――モルヒネさん、モルヒネさん、至急『狐』の事務所まで来てください。きいてるー? モルヒネさん聞いてるー? おじさんのこと放置して手術してるとそのうちひどい目に合わせるよ。
  紅龍会の内線を耳に宛てたまま、黒狸はモルヒネの応答を待った。モルヒネという名前は絶対におかしいと思う。自分の名前が腹黒狸なのもおかしいが、モルヒネという名前は斜め上だと思った。そうして彼自身も黒狸の思考の斜め上をいっている。
  モルヒネの応答の前に耳に入ったのは、誰かもわからぬ男の喘ぎ声。苦痛で喘いでいる感じではなく、快楽に喘いでる感じ。
――モルヒネさーん? おじさん男の人の喘ぎ声は好きじゃないの。出る気がないならミュートにしてれる?
「あともうちょっとで臓器を引きずりだせそうなんですよぅ。うふふ、待ってて」
  まったりとしたモルヒネの声が聞こえてくる。なるほど、手術の最中のようだ。しかも相手が快楽だと思っているそれは、臓器を引きずりだすという相当グロテスクな手術。
――モルヒネさん、男にあまりにでかい快楽与えると死んじゃうよ? 男は女より快楽にも痛みにも弱いの。加減してやりなさい。
「待ってね。臓器がもうちょっとで……うふ、ふふふ。ほぉら、取れちゃった」
  何かをずるずる引っ張り出す音が聞こえて、黒狸はこの音は好きになれないと思ったが、それでも彼に向かって呼びかけた。
――モルヒネさ……
  呼びかけるのを遮るように、腑分けされてるだろう男の鼻を抜けるような喘ぎとも、嬌声ともとれぬねっとりとした声が耳を貫く。
――ファック。
「どうしたの? 僕とヤりたいの? ふふ」
――最悪なもん聞かせてくれたモルヒネさん、早く来ないと給料減らすぞこら。俺の堪忍袋が切れる前に戻ってこないか猫泥棒!
  泥棒猫よりも、実験のために猫を泥棒するほうがボスの鳳は怒るに違いない。野良猫の何匹かは自分の内臓が減っていることにも気づかずよたよた歩いているらしいが、それは黙認している。

「でぇ? 何の用」
  余裕の遅刻、余裕の笑み、余裕で仕事を終わらせて、あとは腑分けにかまける狐所属の問題社員モルヒネが、顔を出したのはそれから一時間後だった。
「モルヒネさん、あなたの給料が一割カットになるそうです。理由はわかりますね? モルヒネさん」
「わからない。どうしてでしょう」
「モルヒネさんが媚薬を薄利多売したことによって、赤字だからです。特にフォクシーより危険で、フォクシーよりもイッちゃうタイプの媚薬を二束三文で人に売らないこと。あれは商品ですから、しっかりお金と等価交換してください。あれは商品です、モルヒネさんの能力も商品価値があります。だから安っぽい使い方はしないでくださいおねが……」
  黒狸が言いかけてる最中にモルヒネがにんまりと笑う。何もされてないのに手に汗が溜まった。
「おじさんに悪さしようったってそうはいかないですよ?」
「男は快楽にも苦痛にも弱いらしいじゃない? どっちのほうがいいの、黒狸」
「あなたの快楽はどう考えたってヤバイから。ってちょ、脱ぐな。俺乗らないから、そんな常套手段に」
  白衣をぽいっと脱いで開襟をさらにしようとするモルヒネに黒狸がひるむ。これはマズイ。これは。
「何やってるの」
  ほら。こういうタイミングで必ず彼女は来るのだ。
「レノリアさん」
  言い訳がましい口調で名前を呼んでみる。問題ありな同僚たちに、怒りさえ見せないレノリア嬢のほうを見る。
「混ざる? レノリアちゃん」
「混ぜるな危険だぞ。レノリアちゃん」
「混ざるわけないでしょ」
  ぴしゃっと言われて、そこで通常お仕事モードに三人は切り替えた。
「今回思いついた方法ですが、人質をとらずに身代金要求というクールなもんをやります」
「クール?」
「へえ」
  他の狐メンバーの反応が冷たい。クールなのはあんたたちだと言いたいのを抑え、黒狸は言った。
「しかし、いきなり一般人で試して失敗するのもちょっとなあと思うので、まずは知り合いで試してみようと思ってます」
「どうするんですかぁ?」
  楽しいものを見つけたときの顔をするモルヒネと、まだ慎重に判断しようと考えていそうなレノリアにクリアファイルを渡した。
  中にはおかっぱの女性の写真が入っていた。
