びっくりした」
「だいたい十一歳のナリでそんなことできるわけがないだろ」
「わかりませんよ。今の子供ってみんな早熟ですから」
  リヒャルト、生まれてこの方性欲めいたものを感じたことがない。三十になっても女を抱きたいと思ったことなどないのだ。
「沢寺」
「はい?」
「お前は私のことを大人の男とでも思っているのか?」
「いいえ」
  分かってはいたものの、即答されればいささかショックでもある。少しくらい躊躇してくれたっていいのに、そう思った。
「リヒャルトさんは、私にとって、一番大切な人です」
(そういう認識か)
  大人とか子供とか、そういう認識ではなく、リヒャルトという認識らしい。
  まあ歳をとらないわけだし、そういう認識でも構わないわけだが。
「でも人のベッドでそのまま寝てしまうなんて、やっぱりリヒャルトさんもまだまだ子供ですね」
「うるさい」
「顔洗ってきます」
  沢寺が部屋から出て行ったあと、ふと窓辺の雛を確認したら、すでに事切れていた。
  雛が死んだことを知ったら、きっと沢寺は悲しむのだろうな……そう思った。
  リヒャルトはその雛をそっとポケットに仕舞って、窓を開け放った。
「リヒャルトさん、あと十分で朝食なので、着替えてください」
  戻ってきた沢寺が、雛がいないことに気づいて首を傾げた。
「成鳥になって、巣立ってしまったよ」
  リヒャルトは白々しい嘘をついた。
  沢寺は「元気になってよかったですね!」とはつらつと言い、着替えるためにリヒャルトを外に出した。
  リヒャルトは着替える前にその雛を土の中に埋めに行った。
  一日で成鳥になった雛のように、自分もある日、一日で大人になったりしないだろうか。

◆◇◆◇
「我がチョコレート会社は一に美味い、二に美味い、三・四も美味くて五も美味いチョコレートを作ることがモットーである」
  仁王立ちした沢寺は社員たちに言った。
「だから美味しいチョコレートを作りましょう!」
  また始まった。社員たちはそういう顔をしていた。
  チョコレートに情熱を傾けているのは、リヒャルトと沢寺くらいである。
  普通に高級チョコレートと名がついていればブランド名だけで売れるくらいには、規模の大きい会社だ。
  どうしてそんなに頑張るのかが社員たちには理解できない。
  給料の分はしっかり働くが、過剰に頑張る性質の日本人である沢寺アリサと、フランス人は気性が合わない。
  アイゲンラウヒのチョコレートは世界一。そう言われるようなチョコレートを作り続けることが、沢寺にとっての誇りだった。
  今日も白衣を着て調合を何度も試み、パティシエたちの間を動き回る。

