拝啓母上。
  あなたがこの世に僕を産み落としてから、今日に至るまで、この世にゴミの落ちてない日など一日とて存在しませんでした。
  ゴミを拾い続けて二十九年間、掃除の腕はかなり上がったと思います。しかしゴミも埃も拾っても拾ってもすぐにまた、どこからともなく運ばれてきます。
  僕はこの世に絶望して、生にお別れを言うしかないのでしょうか。しかし天国や地獄にゴミがない保証はありません。ばい菌や埃、壁の黄ばみや角部屋の黴、地面の雑菌や微生物、雨の日の汚れを含んだ水滴を考えると、天国も汚れているのではないかと心配です。母上が住んでいる天国の天使たちは、手を洗っているでしょうか? 神様の髪の毛は衛生的ですか? 飢えも苦しみもないと聞きますが、排泄と衛生環境はどうなっているのかのほうが僕は気になります。それが確認とれるまで天国には行けません。
  世界の汚さに絶望しています。兄の部屋は特に汚いです。僕は汚れに怯えたまま、生きていけるのでしょうか。生きていけるのでしょうか……。

「お前から石鹸の臭いがするのが気に入らない」
  そう同僚から言われたのは、ゲームの始まるちょっと前だった。血に濡れて、仕事帰りの汚れた手で僕の肩口を掴み、そいつはそう言った。
「汚い手で触るなってか?」
  睨みつけた僕に男は口を歪めて笑った。汚れた手は大嫌いだが、汚れた手で触られるのには慣れている。しかし血の臭いよりも、汚れた手よりも、僕の目についたのは……
「顔、洗いなよ。目脂がついている。歯も歯垢だらけだ。髪の毛、それでよく生きてられるね。目に埃ついてるけれども痒くないの? 鼻の毛穴、汚れが詰まりすぎてかなり開いてるよ。君、そんなに汚い容姿でよく生きてられるね。僕だったら死んじゃうな」
  汚れた手に掴まれたままそう言った瞬間、顔を殴られた。頬に走る痛みと、飛び散る鼻血。僕は奥歯を噛み締めて耐える。
「石鹸臭いんだよ、消えろ」
  うんざりしたように同僚はそう言って銭湯へと行ってしまった。周りの人はどちらかといえば同僚のほうに同情的だ。僕もわかっている、正しいのはあっちだということが。僕には汚れが許せない。僕にはマフィアのルールがわからない。ボスの鳳の部屋と応接室を綺麗にするのが僕の仕事、いや雑用だった。それくらいしかできないからだ。僕は毎日汚れと戦っている。他のものと戦うより先に迫り来る恐怖と戦っている。僕は病気だとみんな言う。神経症なんてレベルではないと。
  兄は世界は汚くないと言うが、手に雑菌がついていない人間を見たことがない。兄の手はいつも汗ばんでいて、比較的清潔感のあるボスの鳳さんでさえ、微生物が蠢くてのひらでプラリネアソートを摘む。僕には耐えられない。
  何より耐えられないのが食事と排泄だ。汚いものを口に入れる? より汚いものが体から生まれ出てくるだと? そう、生きている以上すべての人間が汚れに妥協しなければいけない。僕は汚れている、僕は汚れたくない、僕は綺麗になりたい。僕は……
  そうして僕はマフィアをクビになった。クビになったという表現は正しくない。鳳さんが半永久的に暇を出した。汚れを受け入れられるようになってから戻ってくればいいと。しかし汚れを受け入れるくらいだったら、いっそ僕のまま死んでしまいたいと思う。問題は死ぬときに使う道具はナイフも拳銃もみんな汚れているということで、唯一許せる死に方は消毒液を点滴する自殺だが、闇医者のティーエはきっと許してくれないだろう。
  汚れ以外にも色々と絶望的なものを感じながら僕はとぼとぼと兄のマンションに向かう。僕には食事が作れない。手が汚れるなんて考えるだけでも苦痛だ。兄は不適応な僕によくしてくれていることがわかる。しかし兄のスーツにはシワが多すぎる。
  細かいことを気にするなと言われても、気になる。それは些細なことだと思っても、全部見えてしまう。空気を吸いたくない、水を飲みたくない、食べたくない、触りたくない、触られたくない。
  世の中で一番耐えられない行為が性行為である。あんな汚いことは一生したくない。僕は綺麗なまま死にたい。それがとても愛のない人間だったとしても、自分が汚れることだけは許してはいけない。