「ティーエじゃないの」
  先に反応を返したのは、レノリアだった。
「そのとおりです。癒し系のタイニィな女医、ティーエちゃんです」
「なんかやらしいわ、その表現」
  癒し系とタイニィと女医とどこにいやらしさを感じたのだろうか。再び手に汗をかいたような気がした。
「ティーエちゃんの弟を探してみようかと」
「見つけたらあの女医仕事やめるんじゃないでしょうかね?」
  モルヒネがボールペンを弄びながらそう言った。
「ですから、いいのです。弟は確実に姉にばれないように行動したい。つまり姉と確認の連絡が取れません。ですからして弟からがっぽり金を奪います」
「ティーエの弟ってそんな金あるの?」
「ないこともないかと。男ですよ? 大切な家族を守るために金ぐらい無理して用意するでしょう」
「黒狸、あなたどうしていつも悪巧みするときに丁寧語になるの? バレバレだわ」
  レノリアに指摘されて、たしかにバレバレだと思った。この緊張すると胡散臭い丁寧語になるのだけはなんともならない。
「弟に心当たりがあるのね」
「ある」
「へえ。教えてあげないんだ」
「当然」
  鼻の穴が膨らんだのが自分でもわかった。レノリアは「意地悪ね」と言ってため息をつく。
「国士無荘の部屋の一角から彼女の医院をずっと見ている男がいる。住所と名前は鴉から連絡が入っている。天狼、ティーエの天李と一文字違い――しかもフェンリルともとれなくもない。間違いなく、こいつだ」
  得意げに国士無荘の見取り図と、フェンリルの写真が貼りつけてあるページをめくった瞬間、レノリアが呟いた。
「男の推理って穴だらけ、男の隠れ方も穴だらけ」
  これが推理小説だったら確実に没だろうと思われる穴だらけ加減だ。そんなことは黒狸にもわかっている。
「どうやって脅す?」
  モルヒネが当然のようにそう聞いてくる。
「そこなんだよね。どう脅そうか」
「まだ決めてなかったの?」
  レノリアに聞き返されて、「何パターンかは考えたけれどもどれもしっくり来なかった」と言った。
「エグいの考えて、モルヒネくん」
「目と鼻の先の診療室でティーエをあんあんいわす」
「今の絶対俺でなく、モルヒネくんがあんあんいわしてるのしか想像できなかったんですが。しかもグロな方法で」
  没。と呟く。もうちょっと安全でエグい手段を考えたい。
「人質にとらないわけだし、そのまま電話して『どうする準備もできてますよ』って言えばいいだけでしょ」
「身も蓋もないけれども、たしかにそう」
「それじゃ弟は脅しに屈しないわ。そんな気がする」
「じゃあレノリアさんならどするの?」
  黒狸の質問にレノリアは「そうねえ」と呟く。
「こう電話するわ。『たとえばの話ですが、あなたのお姉様に弟と思しき男性の住所を教えたらどうなるでしょうか。その方は大変暴力的で素行が悪く、お姉様の言うあなたの特徴とかなり似ているのですが、あなたと違う人間のようなのです。私たちはあなたからお金をいただかないと、ショックのあまりそういうイタズラ電話をしてしまうかもしれません』」
  モルヒネよりもブラックなのはレノリアかもしれないとたまに思う。
「手違いなら仕方ないな」
「手違いだものね」
「うっかりイタズラ電話したら真に受けちゃったってやつね。ふふっ……」
  その手段でいこう。ということに決定した。フェンリルの家に電話をかけるのは後日になりそうだ。

 用意するものは自分名義ではない携帯電話と銀行口座。それはマフィア名義で口座を開くことの許されぬシエル・ロアでは、『狐』が担当している重要な仕事のひとつだった。いかにバレずに新しい口座を開き、いかにバレずに汚い金を浄化するか。
  レノリアがいくつかある捨て口座のひとつを選び、モルヒネが快楽漬けにした誰かから奪い取った携帯を貸してくれた。
「ところでこの携帯の持ち主に断りはいれたの?」
「もう手も耳もないんですもの。必要ないですよぅ」
「左様ですか」
  手も耳もない誰かのことを想像するのをやめて、携帯のボタンを押す。局番に電話をかければフェンリルの住所はすぐに分かった。
――もしもし。
  電話の向こうでフェンリルと思しき男の声がした。
「フェンリルさんですか?」
――お前、なんでその呼び方知ってるんだ?