◆◇◆◇
  その様子を硝子ごしにリヒャルトは一瞥して、社長室へと戻った。
  社長室には既製品のチョコレートが硝子皿の上に盛ってある。それを一口、口に運んだ。
  口に含んだ瞬間とろける滑らかなトリュフはアイゲンラウヒの誇りである。
  それをカフェモカで流しこみながら、書類に目を通した。
  美味しいチョコレートは食べ慣れた。少しでも美味しくないチョコレートは我慢できないくらいだ。リヒャルトの舌を満足させるために、沢寺は毎日チョコレートをさらにたくさん食べている。
  大人にきびができるんだと言ってイヴサンローランの化粧水を買っている沢寺はチョコレートの油分とあいまって、いつも肌がてかてかつやつやしている。
  怠慢な部下たちの中で、経営を抜いて純粋にチョコレートのことを考えているのはきっと沢寺だけだろうとリヒャルトは思っている。
「失礼します。リヒャルトさん、味見してくれませんか?」
  沢寺がチョコレートの試食品を持って部屋を訪れた。
出来たての生チョコレートに串を刺して、リヒャルトは口の中に運び込んだ。
「うん、美味い」
「じゃあこれで……」
「あともうちょっと工夫しなくちゃだめだな。既製のチョコレートよりさらに美味しくなくちゃ、新製品の意味がない」
  厳しいリヒャルトの言葉に、がっくりと肩を落として、沢寺が「はい」と言った。
「そういえば、お前はノーモアチョコと思うくらいチョコレートを毎日食べてるんだろ? 少し飽きたりしないのか?」
「全然飽きませんよ。だって理想のチョコレートをリヒャルトさんに食べてもらうためにやってるんですから」
「解せんな。どうしてそこまで私に美味しいチョコレートを食べさせたいんだ?」
「社員ですから社長を喜ばせたいんです。お給料にも反映しますし」
「お前と調理師たちは同じ給料だろうが。お前と同じだけ頑張っているパティシエが何人いる?」
  沢寺は頑張りすぎだ。
  頑張らせているのはリヒャルトだが、それにしたって頑張りすぎなのだ。
  もっとリヒャルトの悪口でも言いながら、部下に甘くしていれば、きっとこんなに沢寺が他の社員に嫌われることもないのだろう。
「リヒャルトさんはピーターパンなんですよ」
「ピーターパン?」
  リヒャルトは怪訝な顔をした。
「そうです。永遠に歳をとらない、永遠の少年です。子供にしかわからない幸せってあるじゃあないですか。美味しいチョコレートを口にいれた瞬間の、あの、幸せ!」
  ごくん、と唾をためた喉を鳴らし、沢寺は言った。
「リヒャルトさんは本当に美味しいチョコレートを食べるととても幸せそうな顔をするんです」
「へえ、」
  初耳だった。
「アイゲンラウヒのチョコレートってリヒャルトさんがロゴじゃあないですか。やっぱりリヒャルトさんが満足するチョコレートを作るのは夢ですよ」
  がんばります! と敬礼をすると、沢寺は部屋から出て行った。
  リヒャルトは考える。最愛の部下であり、女性である、沢寺アリサがチョコレート会社を引退する年齢になる頃を。
  自分はその頃もきっと、チョコレート会社の社長をやっているのだろう。
――リヒャルトさんはピーターパンなんですよ。
  ピーターパンなどではない。大人になりたいと願う、ただの人間のなりそこないだ。
  リヒャルトはチョコレートをもうひとつ摘まんで口に運んだ。
  永遠に若いままなんてつまらない。
  大人になりたかった――
「大人になれないなら、チョコレートになりたい」
  冗談めいて、そう呟いた。
  そう、大人になるかチョコレートになってしまいたい。そう思ったからだ。
  そのときだった、リヒャルトは万年筆の先っぽで自分の指を突いてしまった。
  一瞬ぴりっとした痛みが走り、リヒャルトは反射的に指を咥えた。いつもならば保存料のような味のする、その血を。
  違和感があった。
(この味は……チョコレート?)
  自分の血から、チョコレートの味がした。リヒャルトはいったん口を離して、珈琲で口の中をすっきりさせると、もう一度指を咥えた。
  やはり、チョコレートの味がする。
  今まで食べたどんなチョコレートよりも美味しいカカオの味がした。
「え、まさか……」
  リヒャルトは青ざめた。まさか自分は本当にチョコレートになってしまうのか。
「沢寺!」
  急いで一番信用できる従者の名前を呼んだ。
  彼女は白衣を着たまま、急いで社長室までやってきた。
「リヒャルトさん、どうしましたか?」
「私はチョコレートになってしまう!」
「は?」
「私の血を舐めてみろ、チョコレートの味がするんだ」
  指を突き出されて、沢寺は少し戸惑ったように指を口に含んだ。
「チョコレートの味……しますね」
「大人になれないならチョコレートになりたいって言った瞬間、血がチョコレートになった!」
「なんてこと願うんですか! リヒャルトさんがチョコレートになったら共食いですよ」
  なんだかピントのずれたことを言って危機感のない沢寺をよそに、リヒャルトは大慌てである。
「さっきのお願い取り消すことってできないんだろうか」
「誰が叶えたんでしょうね。神様でしょうか」
「悪魔に決まっているだろうが!」
「チョコレートが好きな悪魔なんでしょうか」
  大変なことになった。
こんな非現実的なことが起こるのを容認できるのは、邸の従者か沢寺くらいしかいない。
「沢寺! 悪魔祓いの用意を」
「してどうするんですか?」
「私がチョコレートになってしまってもいいのか?」
「そんなこと言われても……チョコレートになるのを防ぐ祈りを知っているエクソシストなんていませんよ」
  もっともな答えだった。どんなエクソシストにもこの問題は解決できない。
「沢寺、私は早退する。そう秘書に伝えておいてくれ」
「……わかりました」
  リヒャルトはよろよろと会社の外へ出た。真夏である、チョコレートになりかけているリヒャルトは、頭の中がどろどろになるのを感じた。
「このままではチョコレートフォンデュになってしまう……」
  タクシーを拾うと、邸まで戻った。
  冷房を最大限に強めて、ベッドの上に転がった。
  気だるい躰をシーツに横たえた瞬間、べちゃりと茶色いシミがついた。
「チョコレート……」
  肌から汗が染み出し、それが茶色いシミをつくっているのだ。
  やがて皮膚も髪も全部チョコレートになるのだろう。
  悪魔の子として生まれ、中途半端な少年の姿のまま時を止め、そして最期はチョコレートになって死んでいくなんて、シュールすぎる。
「お願いです、どんな神でも悪魔でもかまいません。私が明日起きたら巨大な板チョコになっていたとかいうオチだけはかんべんです」
  見たこともない異次元のものに祈りを捧げた。
  自分がこのままチョコレートになってしまうというときになって、リヒャルトは沢寺に告白しなかったことを悔いた。子供のままでもいい、馬鹿にされてもいい、ちゃんと言えばよかった。
  沢寺のことをずっと愛していたと、伝えればよかった。
(明日にはチョコレートになってる奴に告白されても仕方がないか)
  溜息をつく。できれば沢寺には幸せになってほしいと思いながら、どろどろに溶けはじめた意識がチョコレートフォンデュの中に埋没していった。

