「あなたが汚れた地べたにキスしているシーンを描かせてください」
  その女が背後から声をかけてきたとき、黒狸は最初自分のことだとは思わなかった。周囲を見渡して、その言葉に反応しているのが自分だけと気づいたとき、初めて自分が地面にキスするように言われていると知った。
  黒狸は振り返り、女の顔を確認した。男のような格好をしているが、ゴシックパンクのような格好をしている女だとわかった。高校生のとき、こういう格好をしているクラスメイトが知り合いにいたことを思い出す。こういう格好が素敵だと思う時期なんだろうなと黒狸はうっすら思った。
「あなたが汚れた地べたにキスしているシーンを描かせてください」
  熱のこもった声で女はもう一度言った。手にはスケッチブック、美しい女だが、目が淀んだ輝きをしている。息遣いが伝わってくることに少し引いた。
「ここらへん、ここらへんの砂利をどけますから!」
  雨でぬかるんだ地面の砂利をどかしながら、ぬかるんだ地面を多少ぐちゃぐちゃにしつつ女は叫ぶ。周りから人間が離れていく。黒狸が助けてほしいと視線を向けると周囲の人は目をそらす。
「わざわざ汚さなくていいから」
  思わずぽつりと突っ込んだのがいけなかった。女は反応を返してくれたことに狂喜乱舞の笑みを浮かべる。
「あなた、雪狐のお兄さんですよね? 顔がよく似ています」
  何故弟のことを知っている? と思いながら、肯定も否定もしないでいると、女はきっぱりと続けた。
「弟さんがあんなに綺麗好きなのに、あなたはずいぶん汚れてますね。でもそれがいいと思っています。顔が綺麗なのにこんなに汚い男、初めて見ました」
  お前は俺の軽薄な表情だけで人生も人格も否定する気か? と殺意を抱く。
「いくら積めば、地面にキスしてくれますか?」
  黒狸は沈黙する。この淀んだ女、どうしてくれようと思ってしまった。
  どうしてこういう気持ち悪い女に親しげに話しかけられることが多いのかわからないが、たいてい「あなたくらい汚れてるのは私くらいがお似合いなのよ」みたいな扱いを受ける。そこまで汚れてはいないし、俺にだって選ぶ権利があるといつも思うのだが、そういう扱いを受ける。
「金には困ってないんでね。地面にキスする相手は他を探してくれ」
  吐き捨てるようにそう言って離れようとした。女は「あなた以外に頼めないんです」と言ったが、初対面でそんなお願いをされる理由も、けなされる理由もわからなかった。
「お願いです! いくらでもお金を積みますから、あなたのプライドのなさを見せてください」
「あのなあ……」
  うぜぇ。そう思って黒狸は異能を発動させる。
  女を見つめて、自分のことを心底描く必要がないと思わせる言葉を選んだ。
「俺は、描く価値もないカス男だから。君のスケッチブックが汚れちゃうよ?」
  異能が女の心にあっさり浸透していくのがわかる。ここまで浸透が早いと逆にどれだけ自分を薄っぺらな男だと思っていたのか驚くくらいだ。
「そうですね。あなたには何の価値もない」
  女はそう言ってあっさり離れていった。黒狸は自分でかけた刷り込みのはずなのに、すごくもやもやしたものが広がった。
  それがその女、王玉麗(ワン・ユーリー)との最初の接点だった。

