夢を見たわ。お母さん。
  私は芋虫だった。ぶよぶよの身体に気持ち悪い毛のびっしり生えた、まだら模様の幼虫だった。
  ある時私は身体が痒くなったことに気づいたの。私の身体は少しずつ硬くなっていった。動かなくなる胴体で必死に葉っぱに捕まったの。そうする他、助からない気がして必死で縋った。
  私の身体は蛹になったみたい。蛹ってね、中身はどろどろの液体らしいわね。私はその中で考えたの、芋虫の身体はいらないわ。どうせならもっと、美しい生き物になりたいと。そう望んだ。
  そうして私が黒い揚羽蝶になったとき、神様は願いを叶えてくださったのだわと思った。これからは自由に空を飛び、花の密を吸って生きようと思った。
  私が両の羽を広げて空に羽ばたいたときの気持ちがわかるかしら。世界は私のものだと思った。私が中心に世界が動き出したのだと思った。
  だけど違った。私はすぐに虫取り網で捕まえられてしまい、生きたまま背中にピンを押し当てられた。
  保存の悪い子だったみたいね。最後はどうなったと思う? 私の身体はピンから崩れ落ち、床に落ちてバラバラに散るの。
  傑作だったわ。起きたときに笑ってしまったくらいよ。そのとき神様は願いを二度も叶えてくださったのだと思った。

「夢を見たわ。お母さん」
  もう絶縁した母の代わりに、日に日に母の若い頃に似てくる自分を映した鏡に向かってそう言った。
「蝶になる夢よ。最高の夢だった。今日はいい声が出るんじゃないかって気がする」
  だとしてもあなたはオペラ座を見に来る金もないでしょうけれども。そうして鏡に向かって朝の通過儀礼のように「死ね」と呟いた。
  鏡の向こうの私が滑稽な口真似をするものだから、そいつに口紅で落書きをしてやった。
「変なの」
  そう呟いて、最後に口紅で大きくバツを描いた。子供はうまくいかなかったらバツを書いてなかったことにするものだわ。私は大人なのかしら。子供じゃないけれど、大人って気もしない。
「死ね」
  きっと育ちそこねたのだ。死ね。

***
  今一番センセーショナルなニュースといえば、シエル・ロアの領主様が支配権をゲームに勝った者に譲渡するという話だろう。
  ギルド、軍、マフィアの三組織が名乗りでたようだ。もちろんそれはゲームに参加しない一般人、たとえばそれは私の所属するオペラ座のメンバーの中でも話題だ。どこに勝って欲しいか、自分はどこの味方か、どこに負けてほしいか、その後どうなるかなど……。
「正直私、今と生活が変わらないんだったらあまり関係ない」
  勝手につるんでる連中にマフィアが多いことからマフィア派だと決め付けられたとき、はっきりとそう言った。
  改悪されることはあっても改善されることなんて期待してなかった。不満が生まれるとしても、満足するなんて到底思えなかった。
  ゲームで誰が勝つかよりも、ゲーム中の治安のほうが心配だ。勝てばとりあえず不満は残ったとしても支配者が確定する。当然報復を恐れる支配者は他の組織を壊滅状態に追い込むだろうことは予想できる。つまるところ、そこまでいってやっと平和になる。たくさん人が死んで平和になる。
  抵抗する気が失せるくらい壊滅的なダメージを与えるか、もしくは上手に抱え込むようにと昔偉い人が言っていた気がする。愛されるよりも怖れられるほうが幾分か安全だとも。

 私はまだトップではない。看板ソプラノ歌手のクリスチーナが風邪で歌えないときの代理だ。それ以外のときはだいたい悪役をやらされる。ただ綺麗に歌うよりも、感情を乗せられるので私は嫌いじゃない。
  今日の公演はオペラではなかった。次のスポンサーを集めるために、有望な歌い手たちが独唱をするお披露目会だった。
  各々好きな歌を歌っていいとのことだったので、私が選んだのは魔笛の「パ、パ、パ」だった。なんとなくパパパパパずっと言ってるとアホらしくなってくるから好きな歌のひとつだ。心を込めて口を破裂音にパパパパパパと動かした。
  まさか会場に来ていたVIPの方々も、こんな席で「パ、パ、パ」を歌う歌手がいるとは思っていなかったらしく、不思議な目で私を見ている。だって「夜の女王のアリア」なんて、きっと誰かが歌うと思ったのだもの。だったらまだ度肝を抜きたいじゃない。
  声を張り上げて「パパゲーノ! パパゲーナ!」と歌いながら、周囲を見渡す。私をきらきらした目で見ている人のかわりに、軍の見張りがせわしなく動いているのと、マフィアのMr.鳳が私の歌そっちのけでビジネストークらしきものをしている様子が見えた。今日緊張しているのはこのせいか。鑑賞に来たフリしていつも打ち合わせしていくのだから失礼である。
  思わずそっちのほうに唾を飛ばすつもりでなおさら大きな声でパパパパパと言った。鳳はこちらを見向きもしない。舌打ちしたかったが、全スポンサーの目の前で悪態を打つような真似はプロとしてはできなかった。