 兄の家は雑多な異邦人街の、治安のよい地域にあるオートロック式マンションだ。僕はそのブザーを押す。雑菌? ゴム手袋は二重だ。扉を開くときは清潔にしたハンカチでさらに掴むようにして、汚れとの距離はできるだけとるようにしている。
  エレベーターの空気が嫌いだ。しかし乗らなければ兄の部屋にはいけない。そうして兄の家の玄関について、インターホンを押した。扉が開き、中から僕そっくりの顔の兄が顔を出す。
「おー。今餃子焼けたところだぞ」
「へえ」
  靴を脱ぐときは、靴の内側に触らないように注意が必要だ。僕は部屋にはいると表面のゴム手袋を捨てて、新しいものを鞄からだして装着した。兄はそんな僕には慣れたものとばかりに気にしないで料理をつくっている。
  キッチンのほうからはガラスープとごま油の香りがした。餃子を焼く匂いも。
  兄の食事は美味しいと思う。兄が手をよく洗っているのかが心配だが、今のところ気を遣ってくれているようだった。
「兄貴、クビになった」
「は?」
  ネクタイをゆるめながら僕が言うと、兄の黒狸(ヘイリー)は口をあんぐりと開けた。口の中ばい菌入るよ?
「雪狐(シュエフー)ついに、鳳サンの不潔さを指摘したのか」
「鳳さんの衛生面の悪さを指摘したことはないよ。今日もクッキーといっしょに滅菌スプレー出しただけ。そしたらクビになった」
「それはそのう……鳳サンに同情するというか、いやお前にもお気の毒とは思うけれどもさ、最後になんて言われた?」
「『雪狐、世界はたしかに衛生的ではないかもしれない。汚職に限らず汚れた環境や場所は多いだろう。君が生きるのに世界が過酷なのはわかっているつもりだ。だから、安心して休んでいいよ。君が疲れているのはわかる。僕は君のことを許そう。あと消毒液は君のほうがきっと必要なものだから持っていくといい。世界に絶望しないで。綺麗なものをいっぱい見つけて希望を失わないで生きるんだよ?』だったかな。うろ覚え」
「鳳サン、マフィアのボスとは思えないほど気を使った台詞だな。それ、クビというより休暇じゃないのか」
「実質クビだろ。あの環境に戻れるほど屈強な精神なんて僕には身につくわけがない」
  黒狸は「ふうん」と呟き、そしておたまでスープをつぐと持ってきた。ちゃんとランチョンマット敷いた上に並べないと僕が食べないのを知っていて、苺柄のランチョンマットも敷いてある。一度使うと必ず洗うため、かなりの枚数が部屋に常備してあるようだった。兄には迷惑をかけてばかりだ。
「さあ、食事にしようか」
  出てきたのは卵とニラのスープと、餃子、蒸鶏のチリソースがけ、海藻サラダ。どれも美味しそうで、どれも雑菌がうじゃうじゃしている。この葛藤が僕の中で一番つらい。
  兄とそっと視線を合わせる。兄はにっこり笑い、「大丈夫。安心安心」と言う。続けて「この食事は、とっても美味しくて、清潔な環境で作ったよ」と。兄の言葉は絶対嘘だとわかっているのだが、常識から考えたら兄が常識の範囲で清潔を保つのが最大限だとわかっているのだが、だけどなぜか視線を合わせてそう言われると信じてしまう。いわば僕にとっては食事の前の儀式に等しい。覚悟を決める瞬間なのだ。
「いただきます」
  そう言って食事をそっと口に運ぶ。スープはほんのりと生姜の風味がした。じんわりとした温かさが口に広がる。母が産褥で亡くなったため、おふくろの味のかわりにこの味で育てられた。
「兄貴、ごめん」
「お? クビになったことなら心配しなくても」
「吐きそう」
「トイレは洗っといた。吐いてこい」
  黒狸は残念そうな顔をして僕を見送ってくれた。トイレで自分が出したものを見て気分が悪くなる。口の中をうがいして、部屋に戻った。
「それにしてもどうする気だ? クビになったことは気にしなくていいけど、食事とれないのはマズイだろ」
「確かにまずいな」
「うん。あと排泄を拒絶するのもよくない」
「わかってるんだけど」
「お前は汚くない。人間も汚くない。女の子とキスするのは雑菌の交換ではなく愛の交換だ。OK?」
  兄は僕を落ち着かせるように、一区切り、一区切りそう言った。なぜか目を見ると洗脳、もとい安心するのだが、だけど視線をそらした瞬間不安とばい菌で息が詰まる。
「そういやさ、今日クビになったお前には関係ないかもだけど、ゲームが始まるな」
  兄がばい菌の話題を避けてそう言ってきた。ゲームの勝者がこのシエル・ロアという都市の新支配者になるらしい。
「歯の不衛生な支配者だったらどうしよう」
「腕のいい歯医者がきっと側近にいるさ」
「髪の毛が不潔だったら」
「きっと支配者は毎日美容師がブローしてシャンプーするから」
「部屋にゴミが落ちてたら支配するのに支障がでやしないか」
「きっと掃除のおばちゃんが毎日掃除するってば。お前ちょっと神経参ってるぞ、今日。大丈夫か?」
  大丈夫じゃないよ。絶対参ってる。
「そういえば」
  ふと思いだしたように、兄はこう言った。
「書類届けてきた、運営の事務所すごく綺麗だった。無駄なものひとつないモダンなインテリアって感じでさ。お前あそこだったら働けるんじゃね?」
  そんな環境あるんだろうか。シエル・ロアどころか、世界のどこにもゴミが落ちてなかったことなどない。
「入るときエアーシャワー浴びて入る部屋もあるし、あそこで働くのはお前のリハビリになる」
  そう。あくまでリハビリだ。兄は心配してくれているのだろう。
「明日求職活動してくるよ」
  試験官の歯の汚さに僕が耐えられるならばだけれど。唾を飛ばしてこない上司ならいいなあと思った。

 拝啓母上。
  世界は汚れに満ちています。新しい職場は綺麗だそうです。まだ生きててもいいですか?

(了)