「お姉様と大変親しくさせていただいている誰かです。実はこのたびこちらの団体にいくばくかの寄付金をお願いしたくて」
――電話を切るぞ。
「もし寄付金をいただけぬ場合は、あなたの住所と間違えた住所をティーエさんに教えてしまうかもしれません。その方はティーエさんの言うように暴力的で素行の悪い」
「ティーエに何かしたら殺す」
  ティーエが弟は素行が悪いと言っていたが、たしかに話の途中で殺すという言葉が出てくるあたり、あまりおっとりした性格ではなさそうだ。もっとも、脅しているのはこっちなのだが。仕方がない、手法を変えることにしよう。
「天狼、紅龍会を知ってるか?」
  今までのお客様対応用の口調から、恐喝用の口調に変えた。
「まずわかってないようだから言っておく。我々からすれば、天李の命もお前の命も金になるか、さもなくばどうでもいいものでしかない。利益に繋がらない場合は金にならないものを生かしておく必要性は感じないわけだがな。紅龍会が今天李を監視下に置いているのは知っているだろう? 脅しだと思って馬鹿な選択をした結果は、彼女の死というものに直結する」
  ふと隣を見ると、レノリアが「よく言うわよねぇ」という視線で見ている。まあ実際にティーエが死ぬのはこちらとしても不本意な結果なわけだが……
――わかった。期日がすぐだと用意ができない。少し猶予をくれないか?
  弟のフェンリルは以外と無難な判断を下したようだ。焦っている様子は感じられない。たぶん、これは嘘だろうと思った。時間を稼いでその間に対策を考えるつもりだ。
「期日は一週間後としましょう。振り込んでいただく金額は、そうですね……あなたに用意できる額はせいぜい一千万ぐらいでしょうか。口座の番号を言いますので書き留めてください。ちなみにその口座、捨て口座ですから、仮に凍結でもされようものなら天李がどうなるかご理解いただくことになります」
――そんなことはしない。
「番号はシエル・ロア銀行、873-5487951です」
――わかった。
「それでは、お姉さんの命はあなた次第です。失礼します」
  携帯をオフにする。黒狸はため息をついた。
「やー、案外手ごわい相手だった」
「賢そうだった?」
「どうだろ、悪賢いタイプじゃなさそうだったけど、それなりに賢そうじゃあった」
  黒狸は煙草を取り出して、ライターで火をつけた。チェストの上に足をあげようとしたらレノリアに足をはたかれて、すごすご床に下ろす。
「期日までに振り込んでいただけなかったらどうするつもりですかぁ?」
  モルヒネはどちらかといえばそっちのほうが楽しそうとばかりの表情だ。黒狸が具体的にどうするか決めてないと肩を竦めると、レノリアが
「痛い目見てもらう必要がありそうね」
  とさらっと言った。
  なんだかんだレノリアは一番マフィアらしいと思った瞬間だった。

 

 期日に振り込まれると思っていた人間は三人中誰もいなかったと思う。その間にどういう手段で対策を彼らが打つか、のほうに視線はいっていた。
  今回の目的は、実際の身代金要求に対して相手がどう動くかである。フェンリルの動きを監視するよりも、泳がせておいて予測不能の何が起きるかを見ていた。
  ジンクロメート団も軍も動く気配を見せない。ティーエもいつもどおりのように見えた。
  期日になった。当然、お金は振り込まれない。携帯電話のほうも反応がない。
「やっぱり痛い目見てもらう必要がありますかねぇ……」
  フェンリルもティーエも通常運行。コンタクトをとった様子もないのだが、電話もレノリアが盗聴している限りではかかった様子がない。
「電話、メール、手紙の類は調べられるようにしておいたけれどあとは何か抜け道あったか?」
