芸術は愛だと言った人がいる、芸術は知へのエロスと言った人もいる。芸術は爆発だと言った人もいる。
  俺は芸術が爆発している。
  俺の中での芸術は形が木っ端微塵すぎてわからない。俺の描きたいものが何なのか、俺の表現したいものが何なのかわかっていない。
  綺麗なものが見たいんだよ。特別それ以上のことなんて望んじゃいないんだ――。

 スケッチブックの上で黒い線が動いている。俺がスケッチしたものは命を吹きこまれたように動き出す。
  この前、公園でスケッチしたものだった。

 アイスクリーム屋さんで子供たちがアイスを食べていた。そこに老婆がやってきて、アイスをたくさん注文した。アイスクリーム屋さんはそれに喜び、みっつもよっつも乗ったアイスを盛りつけた。
「おばあちゃん、どこから来たの?」
  少し咎めるような口調でアイスクリーム屋の若者がそう言った。なんとなく俺は察した。あのおばあちゃんはボケてて、金以外のものを渡したのだろうと。
「お金なら渡したじゃない!」
  老婆はヒステリーに叫んだ。いきなりこのボルテージの上がり方は異常だ。老婆は金も支払っていないアイスクリームを地面に投げつけると「こんな下々の食べるものはいらないわ!」と言った。子供たちが異様なものを見るように怯えて逃げた。アイスクリーム屋の若者は場所を変えようと動き出した。
「何よ何よ! みんな私のことを馬鹿にして。私の気持なんて無視して、私はね、お姫様なのよ。魔法をかけられておばあちゃんにされているだけでお姫様なのよ。みんな私のことを馬鹿にした罪は重いわよ。魔法が解けたらパパに頼んでみんな縛り首にしちゃうんだから!」
  老婆はそう叫び、そしてわあわあと赤ちゃんのように泣き出した。公園で子供を遊ばせていた母親たちが子供の手を引いて公園を離れていく。俺はその様子を黙って見ていた。
  隣のベンチで寝ていた男が立ち上がると、泣いている老婆に近づいた。
「魔法使いに呪いをかけられて辛かったでしょう。お姫様、泣かないで」
  そう言ってわあわあと泣く老婆のことを軽く抱きしめた。老婆は泣き叫びながら「馬鹿にしてるんだろう、馬鹿にしてるんだろう! みんなぶっ殺してやる」とお姫様らしからぬしわがれた声で呪いの言葉を叫んだ。
  男は「そうですね、みんなぶっ殺しましょう」と言った。
「大丈夫です、魔法は解けました。あなたはお姫様に戻れます。時間はかかりますが、必ずお姫様に戻れます」
「戻れないわ! 呪いは絶対なのよ。この呪いは一生解けないの。私はしわしわのまま、誰にも愛されずに死んでいくんだわ」
「大丈夫です。お姫様、必ずあなたの呪いは解けます。何故なら俺が魔法使いだからです、信じたものを実現させられます。あなたは俺にとってはお姫様です、世界一わがままで世界一かわいいお姫様です。だから泣かないで、お姫様」
  歯の浮くような美辞麗句を並べ、男は老婆の頭を撫でた。老婆はようやく泣き止み、「子供扱いして」と拗ねた。
「すみません、子供扱いは癖のようなものです。なにしろ若い姿をしていますが、これでも三千年生きているもので。ところでお姫様、お城に帰りませんか? あなたが牢屋だと思って逃げ出したところは実はお城だったんです。あれも悪い魔法使いの策略です。お姫様は最初から守られていましたよ」
  そう言ってにっこり笑うと、老婆の手を引いて、老婆の歩幅に合わせて男はエスコートしだす。老婆は信じ切ったように「そうなの?」と言って機嫌を直した。
「本当ですよ。この道も実は全部花畑なんです。全部魔法使いの呪いなんです」
「じゃあ私の世界は何も変わってないのね? 私は悪くないのね?」
「変わっていません。あなたはお姫様のままです。老婆になったと錯覚しただけですよ。辛かったですね、お城に帰りましょう」
  そう言ってタクシーを呼ぶと、恭しく傅き、老婆を車の中に入れた。行き先はきっと彼女が逃げたとおぼしき老人ホームだろうと俺は予測した。
  俺の手はその様子をずっとスケッチしていた。若者になる呪いをかけられた魔法使いと、老婆になる呪いをかけられたお姫様の物語を漫画にしていた。
  紙の上の物語が動き出す。車も動き出す。
  老婆(お姫様)が泣き止み、若者(魔法使い)は怖いものなど何もなかったのだとお姫様に言う。この世の人々はみんな呪いをかけられているだけで、そのせいで怒ったり悲しんだりしなければいけないのだと。
「あなたはどうなの?」
  お姫様がそう質問すると、魔法使いは笑って「実は呪いをかけた魔法使いは俺の双子の弟なんですよ」とどうでもいいことを言いながらお姫様を白馬の引く馬車に乗せた。そこで俺の物語は終わる。
「だといいんだけどな」
  俺は呟き、次のページをめくる。次の好きなものを探した。
  綺麗なものが見たいだけだ。それに芸術なんて言葉はいらない。綺麗なものを感じる心が欲しいだけだ。そこに意味はいらない。
  愛は愛、悲しみは悲しみ、芸術は芸術のまま紙の上に吐き出すだけ。
  それが正しい形だし、それが正しいドラマだと思う。
  ペンを握っている右手を見た。この手はあといくつの美しいものをスケッチできるのだろう。俺はあといくつの美しいものを見つけられるのだろう。
  俺は美しく生きることはできないが、美しいものを愛することはできる。お姫様にはなれないが、お姫様の物語を絵にしよう。

(了)