――それでは上映を開始します。
  部屋の明かりが落ちて、小さな5メートル四方の映画館にスクリーンが映し出される。
  自分にとってトラウマになる出来事なんて何もありやしないと思っていた。黒狸はスクリーンの前にある、一人用のソファの上に座り脚を組んだ。上映時間のブザーが鳴り、フィルムが回転しだす。
――これより上映するのはあなたの「人生劇場」です。30年間を30時間に凝縮しましたのでお楽しみください。
  女性の声でそうアナウンスが入る。黒狸は煙草に火をつけてくゆらせた。
  あまりに退屈だった人生だ。何も起こらなかった。それを30時間見るだけとはなんと滑稽な走馬灯だろう。
  黒狸の人生を相当早送り状態で見送っているはずだというのに、何も面白いことがない。何一つドラマチックなことがない。
  退屈な毎日、退屈な朝、退屈な学校、退屈な仕事、ありきたりな夢、ありきたりな人生、ありきたりな自分、ちっぽけなアイデンティティ、矮小な存在感、クズのようなプライド……うんざりしてしまう。
「ちょっとまて……」
  ようやく一時間見たあたりで、ふと気づく。今やっと、一時間だ。
  あと29時間見なければいけないようだ。

***

 退屈な映画につける薬はない。ポップコーンですら不味く感じそうなのに、保存食しかないのだから。
  コーラですらうんざりなのに、水しかないのだから。
  そうしてそれすら限りある食料だというのに、この退屈さったらない。退屈を紛らわすものはやがてなくなる。
  時間を確認する。5時間経過……あと残り、25時間。

***

 いい加減、このドラマの終焉を見たいところだが、あと1時間くらいで終わるのだろうか。眠っている間は映画はストップしているようで、目覚めると開始するようだった。つまり全部見ている。そしてうんざりするほどどこにでもあるありきたりな幸福、ありがちな人生。
  そうして、カウントダウンを開始した頃、画面は暗くなった。暗い画面の中で、小さな映画館で暗い画面をじっと見ている孤独な男の姿。
  悲しみは全部外で起きた。自分の人生は本当クソみたいにつまらないと感じている男の生涯の最後は、そんなつまらなかったと思ってソファにだらしなくもたれかかっている男の背中で終わった。

 

 上映が終わり、扉を開けて外に出る。
  トラウマらしきものは何もなかった。そんなものだ、トラウマになるような悲しい出来事さえ何も起こらなかったのだから。
  隣の扉がほぼ同じタイミングで開いた。姿を見せた青い眼帯の青年に、思わずぎょっとする。
「げっ」
「なんだ、あんたか。どういうもの見てきた?」
  キリシュは平然とした様子でこちらに問う。黒狸はうんざりした表情で答えた。
「なにもなかった」
「全部、見てきた」
  全部、という言葉に一切目をそむけずに生きてきたのだろうということを感じ取った。キリシュの太陽のような目をみつめる。
「色々あったんだな。俺は、退屈なまでに何もなかったよ。退屈すぎて死ねるかと思った」
「退屈で死ねるの? 器用だね」
「何もない人生の退屈さを知らないとはそれこそ羨ましいな。まあ、だからといって何かが変わるわけじゃあないし」
「進むだけだ」
  お互いそう言い合い、黒狸は諦め、キリシュは決断したように見えた。
「腹減った。何かおごって?」
  キリシュの言葉に、そういえば保存食と水しか摂取してなかったことを知った。
「美味いもん食いたいな」
  第四回戦フロアに入ってからもう一日と半日経過している。美味しいものが無償に食べたくて仕方なかった。

 そうして、たまたま遭遇したキリシュといっしょに入った中華料理屋は、あまりに料理が不味くてうんざりした。不味さのあまりに生きた心地がしたくらいだった。
「これだったら俺の料理のほうが美味い」
  思わず小声で言った黒狸に、キリシュが「ホットケーキ食べたいなあ」と呟く。だったら最初から中華にする意味などなかったのだが。
  黒狸は塗り箸をお皿の上に置くと、静かに決断した。
「ホットケーキの材料買いに行くか」
  人生、わかっているようでわかっていない。これだと思った料理屋がはずれることもあれば、思わぬきっかけで知り合いができる。

(了)