「伝書鳩とかは?」
「シエル・ロア歴で何年前の伝達手段だよ、モルヒネ」
「今呼び捨てにしましたねぇ」
  ちょっぴりむっとしたような表情で、モルヒネは例の携帯を黒狸に渡した。
「じゃ、お仕置きタイムといくですよぅ」
「そうだな」
  リダイヤルを押す。この電話番号を登録してなかったとしたらフェンリルは馬鹿だ。
  案の定、すぐに電話はとられた。
――もしもし。
「期日までにお金を入れていただくようお願いしたはずですが、どうやらお金より天李の命は軽かったようですね」
――黙れ。
「おかしいなと思って天李さんに電話してみたのですが、何やら反応がおかしくてですね。まるであなたが何か情報をもらしたかのように」
  ティーエに電話をかけたというのは嘘だった。フェンリルの反応を待つ。何も答えてこない。
「そんな小手先で我々の善意を否定されたことが残念でなりません。示しをつけなければ、我々としても紅龍会の沽券に関わりますので、方法を変えることにしました。ティーエさんにお金をいただくことにしたんです。我々が弟の居場所を知っているのは明白ですし、もし弟に危害を加えてほしくないならばいくらか支払ってくださいと。まあそれだけじゃ済まさないですけれどもね」
――ティーエに何かしたら……
「どうするというのです? この一週間、我々の居場所も見つけられなかった無力な弟に、天李が守れるはずもない」
  口がにやける。煽って煽って、冷静さを欠けばいいと思った。
「ティーエさんには痛い目を見てもらいますよ」
――何をする気だ!?
「何ってそんな説明する必要ありますか? それともあなたがそんな目にあいますか? 殺したいほど憎いですか。我々からするとあなたがたの憎しみなんて、微塵も痛くありません。紅龍会に歯向かうとどうなるかご理解いただきます。それでは」
  電話をその瞬間、切る。あとは籠の中に入れて放置した。コールが何度も鳴ったが、放置した。放置して、モルヒネと二人で準備にかかった。
  モルヒネは隠れ家へ、黒狸はティーエの診療所近くまで。案の定、ずっと前に見た灰色の髪の青年が走ってきた。黒狸の前を気づかず通り過ぎて、ティーエの診療所の前まで行く。いつものように彼女が仕事をしているのを見て、少し安心したようだった。そして踵を返して、黒狸の前をまた横切っていこうとした。そこで、声をかける。
「彼女にはまだ手はだしてないが、言うことを聞いてもらおうか。友好的な様子で人気のないところまで来てもらう。君が言うことを聞かなかったら、別の者がティーエに危害を加える。君は間に合わないよ」
  携帯を耳にあてたままの仕草で、黒狸はにっこり笑った。フェンリルの顔が鬼かと思うほど憎しみで歪むのがわかる。
「ティーエに何をするつもりだ」
  その視線は、命に変えても、ここで黒狸を殺してでも、彼女を守るという強い意思がこめられていた。
  黒狸はその視線と、自分の視線を静かにかち合わせる。
「俺を殺したところで、天李は守れない」
  黒狸の異能――それは人に自分の言ってる内容を信じこませるというものだ。ありえる内容のものなら大抵信じこませることができる。
「お前に天李は守れないよ、天狼」
「黙れ」
  暗示は強く効かなかった。フェンリルにとってティーエを守れないという無力感はあまりないようだ。
「ならばこうしよう。君は俺たちとついてきて、お詫びとしてティーエのかわりに内臓を差し出すんだ。誰にも知られず死ねばいい。ティーエは君のことを知らずに生きたほうが幸せになれる。君の心を知らずに生きたほうがずっとまっとうに生きられる。違うか?」