 夢の中で、リヒャルトはチョコレートの王国にいた。みんなチョコレート色をした世界の中に、巨大なチョコレートの像が立っていた。
――悪魔の子よ。私はチョコレートの神である!
  なんともシュールな夢だ。チョコレートの像が喋ったのである。
――お前はチョコレートになりたいと願った。それは本心か?
「いえ、全然」
――ではチョコレートではなく、何になりたいのだ?
「できれば……大人になりたい」
――それは管轄外である。チョコレート以外のものならば、カカオの実かココアパウダーがあるが何になりたい?
「人間に戻りたい……」
――そなたは悪魔の子であって、そもそも人間ではないではないか。
  リヒャルトはこの頭の弱そうなチョコレートの神様と話すのが億劫だったが、ここで粘らなくては本当にチョコレートにされてしまいそうだった。
「悪魔の管轄に直談判できませんか?」
――してもいいが、悪魔の管轄は悪魔しか作れないぞ?
「それでいい」
  チョコレートの神様は両手を天にかざすと、リヒャルトを宙に放り投げた。
  リヒャルトは一瞬の浮遊感と共に、別の空間へと飛んだ。
――悪魔の子よ。お前はチョコレートの神に何を願ったのだ?
  暗い空間に馬の蹄をつけた悪魔がこちらを見てそう言った。
「ええと……あなたは?」
――メフィストフェレスだ。
「私は大人になりたいんだが、どうにかして大人になる方法はないか?」
――お前にとって一番大切なものを差し出すというのならば、お前を大人にしてやってもいい。
「一番大切なもの?」
――沢寺アリサがお前にとって一番大切なものだろう?
  リヒャルトは怪訝な顔をした。
「沢寺の命を悪魔にくれろというのか?」
――いいや、違う。
「じゃあ……」
――沢寺はチョコレートになるだけだ。
  このシュールな夢の終わりを早く知らせてほしかった。
「他のものはないのか? 他のものは。私の大切にしているもので他に交換条件になりそうなものはないのか?」
――たとえば?
「チョコレート工場とか…」
――悪魔はチョコレートを食べない。
  身も蓋もない断られかただった。
――でもまあ、チョコレートから悪魔の子に戻すくらいは、やってやってもいいが。
「お願いします!」
――しかし、いいのか? いつまでもずっと子供のままだぞ?
「構わない。子供のままでも」
  メフィストフェレスはすっと右手を差し出した。その方向に、一本の道ができる。
――この道を一歩でも踏み外せば、お前はチョコレートになる。踏み外さぬように帰ることだな。
  親切な悪魔だな、そう思いながらリヒャルトはその道を帰っていった。暗い中に仄かに紫に光る道を歩いていると、ぱたぱたと羽音が聞こえた。
――コマンタレヴ? ムシュ・リヒャルト。
  流暢なフランス語でそう言われて、歩く足を止めた。
――あなたが埋めてくれたナイチンゲールの雛ですよ。あなたが大人になるお手伝いをしにきました。
「なんだって?」
――大人になりたいんでしょう? こっちです。
  ナイチンゲールが向こうへ飛んでいった。リヒャルトは躊躇した。このまま紫の道を進めば、子供ではあるが、チョコレートにならずにすむ。しかしナイチンゲールについていけばもしかしたら大人になれるかもしれず、そしてもしかしたらチョコレートになる可能性もあるのだ。
「どうする! 私」
――リヒャルトさん、僕を信じてください。あなたは悪魔の子なんかじゃありません。
「……なんだって?」
――チョコレートでもありません。
「当たり前だ」
――ついてきてください。一生悪魔の子でいるより、いちかばちかチョコレートになるかか大人になるかの冒険に出ましょう!
  このナイチンゲールこそ悪魔なんじゃあないだろうか、そんな気がしてきた。
  リヒャルトは、そっと、紫の道からナイチンゲールのほうへと踏み出した。
  ぼんやりと、白い道が光っている。
「この道はどこへ繋がってるんだ?」
  ナイチンゲールのいざなう方向へと、歩き出す。時間を遡るように、この三十年間の記憶が空間へと浮かんでは消え、浮かんでは消えた。
「おい、どこまで連れて行く気だ?」
――リヒャルトさん、神様って信じていますか?
「信じていない」
――悪魔は信じるくせに?
「悪魔も信じていない」
――信じてくださいよ、リヒャルトさんは、愛されて生まれてきたんです。
  リヒャルトは顔をしかめた。ようやく空間の端にきたようで、そこから一歩も進めなくなった。
  その目の前には、母親が自分の腹を撫でて、子供を授かりたいと言っている姿があった。
――リヒャルトさん、この中に入ってください。
「は?」
――やり直すんです。一から、大人になるまで。
「赤ん坊になれというのか!?」
――そうです!
  リヒャルトは舌打ちをして、母親の腹目掛けて飛び込んだ。

