息子がこちらを睨んでくる。憎悪しかない目で。
  冷淡な母親で悪かったわねと言いたくなるのを我慢して、自分を母親失格と罵る息子を睨みつけた。
  眼鏡をかけていて、ガリ勉の太っちょだ。
  蝶恋は美しい。美しいが、もう若くない。
  息子はまだ若い。若いがあまりモテそうもない容姿だ。
「あんたのようにはならない」
  蝶恋を睨んで彼はそう言う。お前もこうなるんだよと言いたいのを我慢した。
「あんたの母親のようにもならない」
「あんたデブだからどっちにも似ないよ」
「恥知らずのアバズレども!」
  よくもまあ、そんな言葉が出てくるものだ。誰が教えたやら知らないが、子供の頃蝶恋も売女の娘と言われたものだ。よもや息子からまで言われるとは思っていなかったが。
「根暗」
  母親に言われた台詞をそのまま息子に言ってやった。

 

 そんな夢を見た、ということをろくでなしの兄に言ったときのことだ。
「お前のかあちゃんそっくり!」
  とろくでなしは言った。
  大当たりすぎて蝶恋は返す言葉もなかった。
「デブで、眼鏡だったんだ。きっと成人病になるのもすぐだな。母親がスナック菓子を与えすぎたのが原因だろ」
「惰性であるだけ食ったデブガキの責任までとれないわよ」
「『僕は偉い人になるんだ。ママやバーバみたいな馬鹿にはならない!』 とか言いそう」
「言いそう言いそう」
  蝶恋は頷いたあと、最近仮性近視になって仕事をするときだけ眼鏡をかけている男を見た。このろくでなしの子供じゃなけりゃいいんだが。
「それで、それだけじゃあないんだろ? 話はさー」
  蝶恋は黙った。なんでこの男、無神経なくせに嫌な勘はいいのか。
「変な夢見た理由は、これ?」
  黒狸は茶封筒を置いた。中身は何なのかわかっているだろうとばかりに。
「うちの会社に母親の暗殺をお願いするとか、トチ狂ったの?」
  蝶恋は答えない。中に入っているのは、間違いなく殺した証拠だ。
  黒狸にキャンセルをお願いしようと思ったのにもう実行されたあとだったようだ。
「売り言葉に買い言葉でやっていいことと悪いことがあるだろ? 蝶恋」
  咎めるというより、呆れているような口調だった。
「死体の確認なんてしないだろ。燃やすぞ」
  黒狸が封筒をとりあげて、ライターを近づけた。とっさに取り上げる。
「見るわ。死んだかどうかもわからないで、お金なんて渡せない」
  黒狸はこちらを見つめている。鳳も悪趣味だ。幼馴染とわかっていて、こいつに伝達をやらせるなど。
  そっと、封筒を開いた。中が空っぽだったらよかったのに、一枚ポラロイド写真が出てくる。思わず、こみあげてくる吐き気。
「トイレあっち」
  黒狸はそう言うと、写真を封筒の中に仕舞った。
  わかっていたはずなのに、結果を理解していなかった。母は死んだのだ。
  吐き気に耐えて、黒狸がくれた水を口に含んだ。
  落ち着くまで、自分の心音をずっと聞いていた。
  真実のパルス……これは事実だと異能が言っている。黒狸は嘘をついていない。

 