「あなたのことを描かせてください」
  もう一度彼女が現れたときは、何故もう一度会う機会があったのかと驚いた。
  公園で黒狸はサンドイッチを食べていて、玉麗はスケッチブックを持ったまま、ペンを構えてじりじりと寄ってきた。
「描く価値もないと言ってなかったっけ?」
  暗示が切れたのか? と思ってためしに質問してみる。玉麗はにやりと笑った。
「何言ってるんです? あなた自身を描く価値なんてないですよ。俺が描きたいのは、あなたのプライドのなさです。あなたの落ちぶれる姿が描きたいんです」
  うわあ。この女、イッちゃってると思ったが、ならば刺激してはいけない。
「俺、プライドあるからね?」
「そんなものありません」
「あるよ。俺だってやっちゃいけないことくらいわかっている」
  思わず無意識に異能が発動するくらい、相手の言葉が気に入らなかった。玉麗を黙らせたかった。玉麗は微笑み、「信じると思いますか?」と言った。
  相手が最初から微塵も信じていないことは信じさせることができない。黒狸の異能の欠点はそんなものだ。
「あなたのプライドのなさを証明します」
「やれるもんならやってみろよ」
  玉麗はスケッチブックのとあるページをめくった。
  そこにはよく見知った姿が描いてある。弟の雪狐だ。その周りにはガラス製の檻があり、そこは無菌室なのだとわかる。その周りはとても汚く描かれている。雪狐の目が死んでいる。そしてそんな雪狐によこしまな目を向けている、男たちの姿が描かれている。
(汚れた欲望だ)
  黒狸は思わずスケッチブックに手を伸ばし、雪狐を回収しようとしたが、玉麗はさっとそれを隠した。
「返せ」
「返してください、でしょう?」
「返してください」
「土下座して地面にキスしてくださいよ。返してあげますから」
  この女、撃ち殺してやろうかと思ったが、一般人を感情的に殺すなんてチンピラみたいな真似はするなとボスの鳳に仕込まれているし、殺す価値もない女だとわかっていた。
  黒狸は地面にきちんと正座しなおすと、深く深く頭をへし折った。
「弟の絵を返してください。お願いします」
  玉麗の顔は見えないが、上で何か描いている影が動いているのはわかった。
「最初からそうしてくれりゃよかったんですよ。黒狸さん」
  地面にはいつくばってる黒狸の絵を描き終わった玉麗は、雪狐の絵を返してくれた。そうして二人は何事もなかったかのように別れた。
  黒狸は部屋に戻ると、丸めた絵を、再確認するように視線を落とした。
  絵は生きているようで、それなのに雪狐の目は死んでいる。弟が一輪挿しの花に見えてしまった。このままでは死んでしまうんじゃあないかと思えたが、絵の中から助ける方法などわからない。
「おい、雪狐をこんな目で見るんじゃねえよ」
  思わず周りにあったよこしまな視線の野郎どもをボールペンで黒く塗りつぶす。顔がわからなくなったところで安心して、燃やそうと思ったが、雪狐の目があまりに恨みがましくて燃やすことも捨てることもできず、結局引き出しの奥に仕舞った。

 

「汚れてるわ。あんた」
  それを見つけ出されるとは思ってもいなかった。蝶恋が黒狸の部屋を掃除していたときに見つけた玉麗の絵に、思わず手に握っていたドーナツが落ちる。
「ご、誤解です」
「絵が汚いんじゃない、あんたの心が汚いわ」
「だからそれ違うんだよ」
「周りにいる男、何? ボールペンで消したってわかるわよ!」
「俺だって消したかったんだよ! それ油性だったんだ」
  蝶恋に「不潔」と蔑まれたように言われて、変な画家の話をしだすと自分がいかに嫌な思いをしたのか再確認する上に、信じてもらえないことが想像ついた。
「サーセン、俺汚れてますから」
  黒狸がそういうと、蝶恋は眉をしかめた。
「あんた、今嘘ついたでしょ」
「汚いでしょ。俺」
「見栄っ張り」
「お前もな」
  掃除をしてくれた幼馴染にお礼が言えなかった。あっちもきっと誤解が解けても謝ってくれないだろう。
「この絵、燃やすわよ」
「ご勝手に」
  蝶恋が黒狸の煙草用ライターで絵に火をつけた。めらめらと黒くくすぶっていく世界で、最後まで雪狐の目が死んでいた。黒狸の中に残ったのは雪狐の嫌悪の視線――こっちを見つめて、汚いと思っている雪狐の目だけが脳裏に焼きついた。

 