  異能が効かないならば、ゆさぶりをかけて異能を効きやすくするしかない。案の定、察した見解は当たっていた。フェンリルはティーエのことが好きだ。双子という枠を逸脱した恋の領域で。
「ティーエに手を出すな」
「君次第だよ、フェンリル」
  黒狸がにっこり笑ってフェンリルの肩に手を回した。すぐにでも払いのけたそうな表情をしたフェンリルが、腹立たしそうにそれを拒絶しない。

 モルヒネの診療所まで連れて行くのにはそんなに時間はかからなかった。その間、フェンリルと黒狸はちょっとしたお話をした。
  ティーエは元気かとか、危ないことはしないで欲しいとか、彼女おっぱい小さいよねと言ったら殺されそうな目で見られたが、まあ気にしないことにした。
  モルヒネは待ちに待ったとばかりにニタリと笑い、「バラしていいんですかぁ?」と薬品の香りを漂わせながら近づいてきた。
「じゃあ、こっちのベッドに横になってください」
  モルヒネにそう言われて、フェンリルは躊躇しているようだった。黒狸は彼が自分から横になるようなしおらしい男に見えなかったので、背中を押して引き倒すと手首を押さえつけて、脚を割りこませると身体を固定した。
「先生、やっちゃってください」
  黒狸とフェンリルの上に影ができる。きっとモルヒネは笑っている。そう思いながら、暴れるフェンリルをしっかりと押さえつけた。
「すぐに気持ちよくなりますよー」
  モルヒネはそう言うと、フェンリルの腕のあたりを薄くメスで傷つけた。日に焼けず白くなってる肌に血がにじむ。普通ならば痛みに顔がひきつるところだが……
  フェンリルも異変に気づいたらしい。痛みを感じる代わりに、押し寄せてくるものが快楽だということに。
「ぷつぷつぷつぷつぅ〜」
  皮膚を切り裂く音を口ずさみながら、モルヒネは深くメスを差し込んでいく。
  フェンリルの口が薄く開き、声がこぼれる。間近で押さえてる黒狸の頬になまあたたかい吐息が吹きかかる。黒狸も気分のいいものではなかったが、一番冗談じゃないと思ってるのはフェンリルのようだった。
「先生、早くカタつけてください。男押さえるのって大変なんだから」
  浅い傷をいっぱいつくって楽しんでいるモルヒネに黒狸が声をかける。自分の押さえてる真下で男が快楽に喘いでいるのは見ていてあまり気持ちのいいものではない。
「離ッ……せ! ティーエに危害なんて加えさせ、うあっ」
  メスを深く差し込みながら「生意気な子も好きですよう」とモルヒネは笑った。
「ティーエさんのことなんて忘れて、気持よくなっちゃえばいいんですよぅ」
  さらにぐっとメスに力をこめるのが見えた。これ以上深く差し込まれれば、たぶん普通ならば理性が吹っ飛ぶ。それくらいモルヒネの異能、ハッピーキリングは強力だ。
  窓の外で犬が吠えるのが聞こえた。窓に体当たりして、ワンワン吠えている。
「うるさい野犬ですねぇ」
  モルヒネが一瞬視線をずらす。黒狸も思わず視線をずらした。刹那――
  眼の前にあったフェンリルの顔がかなり間近に近づいていた。ガン! と頭突きを食らわされ、黒狸の身体がベッドからずれて落ちた。フェンリルは素早くメスを手にとり、まだベッドの上にあった黒狸の腕をそれで刺して引きぬく。
「お前たちを殺す」
  腕はたぶん筋が何本か駄目になっただろうことを覚悟した。メスを構えてベッドからこちらに威嚇してくるフェンリルと、少しだけ間合いをとる。
「こっちは二人、そっちは一人でどうやって勝つつもりですかぁ?」
  モルヒネは獲物が歯向かってきたことが面白いらしく、笑っている。銃にするかナイフにするか。この距離だったら銃で打つよりナイフのほうが確実だろうか。銃は取られたときが面倒だ。普段戦い慣れてない分、あまり思考が回らない。
