身長が高ければ何にでも手が届くと思うなよ?
  玖蝶恋(ジウ・ディエレン)は棚の上のトマトに視線をやってそう思った。手はそこまで伸びかかっている、しかし手をかけることができない。身長が低いことはない、かなり自分は女としては高いほうだ。高いのは、値段だった。
  ここに超美味いトマトと、普通のトマトがあります。超美味いトマトは超高く、普通のトマトは普通の値段です。あなたが買うのはどちらですか?
  そんな嘗めたような広告が貼ってあるスーパーの棚で、ずっと普通のトマトと超美味いトマトの間で葛藤しているのだ。トマトは好きだ。ぷちぷちしていてジューシーで美味しい。美味しいトマトとあっては買わない手はないのだが、この金額は……
  しかし、そんなことに躊躇している蝶恋の隣から、さっと赤いトマトに手が伸びる。
「あっ……」
  無造作にトマトを掴んだのは男の手だった。そしてそれをしげしげと見ている、アッシュグレイの髪の青年。身長は……
(ちっちゃいわね。子供って感じでもないけれど)
  自分とほとんど変わらないところに視線がある。女としては身長の高い蝶恋だが、男と並べば男のほうが高いことが圧倒的に多いはずなのに。
(もしかして私よりちっちゃい?)
  男はトマトに視線を落としていて、こちらを意識していない。男の手の中には真っ赤なつやつやしたトマトが収まってる。改めて美味しそうだと思った。
「欲しいわけ?」
  ようやく視線に気づいた男が、こちらを見て首を傾げる。喉から手が届くほど欲しいんだが、欲しいんだが素直にそう言えない。
「欲しいけれど」
「けど?」
  男は不思議そうに首を傾げた。
「でも、高いから。ちょっと買うのを迷ってるところ」
  正直にそう言ってみる。馬鹿にされるかな? と思うが、それでも金持ちばかりではないことぐらい、わかってくれるだろう。
「あんたさ、どっかで見たことある顔なんだけど」
  ぎくり。蝶恋は内臓が飛び出るかと思うほど緊張した。
「どこにでもいるわよ、こんな平凡な奴」
「いや、どう考えても美人じゃん。どこだったか……たしか偉い奴といっしょにいたのを見た気がしたんだけど」
「偉い奴? どいつかしら」
  思わず、誰といっしょに歩いてるところを見られたのか考える。社交の場以外で個人的に会った偉い人間はそんなにいないはずなのだが、最近会った偉い人間……ジンクロメート社の社長息子の誕生日に歌を披露しに行ったことと、マフィアの誰か、たぶん偽名を使ってるが明らかにマフィアとわかる男とデートをしたぐらいか。偉そうなのと言えばそれくらいだ。もっとも、最近では、というただし書きつきだが。
「そいつに買ってもらうか、そいつらに買ってもらったもの売れば、これくらいのものすぐに買えるだろ」
  そう考えているうちに、男はそう言って、金も支払っていないうちからそのトマトにかぶりついた。
「うわっ。あまーい、なんだこれ? フルーツ? トマトとは思えないこのぷりぷりした食感と肉厚な果肉。そして濃密で甘酸っぱい」
「あんた美食レポーター?」
  見せびらかすように口に頬張ったままそうしゃべる男に、蝶恋は呻くようにそう言った。この男、絶対に性格はよくない。
「金に困ってるような生活している人には見えないんだけどねえ……」
「金に困ってないように見えたんなら、金に困っててごめんなさいね」
「浪費家? ここカードも使えるからクレジットカードで買えば?」
「浪費家ではないけれど、そうね。クレジットはいいアイデアかも」
  支払いは給料日のあとだし、それはいい考えだ。男はあっさりトマトの最後の一切れを口に放り込むと、そのまま過ぎ去ろうとした。
「あ」
  そこで男が立ち止まり、振り返る。
「思い出した。うちのボスの誕生日会のとき歌ってた女だ。違うか?」
  そう聞いてくる。正体がバレないほうが珍しいが、素直に「そうだ」と言えば、トマトも買えないソプラノ歌手と覚えられてしまいそうな気がした。
「たしか、ジウさん?」
「……そうよ」
  ジンクロメートギルド団のメンバーらしき男は、にやっと笑った。何か言われるかな? と思ったら、こんなことを言われた。
「身長が高くても、手が届かないもんがあるんだな」
  やっぱり身長高いと思われるのか。あまり身長の高くて美人な女はちやほやされても本命にしてもらえないのだ。気にしているのに。
「そうね。あなたは何でも躊躇せずに手が出せていいわね」
  皮肉をこめてそう言うと、男は口の端を皮肉屋そのものといった風にゆがめ、そしてこう言った。
「ずっと近くにあるのに、手が出せないものなら俺も体験あるよ」
  そうとだけ言って、男は挨拶もなく去っていく。当然だ、スーパーでたまたま会話した、知り合いでさえない男なのだから、挨拶する義務もないわけだが。
――ずっと近くにあるのに、手が出せないものなら俺も体験あるよ。
  そう言ったときの男は、誰かを思い出して言ってるような気がした。誰のことだろう、幼馴染に許嫁がいたとか? 男が相手という可能性も? もしくは――
「妹、もしくは姉」
  思わず口に出た、あまりにも下世話な考え。思わずいかんいかんと首を横に振り、もう一度トマトのほうを睨んだ。
  もう一度手を伸ばしてみる。でもやっぱり手が届きそうで、届かない。欲望に素直になりたいようで、素直になれない自分がいる。
「あんた(トマト)、消えるんじゃないわよ? 私が諦めてもここに居続けなさい。売り切れたりしたら私、発狂するんだから」
  社交界用のドレスはともかく高いのだ。しかも一度着たものを使いまわせない場合もある。ともかく、金持ちは付き合いが高くつくのだ。食事は質素なのだ。
  一般人として育った自分には分不相応なトマトを睨みつけて、蝶恋はそう言った。そのすぐ下の段にある普通のトマトを掴むと、それを籠に放り込んでレジのほうに向かった。いつか、いつか買ってやるんだ。さっきの男もいつかその誰かに告白する日が来るに違いない。どっちも、諦めきれてないのだ。蝶恋はトマト、あいつは誰か。
  レジではじき出された金額を見て、蝶恋はため息をついた。
「そのチンゲンサイ、返します」
  金降ってこないかなと思う午後の買い物日和だった。

(了)