 一週間前くらいだろうか。鳳に個人的に面談を申し込んだのは。
  理由は至極簡単なものだった。
  兄と呼んでもいいか? それだけだった。財産も地位も、保障も何もいらなかった。
  蝶恋の母親は言っていた。自分は趙・rosso・白明の愛人だった……と。
  鳳もたしか側室の息子だったはずだ。
  つまり、蝶恋と鳳は、血の繋がっていない兄妹にあたるはずなのだ。
  鳳は蝶恋が、普段はよく透る声を小声にしてそう説明したのを失笑ものだとばかりに口の端を持ち上げただけだった。
「あなたに兄と呼ばれてもよいか? それって妹と認知しろってことですね」
「そんな大それたこと、言ってない。私はただ……」
  ただ、鳳を兄と呼びたかっただけだ。家族だと思いたかっただけなのに、それ以上の含みがあるとでも思われたのだろうか。
「手切れ金にいくら欲しいんです?」
  ぷっつんと頭の中で何かが切れた気がした。何を期待していたんだと自分に対しても腹が立った。
「もし、兄でないと言うのならば、そこで抱いて、ゴミのように捨てなさいよ。どこにでもいるつまらない男だったって諦めがつくわ」
  挑発するようにそう言ったところで、鳳はそんな蝶恋をつまらなさそうに眺めただけだった。
「あなたの母親が、僕の父親の愛人だったと仮定して、父親が同じというだけで、僕とあなたは血もつながってないし、あなたは妹じゃあない」
「趙の次にボスになるはずだった劉はあなたの――」
「兄だとでも? 馬鹿馬鹿しい。事実はこれだけだ、趙の息子は僕だということ。あなたは趙の娘だということ、それ以外接点なんてない。あなたと血が繋がってるのは、まかないの老女と死んだマフィアのボス。それだけだ」
「あんな奴ら――!」
  あんな奴らいらない。そう言いたかった。
  蝶恋の顔を見て、くっくと鳳は笑った。
「あんな奴ら。それで僕はなんだというのですか? 兄ですか。何がそうさせるのです? 女というだけで殺されなかったあなたと何が共通点なのでしょう」
「母親が生きてるのがそんなにむかつくなら、殺してくれば? そしたら同じじゃない」
  鳳は「そうしましょうか」と言った。ぎょっとしたのは蝶恋のほうだ。
「あなたが母親を殺してまで僕を家族にしたいというのであれば、兄と呼ぶことくらい許してさしあげましょう。あなたの母親の命と引き換えに」

 

 

 そんなことがあった。
  そして一週間、それはぐるぐると回っていた。
  やっぱりやめて欲しいと言うべきだと黒狸にお願いしようと思った。
  それで鳳がやめてくれるとは思わなかったが、黒狸にも迷惑がかかるとわかっていたが、それでもお願いしようと思った。
  そしてすべてが遅かった。

 黒狸は蝶恋の懺悔を聞いたあとに、静かに写真を燃やした。
  チリになっていく母親の遺影を皿の上で静かに見守り、小声で黒狸の名を呼んだ。
「殴ってほしいときだけ俺の名を呼ぶな!」
  苛ついたようにそうとだけ言って、黒狸は家を出ていった。