  フェンリルは血にまみれた姿のまま、凄然とした目でこちらを見てくる。
「四の五のうるさい。俺は全力でお前たちを殺す。たとえ無理だとしてもそうする。ティーエを守る」
「そのあとは?」
  モルヒネが近くのチェストからメスを取り出しながら、からかうように言った。
「守られたティーエさんは君のことを見つけることもできず、時間を無駄にしながら行き遅れて死んでいくわけですねぇ」
「お前たちに指図される覚えはない」
「考えるといいですよ。お姉さんがご自分のことを諦めてくれるよう、僕たちに協力を仰ぐか、くだらないエゴに最後まで大切な姉を付き合わせる滑稽な男になるのか」
  フェンリルはメスを構えたまま、吐き捨てるように言った。
「お前たちは言うことがコロコロ変わる。信じられるかよ」
「一つだけルールがあるよ、フェンリル」
「一つだけありますよぅ」
  モルヒネと黒狸は同じタイミングで、狐共通のルールを言った。
「不利益なことはしないっていうルールだ」「フェンリルくんは不利益なことばかりして、僕等からは理解不能ですよぅ。結局何がやりたいんですかぁ? 自分の気持ちにも素直になれず、守るという割にはそれも中途半端じゃないですかぁ。お金払えば手出しはしなかったんですよぅ?」
「まああんまりいじめないでおいてやるけどさ、君がどうしたいかは決めておくべきだよ。ここで戦う? それとも俺らに協力するという形を仮にでもとって、今日は帰る? 俺たちは非戦闘員だけど、男だし、二人がかりでお前を殺せないほど腕が鈍ってはいない。だけど君に不利益な提案をしていない証として、今日は返してやってもいい。次に何か、フェンリルくんが俺たちに有益なことをしてくれるとの仮定のもとに」
「そうですねぇ。僕としても痛い思いするのは嫌ですしぃ、フェンリルくんが僕たちとお友達になってくれるって言うなら、今日のところは返してやらなくもないですぅ」
  狐は不利益なことはしない。戦って勝つことはできても、負傷して次の仕事に差し障りがでるような真似はデメリットのほうが大きい。
「悪くない条件だろう? お前は生きて帰れる。俺達は戦わずにすむ」
  もう一度、念を押すようにメリットを主張した。フェンリルはメスを構えたまま、道を開けるように指示した。黒狸とモルヒネは道を黙って開ける。
  フェンリルはそこを全力で駆け抜けていった。モルヒネが後ろから手をひらひらと振る。
「あいつ、きっと僕らのこと嫌いですよぅ。協力してって言ってもまた逆らってきそうですぅ」
「まあ、そういう意味じゃあまり情報は期待できないかもな」
  緊張が解けたので、ジャケットを脱いでネクタイで止血を始めた。隣からモルヒネが「痛いのとって差し上げましょうか?」という視線を向けているが、遠慮のポーズをとる。
「殺すは紅龍会の他の奴らに任せればいいんだよ。俺たち狐は殺すことより利用すること考えなきゃ」
「僕の異能も利用してよ。気持いいの好きでしょう? 黒狸」
「身体の気持ちがいいよりも心の気持ちよさを求める主義なんです。さあ、レノリアさんと合流するぞ」
  思えば、このやりとりの最中、狐の雑務はレノリアが一人で片付けているのだ。早く戻って仕事を手伝わなければいけない。
「左手、治療しなくていいんですかぁ?」
「ティーエのところに行く」
「昨日騙した女のところに今日何食わぬ顔で行くんですねぇ、黒狸」
「人聞き悪いこと言うな。俺が騙してるんじゃなく、人が勝手に俺のホラを信じるんだ」
「うわあ」
  馬鹿馬鹿しい言い合いをしながら診療所を出た頃には、異邦人街が夕日でオレンジ色の染まっていた。

(了)