03

 実は、俺がシャルロッテと最初に出会ったのはヴィリーの紹介ではなかった。
  今から三年前のことになる。戦争が終わったばかりのシュトックハウゼン領は悲しみに満ちていた。失った命も奪った命もあったし、傷ついた人も財産を失った人も、たくさんいた。
  俺は祝日には必ず、人目を忍んで教会に祈りに行っていた。何故人目を忍んでいたのか今じゃあよくわからないけれども、当時若かった俺は、たぶん弱さを見せたくなかったのだと思う。
  誰もいない夜に誰もいないようなおんぼろ教会でひとりで祈っていた。もうこういうことが起こりませんようにって。
  その日も教会に行ったら、あいつがいたんだ。
  ふわふわの髪の上に雪よけの帽子をかぶり、誰もいない教会でぐったりしていた。
  俺は最初、誰かが凍死しかかっているんじゃあないかと思って彼女を揺り動かしたんだ。そうしたらあっさり目を覚まして、彼女は言う。
「あなた、誰?」
  教会の中は暗かったし、お互い間近で顔をつき合わせていたけれども、彼女は俺の顔を知らないようだった。
「私はシャルロッテ。あなたは?」
「ルーベルト……」
  俺はこのとき、自分が伯爵だということを名乗っていなかった。
「じゃあ、ルーだね。よろしく、ルー」
「そんなことより、お前はこんなところで何をしていたんだ? こんな夜中に人気のないところにいると襲われるぞ?」
  俺が最初に来たからいいようなものの、野蛮な奴がこの子を発見していたらと考えた。
「襲う? ここらへんは治安が悪いの?」
「……もしかして田舎者か? ここらへんは最近まで戦争が続いていたんだ。財産を失った奴もいるし、心に傷を負った奴もいる。平和なときとは違うんだよ」
「違うって、何が?」
「なんつーの? 正気じゃないっていうか。普段のそいつじゃやらないようなことだって、やっちゃうようなときがある」
  田舎者のシャルロッテにどう説明するべきか、言葉を慎重に選びながら俺は説明した。
「五年戦争の話は知っているか?」
「うん。南プレトリウスのほうでも話題になっていたよ」
「南から来たんだな。ともかく北のここらへんは、まだピリピリしているんだ。もう一度聞くけれど、ここで何をやっていたんだ?」
「雪の中歩くの初めてで、疲れちゃって……」
「こんな寒いところで寝たら、風邪ひくぞ。下手すりゃ凍死だ」
  シャルロッテはふと手をのばして、俺の頬に触れてきた。ひんやりと冷たい手だった。
「わあ、ルーのほっぺ、あったかい」
  暗いから確認できなかったけれど、シャルロッテは随分若いのかもしれない。
「あのな、シャルロッテ……。そんなぽやぽやした応対していると、北プレトリウスじゃあ足元すくわれるぞ?」
「そうなの? どうして?」
「だから、戦争があったからだよ」
  なんだか苛々してきて語調が強くなったのを覚えている。彼女は俺たちの苦しみの一欠けらだって理解しちゃいないんだって思ったら、お門違いだってわかっていてもなんだか腹が立ったんだ。
「ルー?」
  シャルロッテは不思議そうに俺の名前を呼んだ。
「苦しいの?」
  別に苦しい理由とか、そういうことを聞かれたわけではないのに、なんだか心の奥底に押し込めていた感情の蓋を外されたような機がした。怒りも、悲しみも、苦しみも、なんともいえない報われなさも、全部溢れてきそうだった。
「……苦しいよ」
  ヴィリーにだって洩らしたことのない本音をどうしてそのときシャルロッテに言ったのかはわからない。どうせすぐに過ぎ去って、接点のなくなる存在だと思っていたからだろうか。
「なんで苦しいの?」
「俺は悲しんじゃいけないから」
「なんで悲しいのに悲しいって言っちゃいけないの?」
「やるべきことがまだいっぱいあるんだ。悲しんだりしている暇があったらそっちを片付けなきゃいけないし」
「でも、本当は苦しかったり悲しかったりしたんだね」
  シャルロッテは俺の頭の後ろに手を回し、俺を引き寄せた。そうして抱きしめて、そして言うんだ。
「ルーは忙しくて、悲しんでいる暇はなくて、やらなきゃいけないことはいっぱいあるから、ずっと我慢してきたんだよね。よくがんばりました」
  俺の頭を撫でて「泣いてもいいよ?」と彼女は言った。
  だけど俺は泣けなかった。
「ありがとう。だけどまだ、やらなきゃいけないことはいっぱいある」
「誰にも言ったりしないのに……」
  シャルロッテは少し残念そうにそう呟く。
「泣くには、心の準備がいるんだ」
  俺の言葉に、シャルロッテは首を傾げる。
「一度泣いたら、きっと泣く前には戻れなくなる。その前に、やるべきことがある」
  俺の言葉にシャルロッテは
「そっか」
  と頬笑んだ。それが最初の出会いだった。
  それから半年後、ヴィリーを介してシャルロッテとは改めて知り合う。
  俺のほうは彼女を覚えていたけれども、あっちはこっちのことを忘れているようだった。
  あれから半年経っていた。シュトックハウゼン領は、少しずつ再興の兆しを見せていた。
  俺はあの夜のことを思い出していた。今なら泣いても平気なのかな? そう考えて、自室でこっそり泣こうとした。だけど涙は出てこなかった。
  涙と悲しみは、ずっとずっとあとになってからやってきた。
  でも俺は強がりだったから、泣いているところを誰にも気づかれたくなくて、泣きたくなったらやっぱりあの教会に行っていたんだ。
  そうしてまた、シャルロッテと鉢合わせした。
  彼女は暗闇で俺の様子に気づいたみたいだった。シャルロッテは言った。
「いつだったか、私が北プレトリウスに来たとき親切にしてくれた人ですよね?」
  暗闇で見えないとはいえ、お互いの声は知っているんだ。俺は小さく彼女の名前を呼んだ。
  シャルロッテはあのときと同じように俺の頭を抱いて肩に乗せ、そしてあやすように続ける。
「いいんだよ。ここでのルーは、泣き虫なルーで」
  そのときにはもう我慢することができなかった。一度泣いたら、泣く前には戻れなかった。一度傷ついたら、傷つく前と同じではいられないように。
  格好悪いなあと思いながらずっと泣いていた。シャルロッテはずっと黙って傍にいてくれた。
  夜が明ける前に別れて、次に昼間に会ったときは何食わぬ顔でシャルロッテは接してくれた。
  俺にとって、いつしかシャルロッテは特別な存在になっていた。