 ……目を開けたら、自分は赤ん坊の姿だった。
(シュールすぎる)
  どこまでこの馬鹿馬鹿しい話は続くのだろう。母親が自分に授乳しようとする。三十歳を迎える魂が〇歳児の躰に宿り、お母さんのおっぱいを吸っている。
  何が悲しくてこんなことをしなくてはいけないのだろう。せいぜいいっぱい飲んで、早く成長して、立派な大人になってやる。そう考えながら赤ちゃんからやり直した。
  リヒャルトは聡明な子供だった。無理もない、大人の魂を持った子供だった。母親はこの子は天才だと歓喜した。
  退屈な小学校の授業を受けて、義務教育の完了する頃、リヒャルトの母親はやはり病へと臥した。
  母親は言った。
「私はあなたを授かるように悪魔にお願いした。だから天国には行けないわ」
  リヒャルトは、はっと気づいた。ずっと忘れていたことだった。ここで母親に自分はこう言ったのだ。
「母上が天に昇れるならば、僕はなんにでもなります」
  と。リヒャルトは躊躇した。
  母親のためにずっと子供のままでいていいのだろうか。ここで悪魔と契約しなければ、自分はすくすくと大人になったのだろう。
  しかし、リヒャルトは言った。
「母上が天に昇れるならば、僕はなんにでもなります」
  母親を愛していた。そして愛されていた。
  一生子供のままでもいいではないか、母親に天に昇ってほしかった。
「神に誓います。子供の姿のままでも、立派に生きていくことを。愛する人を見つけ、愛し、愛され、そして未来を見守ると」
  母親はにっこりと笑って、息絶えた。