 ろくでなしの兄は夜になっても帰ってこなかった。
  家に鍵をかけずに出ていかれて、蝶恋は今日鍵を持ってこなかったことを後悔した。
  雪狐に連絡をして、黒狸の家の鍵を持ってきてもらった。
  雪狐は黒狸が蝶恋を置いて帰ってこないことを疑問に思っているようだった。
「蝶恋、何かあったの?」
「私がとても馬鹿だっただけ」
「汗の成分に悲しみの物質が多く混じってる」
  雪狐にそう言われて、頬を涙が流れ落ちた。
「私が馬鹿でも、友達のままでいてくれる? 雪狐」
  雪狐は、何があったのだろうという顔をしたまま、口を薄く開いて何か言おうとし、そしてまた閉じた。
「僕は口を開くと汚いって言葉しか出てこなくて困る。蝶恋は汚くないってわかってるはずなのに」
「汚いのよ、私」
「まあ雑菌にまみれていることくらい知ってるよ。最初に会ったときは上級学年の男の子たちと泥だらけで取っ組み合いしてた女の子だもの。清潔だと思ったことはない」
  こんなとき、雪狐の言葉があまりにいつもどおりだから、苛々もすれば、惨めにもなれば、安心もした。
  ぽたぽたテーブルに涙がこぼれた。
  目尻を雪狐にぬぐわれた。
「汚いよ、雪狐」
「おかしいね。蝶恋が僕みたいなこと言う」
  雪狐がうっすらと笑う。蝶恋も笑ったほうがいいとわかっていたけれども笑えなかった。
「あんたが大変なの知ってるけれど、私も生きてるのが辛いの」
  生きるのが怖い。
  このままずっといい方向にいかない、ゆるやかな悲しみと、その先に待っているであろう結果が。
  自分次第だなんて思えない。そんな恐ろしいこと考えられない。
「蝶恋、僕生まれたときからミルクが飲めなくて、点滴で育った。兄貴が作ってくれるご飯全部吐いて、そのたびにがっかりする兄貴の顔見てごめんなさいって思っていた。潔癖症って言われるたびに死ねって言われている気がした」
  不潔なものは触りたくないと言う雪狐が、蝶恋の髪を梳く。
「でも、今も生きてるよ。みんなのおかげで、蝶恋のおかげで」
  何も知らないからそう言ってくれるのだ。黒狸ですら機嫌をそこねたんだ、雪狐が事実を知って嫌悪しないわけがない。
  蝶恋はスン、と鼻をすすった。
「蝶恋は蝶恋のままだよ」
  雪狐の言葉には返事をしなかった。
  もう一度鼻をすん、とすすった。雪狐が貸してくれたハンカチなのも忘れて、鼻をかんだ。
  涙はとまらなかった。鼻はぐずぐずと濡れてひりっと痛んだ。
「雪狐はいつも変わらないね」
「蝶恋もいつもと変わってないよ。なんも」
「本当かな……取り返しのつかないことしたけれど」
「何もかわってないよ。お母さんが大嫌いで、歌が大好きな蝶恋のままだ」
「もう、もう……歌えない……」
  母を嫌っていた。だけど死ねと本気で思っていたわけじゃあなかった。
  歌が大好きだった。だけどもう歌える気がしなかった。
「歌えない、歌えないのよ…… もう私は歌えないの」
  こんな気持ちじゃ歌えない。
  歌うことだけ考えられない。
「じゃあ歌うのやめればいいよ。歌えなくても蝶恋のままだ」
  雪狐はそう言った。蝶恋はかぶりを振った。
「歌いたくない」
  もう歌が好きな蝶恋なんてやめたい。
  違う。歌はやめたくない。蝶恋でいたくない。
  それから先、雪狐はしゃべらなかった。
  もう言葉は尽きたようで、蝶恋が泣き止むまでじっとしているだけだった。
  黒狸は帰って来なかった。鍵を閉めて、外へ出て、雪狐と別れて、寒い道を歩いた。
  木枯らしの吹く中、小声で口ずさむ、母が唯一もっていたCDの音楽。
  そういえばあれをずっと歌っていたんだ。小さな頃はあの曲しか知らなかった。
  家に帰りついて、誰も迎えてくれない空間に「ただいま」と初めて呟いてみた。
  毎朝ブローをするときに「死ね」と呟く鏡に向かい合う。
  鏡には蝶恋が写っていた。母に似た、蝶恋が。しかし母は写っていなかった。
  恨みが消えたら、こうもあっさりあの忌々しかった面影は姿をくらますのか。

 夢に出てきた息子は、蝶恋をまた夢の中で馬鹿にするのだろうか。
「アバズレ! お前のようにはならない。もっともっと偉い奴になって、あんたのことなんて忘れてやる」
  こうなりたいわけじゃあなかった。
  こうなりたいわけじゃあなかった。
  こうなってなかったらどうなっていたのか。
  やっぱりこうなっていた。
  蝶恋は蝶恋だ。
  歌っても歌わなくても、母親を恨んでも許しても、夢の中で罵られてムキになるのも、すごく愚かな女なのも、泥だらけで上級生と戦う少女も、鳳を兄と思いたかった寂しがりや自分も、黒狸や雪狐を馬鹿にしながらすごく頼っているところも、オペラ座でいじめに耐える姿も、暴力男を刺すことは耐えることよりマシだという無謀さも、売女と呼ばれた母の娘で、強がりで震えている今の自分も、
  すべて、すべて蝶恋だ。
  自分は自分以外になんてなれやしない。

「生きろ」
  珍しく自分を奮い立たせるために、いつもと違う言葉を鏡の自分に呟いた。

(了)