子供に戻りたいと言う大人と、子供の頃に戻りたくないという大人――どちらのほうが多いかといえば、たぶん後者じゃないかという気が雪狐にはした。
  自分はどうだろうか。子供の頃みたいに周りは嫌悪を露わにしなくなった。あの子は可哀想な子だから、刺激してはいけないと言う連中のほうが多い。
  窓を黒い鴉が横切った。だから何? ということなのだろうが、雪狐はそんなものも目に止まり、記憶の端っこのほうに貼り付く。
「お前触れないんじゃねーよ、お前が病気だから触っちゃいけないんだよ。病気が移るだろ! こっち来るな」
  そう言われて傷ついたような気がしたのも遠い昔の思い出のようで、つい最近まで気にしていた。
  あの時そう傷つけたクラスメイトは大人になり、今は自分にそんなことは言わない。そうして同情したような目と、申し訳なさそうな態度で「あのときは、ごめん」と言う。
  あのとき本当に無礼なことをしたのはこっちのほうだ。傷つきやすい子供が、傷つくことを言われて防衛するために傷つけた。それがわからないほど雪狐も既に、子供ではなかった。

 高校時代、「僕はどうすればいいのだろう」と幼馴染に聞いてみた。
  彼女はにっこり笑い
「純粋でいることの代償はつまり居場所がないってことだ、潔白でいることの代償は誰かを傷つけるってことだ。そう歌ってる歌手がいるわ」
  と答えた。優秀すぎる答えだと感じた。
「心を守る方法の答えをその歌手は教えてくれた?」
「ええ」
「蝶恋はどう守ってる?」
「歌うことで。あなたは?」
  蝶恋に問われ、答えは出て来なかった。蝶恋は拒絶されることにも頓着せず、雪狐の心臓の位置に触れる。
「傷つきやすい私たちの心を守る方法はきっと色々あるのよ。『僕は歌で、君は何で?』私は歌で、あなたは何で?」
  答えがすぐに出てこない。何で? 何だろう。答えに詰まる。
「簡単に出るもんじゃあないわよ」
  蝶恋は笑ってそう言うと、雪狐のことを抱きしめた。
「雪狐の物語はね、きっと自分で在り続ける物語なのよ」
  そう言って、大丈夫大丈夫と後頭部を撫でた。髪の毛がくすぐったかった。彼女の乳臭い肌の匂いが鼻をつく。不衛生さが脳をくらくらさせるのに、どうしてか拒絶できない。
「僕で在り続けるか……」
  呟く。うまくいく気がしない。足が竦む気持ちだった。
「答えがすぐ欲しいよ」
  傷つきやすい自分を守る方法の答えが、今すぐ欲しい。
  あの頃からもう十年以上経っている。答えは見つからない。あの時と変わらず、傷つけて、傷つけられながら生きている。

(了)