 さて、わざわざ人生を一巡したというのに、結局子供のままの人生を選んでしまったリヒャルトは、それから邸の中で細々と生活していた。
  ある日庭で蔓薔薇の手入れをしていたときに、ぷっすりと指を刺してしまったのは、それから数年後のことだった。
  口に含んでみて、それが鉄錆の味であることに気づく。
  確かめるように、もう一度血の味を味わった。
「ブノア! 血の味がする」
「何言ってるんだい、ぼっちゃん。血を舐めたのは初めてかい?」
  嬉々として叫んだリヒャルトに、ブノアは笑った。
  自分は、大人になれるのだ。

 リヒャルトは今度こそ順調に大人へと成長した。青年実業家として、チョコレート工場を探し始める十八の年、リヒャルトは真っ先に沢寺と会った市場へと向かった。
  今度こそ、大人の自分として沢寺と会うことができる。高なる胸をおさえながら、彼女の姿を探した。
  しかし、どんなに探しても彼女はいなかった。
「ここに日本人の女の子はいなかったか?」
  リヒャルトは商人に聞いたが、商人は知らないと答えた。
「……まさか、運命がかわった?」
  リヒャルトが大人になったことで、僅かに運命が修正されたのだろうか。ということは、沢寺は違う雇い主に買われたことになる。
  急に心臓が重くなるような気がした。
  彼女が自分の元に来る前、とても辛い思いをしたことを知っているリヒャルトは、これから先の沢寺のことを考えると胸がつぶれそうだった。
  奴隷商人からその場にいた奴隷を買い取り、工場の契約をすませたあと、リヒャルトは失意のままにフランスの邸まで帰った。

 一日中暗くした室内でぐったりしているリヒャルトを心配したピーターが、とっても美味しいプティングを焼いてくれたが、リヒャルトは一口口に運んで、今頃過酷な労働を強いられているであろう沢寺のことを考えて、食欲が失せた。
「リヒャルト、お前チョコレート会社をつくるんだってすげぇ張り切ってたじゃねぇか」
  ピーターが食欲のないリヒャルトを窺うようにそう言った。
「ずっと……探していた人がいるんだ」
「どんな人?」
「沢寺アリサって女の子」
「それアフリカにいるわけ?」
「いるはずだった……」
  がっくりと項垂れているリヒャルトの額に手をあてて、ピーターは熱をはかった。
「社長がこんな調子じゃあ、チョコレート会社大丈夫かなあ」
「大丈夫。チョコレート会社は絶対成功させる」
「本当かよ?」
「私は世界一美味しいチョコレートをたくさん前世で食べたんだ」
「いよいよ頭おかしくなってきたな。リヒャルト」
  ピーターが心配そうに呻いた。
  まあいい、ピーターがどう思っていようが、リヒャルトの舌はぴか一である。一度食べた味を忘れるはずはない。

