母が自分に「蝶が恋するような」という名前をつけたのもまず気に入らない。そんなお高くとまった美しい女になりたかったわけじゃあないのだ。
  物心ついたときはぼろくて安いアパートで二人暮らしだった。小学校に上がったときにお父さんがいないと話したら「変なの」とクラスメイトに言われて、初めて父親がいないのは変なことだと知った。
  蝶恋の母は賄いの仕事をして彼女を養った。食事はいつも賄いで作ったものの残りだった。蝶恋は小学生時代、冷めた料理以外の味を知らなかった。
  「お前は蝶でなく残飯に集る蝿だ」「売女の娘」「汚い服着て学校くるな」このぐらいはしょっちゅう言われていた。クラスメイトを恨むよりも先に境遇を呪った。
  あいつらが楽ちんに手に入れられるものを苦労して苦労して手に入れなきゃいけなくて、あいつらが棄てるものを大切に大切に拾って使わなきゃいけないのがたまらず悔しかった。

 母は一人前になるまで育ててくれた。それには感謝するべきなのだろう。
  母は自分をこの世に産み落とした。それだけは許してはいけないことだと思った。
  母親自身まっとうな暮らしもできないというのに、愛してるからなんて陳腐な理由で子供を産むべきではなかったのだ。そうして産んだ子供が言うことを聞かなかったからといって、こんなはずじゃなかったと言うべきではなかったのだ。ならば最初から、産む必要なんてなかったのだ。リスクを負う覚悟がないならば、その手前でどれだけ美辞麗句な言葉を並べたとして仕方がないのだ。
  母親は蝶恋に「危ないことはしないで」と言った。危ないことは何一つしなかったが、その代わり鏡に向かって毎日「死ね」と呟いた。
  母親は蝶恋に「お金のかかることはできない」と言った。金のかかることなんて食い扶持ぐらいだったと思うが、夢が潰えるたびに「金がすべてじゃないけど、金がないと人生の半分は閉じるもんだね」と母親に言った。
「お前は支える気がないのか」と言われたこともあった。こんな子供に支えてもらわなきゃ生きていけない弱い心の人間は、母になるべきではないと思った。
  蝶恋は母が嫌いだった。母も蝶恋が嫌いだった。先に嫌ったのは母のほうだと記憶している。母親がしょっちゅう言う理不尽な小言が蝶恋の神経をいつも逆なでした。
「勝手に産んでおいて、一方的に愛を押し売りして何様なの? 私のことが気に入らないのはわかるよ。だったらどういう子に育てばあんたは私のことを好きになったっていうの?」
  たとえ何をやったって嫌いだと言ったに違いない。何ひとつ母親のレールから外れない可愛い子が育ったとしても何か気に入らないことを見つけて文句を言うような母親だった。私が悪いんじゃない、仲直りしたかったら、先に謝るのはお前のほうだという思いと怒気をのせてそう言った。
  母親の目がこちらを見たとき、愛してると言いながらこの母親は「死ね」と言ってると思った。だからなんだっていうんだ。一人で生きてやると思った。
  仕事が決まったときに母親を置いて部屋を出た。もう戻るつもりはなかった。親の死に目だろうと戻ってくるものかと思った。

 引越しを手伝ってくれたのは、同じく貧しい環境で育った女の子と、マフィアの中流家庭で育った幼馴染の男の子だった。
  女の子が帰って、幼馴染の雪狐とだけ部屋に残された。
  荷物なんてほとんどなかったし、眠られればとりあえずいいと思った家は殺風景だった。木枯らしが吹くと窓がかたかた鳴る季節だった。雪狐はおんぼろの新居の壁の黄ばみが気になっているようだった。
「僕は、蝶恋のことは嫌いじゃないけれど、蝶恋の行動がたまらなく好ましくないと感じるときがある」
  床に落ちていた髪の毛を拾い、ゴミ箱に捨てながら雪狐は言った。今更お説教ですか、と思ったら彼は結局何も言えないとばかりに黙り込んだ。
「でも、言えることなんて何もないんだ。僕が生まれたときにお母さんは死んだから、君のようにお母さんがどうのって苦しみはわかんない。あと、お母さんが僕のせいで死んだとしても僕はお母さんの分まで生きようと思うタイプだから、君みたいに鏡に向かって『死ね』と呟く気持ちもわからない。僕も幸せな生き方をしているわけじゃあないけれど、蝶恋に同情も親近感も感じない。でも理解したいと思うから、もしわかるとしたら教えてほしいんだ」
  雪狐はそういう同調を意識しない言葉を選ぶ。蝶恋は共感なんて求めるタイプではなかったので、この言葉には腹は立たなかった。
  彼は適切な言葉を探しているようだった。少し沈黙したあと、こう言った。
「どんな母親だったら愛せたの?」


  あのとき雪狐に反論できなかったのは、自分が言った言葉がそのまま返ってきたからじゃあなかった。結局あの母親しか知らなかったのだ。あの母親だけが自分にとって本物の母親だと感じていたのだ。
  思えば、全然世話らしいことも母親らしいこともしてくれなかったけれど、拾われっ子だと思ったことはなかった。一人っ子だったからだろうか。それとももっと違う理由があったのだろうか。
  時が経ち、人並みの暮らしはできるようになった。過去の悔しかった思い出、悲しかった思い出、そんなものもどうでもいいと感じるようになってきた。蓄積していた怒りも許そうじゃないかという気持ちになっていた。
「どんな母親だったら愛せたの?」という言葉だけはまだ胸に刺さってる。どんな母親でも愛せなかったのだ。あの母親しかいらないのだ。母親も同じ気持ちだったのだろうか。嫌いだと思いながら、思いどおりにならない娘に対して、蝶恋でなければいけなかったと感じてくれていただろうか。別の子がよかったと思っていたとしたらすごく悲しい。そう思ったら涙が出てきた。
「くそったれ」
  蝶恋はそう呟いて、涙を拭う。
  母親のことを許せたわけじゃあない。だけどあいつしか知らない。あいつだけが親だ。あいつ以外いらない。
  私はきっとあの親に似る。私はあの親と同じことを自分の子で体験する。
  私も母も、そして名前さえ知らない父も、結局みんな人間なんだと思ったらお高くとまる必要なんてないんだと思った。
  好きに生きればいい。

(了)