口の中に血が滲んだ。
  唇を噛み切るほど強く食いしばったせいだとわかっているが、リラックスなどできるはずもなく、エルムは薄い肺で浅い呼吸をした。
  手首が引きちぎれそうだ。天井の左右から吊られた状態の手首、蜘蛛の巣だけが支えの不安定な背中、羽根を広げたまま閉じられない蝶のように、開いたままの脚。
  喉に咬みつく男が下肢を穿つ。
  これでもかというほど乱暴に、獰猛に。
「こうされて気持ちいいわけ?」
  唇の近くで囁かれる。
  エルムは必死に首を左右に振った。
「じゃあ、また自分をいじめたくなったってやつ?」
  ガツガツと子宮を突き上げられ、苦しさと甘い痛みが交互にやってくる。
「……っ、   」
「ぁ?」
  レムがその瞬間だけ行為を緩めた。
「今、なんつった?」
「     」
「お前の前の恋人の名前?」
  ちがう、と首を左右に振られるが、それでも気に入らないものは気に入らないらしく、レムは興ざめしたとばかりに貫いていたものを引きぬいた。
「ごめ……」
「自分いじめに付きあわせた挙句違う男の名前呼ばれちゃ俺どうすりゃいいわけ? ったく」
  エルムの前で大型のハサミを動かすレムに思わずみじろく。
  蜘蛛の巣をぶちぶちと切り落として、最後にエルムを床に落とすとレムはエルムを置き去りにしたまま風呂場へと向かってしまった。
  置き去りにされたエルムは床に膝を抱えたまま疲れたように溜息をついた。




「話しとく、昔のこと」
  風呂から上がったあとも不機嫌だったレムのほうを見ずに、テーブルに転がってるリンゴに目を落としながらエルムは言った。
「昔?」
  咎めるような口調だったところを見るとまだ怒っているのかもしれないと感じたが、言わずにいるのは難しかった。
「お尻にある蝶の刺青彫った奴、名前は忘れたけれども標本蒐集が趣味でさ、わたしの異能を知ったら羽を毟られた蝶を彫ったの。『これでお前は逃げられない』って。稼いだ金は風俗と酒代に消える最低な男でさ、けっこう……変態なことされたんだよね。ほら、AVしか見たことのない男がチャットレディに命令したりするじゃない? あんな感じで、そんな感じのことさせられてた」
  レムの手からごとんと何かが落ちる音がした。その直後に拾い上げるようにかがむレムの姿。
「さっきの、そいつの名前だと思う。忘れたと思ったのに、まだ覚えてたみたい。はは……」
  自嘲気味に笑ったはずなのに全然おもしろくもなんともなかった。
  顔を上げると、レムの額にはもう青筋は浮いてなかった。逆になんだか気まずそうな表情だ。
「最初にヤッたあれ、平気じゃあないよな……」
  エルムは答えなかった。
  平気なわけないじゃあないか。またこいつも標本男といっしょだ。
  やるだけやったらゴミ箱に捨てるようにエルムを捨てるのだろう。
「経験少ないと思ってたなら残念だったね。このとおり汚い体でさ」
  これで終わればいい。
  興味が失せるならば早いうちのほうが助かる。
  捨てて欲しい。
  捨てないで。
  捨てて欲しい。
  捨てて欲しい。
  捨てないで。
  捨てないで。
  捨てて欲しい。
  捨てないで。
  頭の中でどっちをレムに望んでいるのかわからなかった。
  ただぐるぐる回っている思考。
「俺さ……その標本男と何が違うんだろう」
  レムはそう呟いて、青ざめた顔をした。
「いっしょだよな。そいつに愛情がなくて俺にあるとか、そんなの言い訳にさえならない。俺はあの時エルムのこと抱くことしか考えてなかった。エルムの気持ちなんてあとから回収できると思ってた」
「だったら……」
  唇がぶるっと震えた。だったら。そう呟いたところでエルムは黙りこむ。
  だったら、何? 責任を取れというなら何に責任を取らせればいいのか。
「もう、もう、もう、もう……」
  もうたくさんだ。エルムは頭を振って抱えた。
「エルム……」
「もうやだ」
「わかった。もう何もしないから」
「生きていたくない」
「死ぬなよ?」
「生きていたくないだけ。死にたくない」
「わかった」
  肩にブランケットがかけられるのがわかった。しかしそれぐらいじゃ体の震えは収まらなかった。
「もう心も残らないくらい刻んでよ。そしたらあんたのものになるから」
  レムは答えない。
「優しくしないでよ。期待しちゃうじゃない」
  レムは答えない。
「体だけ好きにしたいって言ってよ。諦められるから」
  レムは答えない。
「なんとか言ってよ。ひとりにしないで」
  ブランケットの上から抱きすくめられる。
  自分でも驚くくらいびくっと体が反応し、こわばった。
「ひとりにしない」
  会話したのはそれが最後だった。
  帰るには遅い時間だったし、エルムはそのままレムのベッドで寝た。
  普段は同じベッドに転がる男が、珍しくソファのほうに寝ていた。
  ベッドのほうから狸寝入りをしたままレムをうかがった。レムは寝ているフリをしているようだったが、こっちと視線があって向こうを向いた。
  ひとりぼっちにされたような気がして、ベッドの中でエルムはすすり泣いた。
  ベッドから出ていた掌を握られたのはその時だ。
「ひとりにしないよ」
  そうとだけ言って、レムは手をつないだまま、ベッドに寄りかかった。
「ひとりにしないでね」
「ひとりじゃあないよ」
「離さないでね」
「離さないよ」
「いっしょにいてね」
「いっしょにいるさ」
「ずっと……?」
「ずっとがいい?」
  その言葉には答えられなかった。
「ずっと」と言ったところですぐ遠くへ行ってしまいそうな気がしたから。
「今、いっしょに居て欲しい」
  ささやかな願いを聞いて欲しいと願うと、レムの筋張った掌がエルムの額を撫でて髪を梳いた。
  ここにいるよ。そう囁く声。
  涙がこぼれた。

(了)