 ところが、リヒャルトの考えとは裏腹に、チョコレート会社は不況だった。
  そう、リヒャルトはチョコレートの味は覚えていたが、それを再現する技量がなかった。
  どんなに頑張っても、沢寺の作ったあの最高のチョコレートの味が再現できないのだ。
  小さなチョコレート会社は、フェアトレードを謳い文句にしても、時代の流れには乗れなかった。
「やっぱり沢寺に会わなかったのにチョコレート会社なんて始めてもだめだったのか」
  赤字の帳簿をつけながら、リヒャルトは溜息をついた。
  チョコレート会社を始めてから四年……もうそろそろ潮時だな。そう思った。
  最後くらい、道行く人たちにチョコレートを振舞って華やかに閉店しよう、そう考えた、矢先だった。
  パリの街中で、沢寺の姿を見かけた。
  黒い髪をお団子にして、赤いダッカールで止めた、眼鏡をかけたひょろひょろの姿。見間違えるわけもなかった。
「沢寺!」
  思わず名前を叫んだ。
  沢寺はびっくりしたように振り替える。
「名前呼びましたか?」
  彼女の手には、アイゲンラウヒのチョコレートが握られていた。
「そのチョコ……」
「ああ、好きなメーカーなんです。フランスに来たときはいつも食べているんですよ?」
「何度も来ているのか?」
「お父さんが流通関係の人で。それにしてもお兄さんどなたですか?」
  十八歳の沢寺アリサが、小首をかしげてそう言った。
  リヒャルトは彼女の運命が奴隷からそれたことを心から喜びながら、がしっと沢寺の手を握った。
「君の力が必要だ!」
「はい?」
「沢寺、世界一美味しいチョコレートを作るぞっ」
  沢寺はリヒャルトがどうして自分の名前を知っているかわからなかったが、彼が自分のことを知っていて、そしてチョコレートと関係があることがわかった。
「私の会社にくれば、アイゲンラウヒのチョコレート食べ放題だ!」
「行きます! すぐに採用してください!」
  目を輝かせた沢寺の手を引いて、リヒャルトは会社めがけて駆け出した。
  沢寺は息を切らせながら必死についてくる。
  小さなチョコレート会社のキッチンに入ると、リヒャルトは言った。
「みんな、新しい仲間を紹介する! 沢寺アリサだ」
「よろしくお願いしまっす!」
  ぴしっと躰を折り曲げて挨拶をした沢寺に、パティシエのみんなが笑顔で笑いかけた。
「よろしくアリサ!」
「沢寺って日本の名前だろ? 若いねえ」
「チョコレートは好きなの?」
「大好きですっ」
  沢寺は目を輝かせてそう言った。
  小さなチョコレート会社は、チョコレートの大好きな人が集まっていた。
「世界一美味しいチョコレートをつくりましょう!」
  沢寺が元気にそう言った。

 沢寺の父親、貿易会社の伝手もあり、小さなチョコレート会社は一気に市場を広げた。
  少年の横顔がモチーフのアイゲンラウヒのチョコレートは、みるみるうちに有名になっていった。
  リヒャルトの社長室には、以前と同じように、美味しいチョコレートが山積みされてある。
  美味しいチョコレートでないと満足しないなんて、リヒャルトはもう言わなかった。
  美味しいチョコレートがあって、社員がいて、沢寺がいる。十分だった。
「リヒャルトさん、新しいチョコレートができました」
  沢寺アリサは今年で二十六歳になる。そしてリヒャルト=アイゲンラウヒは今年で三十歳になる。
  そろそろ結婚を前提にお付き合いを申し込んでもいいだろうか、そう思いながら、なかなか切り出せずにいる。
「沢寺、チョコレートは好きか?」
「はい」
「私のことは好きか?」
「はい」
「付き合ってみないか?」
  唐突にそう切り出してみた。沢寺はきょとんとして、そして笑った。
「はい」
  リヒャルトは胸をなでおろして、上機嫌で口にチョコレートを運んだ。
  その瞬間、顔色が変わった。
「どうしたんですか?」
「このチョコレートの味、どこで思いついた?」
「えー……っとですね、ずっと昔、食べたことがあるような気がするんですよね。いつ食べたのか思い出せないんですけれども、とっても美味しかったので、ずっと覚えていました」
  顎に手を宛てて考えこむ沢寺をよそに、リヒャルトはもう一口チョコレートを食べた。
  やっぱり、自分の血からできたチョコレートと同じ味がする。
「リヒャルトさんもこのチョコレートの味、知ってるんですか?」
「まあな」
「美味しいですよね。私は生まれ変わったらチョコレートになりたいです」
  リヒャルトはぎょっとしたように、首を左右にぶんぶんと振った。
「チョコレートになるのはもうまっぴら!」
「どうかしたんですか? リヒャルトさん。冗談に決まってるじゃあないですか」
  笑い事ではない。もうチョコレートになるのはごめんである。
「リヒャルトさんはチョコレートを食べるととても幸せそうな顔をしますよね」
「そうか?」
「その瞬間だけ、子供に戻るんです」
  その表情が、好きだ。と沢寺は言った。
  リヒャルトはなんだか嬉しいようなむずがゆいような気分で笑いかえした。
  大人にあこがれて、大人になったピーターパンは、チョコレートを食べる瞬間だけ、今も子供に戻れる。
  あまいあまいネバーランドに住んでいたリヒャルトというピーターパンのチョコレートテイストな物語は、ここでお終いである。

(了)

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