 あの画家とは会わないと思っていたのに三度会った。
  しかも三度目は、画家という形では会わなかった。蝶恋のオペラ座で取引をしようとしたとき、その女はドレスを着ていた。そして頭はサザエさんのような頭で、さらに上に変な帽子をかぶっている。コレクションか何かならありだが、普段着としてはなしだ。そう思うファッションだった。
「あら、うふふ。お久しぶりね」
  玉麗はそう言って扇子を口元にあてた。若干雰囲気も違って見えた。
  黒狸は仕事に支障をださぬように、後ろに控えていたエルムレスに「俺にかまわず仕事に向かえ」と命令を出した。エルムレスはため息をついて「脱線しましたね、カス上司。あなたのことは待ちませんから」と言って仕事場に向かう。
「地面に張り付いたあなたの絵、今も地面とキスしてるわよ?」
「ああそうかい」
「雪狐さんの絵ももう一度描いたわ」
「ふざけんな」
「蝶恋さんの歌も描きたいのだけれど、歌はなかなか絵に起こしづらくて困ってるの。歌が絵になったら素敵だと思わない?」
「歌は歌だから綺麗なんだよ」
  この女、本当に絵になるか、描きたいかだけが基準で被写体がどう感じているかはどうでもいいんだなと思った。哀れだなと思ったが、時間の無駄だと思った。時間の無駄だと思ったが、一言言ってやりたかった。
「自分の世界だけだと、いつか一人ぼっちになるぞ。自分の世界が嘘っぱちだとわかったとき、お前は一人ぼっちだぞ」
  玉麗はパン、と扇子を広げて顔を隠し、笑顔をつくった。目が笑っていないところを見ると図星なのだろう。
「あなたこそ周りにあわせて自分を見失ってるのではありません? くだらない」
  陳腐なけなしあいだと思った。お互い傷をえぐるだけで、えぐる意味さえ見当たらない。黒狸は玉麗の人生を知らないし、玉麗は黒狸の人生を知らない。知らないで否定しあっていると黒狸にはわかっている。わかっているが、それは違うと言いたかった。
「金持ちなんだな。お前」
「当然でしょう」
「才能がないことにさえ気づけないんだな」
「私は私の描きたいものを描いているだけよ」
「お前のことをかわいそうだと思わない」
  黒狸の言葉の続きが玉麗にはわからないようだった。黒狸は、玉麗になれば玉麗のようになるだろう。雪狐になれば雪狐のようになるだろうと思っていた。
「画家として成功しろよ。画家として苦しめよ。あんた絵を描いてるときだけ生き生きとしてた」
  そうとだけ言って別れた。玉麗は何も言わなかった。成功するとも、お前に何がわかるとも、黒狸が最低だとも、何も言わなかった。
  そうして玉麗がそれくらいで変われたら、とっくの昔に彼女はまともになっていったことを黒狸は知っていたし、最後の言葉は自己満足だということもわかっていた。
  玉麗に映る世界を自分は知らない。玉麗の生きづらさを自分は知らない。玉麗が悩んでいることは黒狸からするとくだらない。だけど否定しちゃいけない。だけど肯定もできない。それでいいと思えない。それでいいとは思えなかった。だけど何が正しいかなんて、黒狸にもわかっちゃいなかった。

「やっと来ましたね。クソ上司。仕事は終わりましたよ」
  エルムレスが遅れて到着した黒狸に札束の入った鞄を押し付ける。
「お疲れさん。いっしょにフグ食べにいこうか」
「一枚くらいお札抜いたって気づかないって思ってるでしょう。あーあ」
  エルムレスが本当に何でもありな上司を見て軽蔑したように落胆した声をあげる。
「エルム、俺ね」
「何です?」
「自分が間違ってるってことぐらいしか、わかんないや」
  エルムレスはさっぱり意味がわからないという顔をして、最後に
「わかってるなら直そうとしてくださいね」
  とだけ呟いた。直せるくらいだったら直してるよ、変わりたいと思ったって変われるわけじゃあない。やりたいと思ったってやれるわけじゃあないと言いたかった。だけどそれは言い訳なのがわかっていたし、格好悪いのもわかっていた。

(了)