 その後のスポンサーたちとの交流パーティーで、鳳はいけしゃあしゃあとワイン片手に他のスポンサーと話していた。
「蝶恋、歌よかったですよ」
  白々しくそう言ってくる。心音が言っている、お前は嘘をついていると。きっと聞いてないんだろ? お前は昔から嘘つきだものな。私の歌を一度も上手いと褒めてくれないスポンサーだったよ。そう思いながら「ありがとうございます」と微笑んだ。
「パパパのはずが、『復讐は心の地獄のように』を歌ってるのかと勘違いしたくらいでした」
  そう鳳は微笑む。案外曲目を間違うようなポカミスはしないのだなと思い、そして嘘をついてる風でもなかったので
「どうしたら勘違いするんです?」と聞いてみた。
「あなたは歌うことで復讐してるように見える。誰に対してでしょうかね」
「あなたが褒めてくださらないことに対して怨念こめてるって言ったら、あなたは怒るかしら?」
「褒めてほしかったら媚びる真似くらいしたらどうです? あなたのそのつまらないプライドの高さが他のスポンサーがつくのを邪魔してるんですよ」
  言われて、たしかにそのとおりだったから黙った。鳳は目を細めて、言った。
「少しは笑えばいいのに」
  ひく、と笑うかわりにこめかみがひくついたのがわかった。とっさに笑顔をつくって誤魔化す。当然鳳相手に誤魔化しきれてるとは思ってないが。
「そういえば私、今日黒揚羽になる夢を見たんですよ。これは縁起がいいと思いました」
  話題を変えよう。多少ブラックでもいいので、鳳は楽しませたほうが怒りを買わずにすむと経験上知っていた。
「黒い揚羽蝶ですか、蜘蛛にとって食われたってオチじゃないでしょう? それ」
「ええ。押しピンで生きたまま刺されて、最後は床で砕け散って粉々になりました」
「あなたらしい末路でなんとも面白いですね。もともと成虫になるとき、羽が欠けた黒揚羽だったんでしょう。花に群がる姿でなく、死に場所を求めてふらふら飛んでる姿しか想像できません」
「それは死体に群がる蝿って言ってるわけじゃあないですよね? 鳳さん」
「そこまで失礼なことを言うように見えたなら心外です。僕が見た夢も知りたいですか? あなたと対のような夢でしたが」
  なんとなく、嫌な夢を聞かされるような気がしてならなかったが、極上の笑みを絶やさず「ぜひ」と言ってみる。
「海の見える別荘から、岬を見ていたんですよ。目の前を黒い揚羽蝶がひらひらと飛んでいて、僕の指に止まりました」
「それで?」
「それで終わりです」
  本当にそれで終わりなのか? もっと嫌なこと聞かせてくると思ったのだが。
「起きて最初に入ってきた報告が部下の訃報だったので、『ああ』と思いましたね」
  やっぱりそういうオチかと思って笑顔を絶やさず、「お気の毒でしたね」と言った。笑顔が間違ってたか正しかったかは、この相手の場合判別不能だ。
「そういえばゲームが始まりましたね」
  来た。それとなく協力するんだとか言ってくるんだわ。思わず警戒してしまった。
「賭けをしませんか? 蝶恋」
  しかし、鳳の持ちだしたのは取引ではなく、賭け事だった。
「僕がこのゲームで支配者になったとき、あなたが賭けに勝ったらひとつだけ願いを叶えてさしあげます」
「賭けの内容は?」
「あなたが決めてかまいません」
「じゃあ、このゲームであなたが負けたときに、最初に殺されるリーダーはあなたか否か、にしましょう。生き残ったらあなたの勝ち、負けたら私の勝ち。これでどう?」
  鳳はおかしそうに笑った。自分が負けることなどはなから計算に入れてないかのように。
「もし僕が死んだとしたら、赤い蝶になってあなたの夢に現れますよ。わかりやすいでしょう」
「朝起きたと同時に忘れるわ」
「しかしこの勝負だと、あなたが勝ったときに僕は死んでるから願いを一つ叶えるは没ですね」
「あなたが賭けに勝ったとしてもゲームに敗北してるから願いを叶えるのは無理よ」
  鳳は声をだしておかしそうに笑った。その心音が、規則正しく低い音を刻んでいる。何を言ってる? 負けるつもりなど最初からないとばかりに。
「僕がゲームの勝者なら、蝶恋との賭けそのものが成立しませんね」
「そのときは私との賭けなんて忘れるくらいあなたは忙しいでしょう。ならば意味はないじゃない」
  意味のない無駄口の叩き合いはそこで終った。

 

――僕が死んだら、赤い蝶になってあなたの夢に現れますよ。
  それから朝起きたとき、指先に蝶がとまったんじゃないか確認する日が続いた。
  私は何を期待しているのだろう。鳳に死んでほしいのか、生きていてほしいのか。
  夢に出てきてほしいのか、それともシエル・ロアに君臨する赤い蝶になる姿を見たいのか。

(了)