疲れているんだろうな。
  小さな闇医者医院の診察室の机に突っ伏して寝ている女医を見て黒狸はそう思った。
  元は医大生だったと聞く。弟がマフィアにいるはずだと、紅龍会の事務所の扉をノックした勇者だ。
  人質という意味ではない、マフィアの兵隊に弟がなっていると思ったらしい。
「性格の悪い子だから、マフィアに入ったに違いないんです」
  と言われたときには、うちのマフィアに性格悪い奴いました? とお互いが顔を見合わせた。まあ一般人の認識なんてそんなものだろう。
「医大生と言ったか?」
  そのうち、一人がそう聞いた。
「うちの奴が一人怪我しているんだ。診て行ってくれないか?」
「えええ!? 駄目です。私、まだ見習いもいいところで、そんなことできません」
  医大生、彼女はティーエと名乗ったが、ティーエは首を左右にぶんぶん振って拒否した。当然だ。免許もないのに人を診たとなったら医師免許をとれない上に大学も退学決定だろう。
「病院に運ぶまでの間、もてばいい。応急処置でいいんだ、頼む」
  屈強な男にそう頼まれて、ティーエは少し考えこんだあと、おそるおそる承知した。すぐに運ばれてきたマフィアの兵隊は、それほどひどい怪我ではなかったと聞く。
  つまるところこういうことだ。紅龍会はもぐりの医者が欲しかった。医師免許を取れなくさせておけば、闇医者になるしかない。マフィアの怪我を診たとなれば大学はいい顔をしないぞ。と脅せば、治療し続ける他ない。
  かくて弟を救いに来た勇敢な姉は、自称性格のいいマフィアたちによって、強制的に小さな診療所を切り盛りさせられることになった。
(疲れてるんだろうな。)
  胸中呟いた。木枯らしの吹く季節だというのに、彼女は窓を開けっ放しにしたまま寝ている。頬にボールペンの跡がつくのも気にせず、手を死体のようにぶらん、とさせて寝ていた。
  黒髪、小柄、たぶん東洋系。弟の特徴はそんなものだろう。もっとも、髪の毛を染めていれば別だが、アジア系で小柄で、そしてティーエと顔の似ている奴なんて、マフィアの中にはいなかった。弟は死んだんじゃあないか? と言おうと思ったこともある。そうしたら弟を捜すのを諦めるんじゃあないか、無駄な時間を過ごすのをやめるんじゃあないかと。夜になるとふらふら異邦人街に弟を捜しに行く姿は、襲ってくれと言っているようなものだ。幸い、襲われたことはないようだが、それもいつまで続くかなんてわからない。稀少な医者を失うのはこちらとしても手痛いのだが……弟は生きているという希望こそが、彼女が小さな体でがんばっている理由のような気もして、そう思うと誰かに殺された、もしくは野垂れ死んだ可能性というものを考えさせないほうがいいのかな、とも思うのだ。
  黒狸は診察室の固いベッドに座ると、顎に手をついて疲れた女医の顔を見た。むにゃむにゃと口を動かしている彼女は、呑気なもんで、近くに野蛮なマフィアがいることも、そんな彼らに利用されていることにも気づかず、今日もあくせくと働いて、疲れて無防備に寝ている。
  手放してやるつもりはなかった。このままあわよくば、一生利用してやるぐらいの心づもりらしい。黒狸も別に彼女を自由にしてやりたいとか、そんな淡い恋心のような感情を持っているわけではない。彼女は自分の年齢から見たら幼すぎるし、そういう目で見ているわけじゃあないからだ。
「……リル」
  彼女の口が小さく、誰かの名前を呼ぶ。たしか弟はフェンリルってあだ名だったと言っていたかな。そんなあだ名の奴はやっぱりマフィアにはいない。
  マフィアはまがりなりにもプロの犯罪者たちだ。中途半端な犯罪者やチンピラ、一般人、ギルド、そういうのは全部搾取する対象である。性格が悪いという理由だけじゃマフィアにはなれない。弟はきっと違うところにいるのだろう。
  それにしても、窓が開きっぱなしというのはよくない。何があって野蛮な人間が入ってくるかわからないのだから。そう思い、黒狸は窓に近づいた。机の向こうにある窓を閉めるために、ティーエに、場合によっては覆いかぶさるような角度になり、ちょっと躊躇するが、構わず窓に手をかけた。起きたらそのときだ。
  窓を閉めようとした瞬間、こちらを見ている青年と目がかち合ったような気がした。灰色の髪で、遠くにいたためティーエと似ているかなどわからなかったし、視線はすぐに知らんぷりだった。
「……」
  思わず沈黙してしまう。しかし構わず窓を閉めて、今日は休診ですとばかりにカーテンも閉めた。
  弟が仮に見つかったとして……教えてやる義理なんてないし、そんなことをしてもこっちの都合としては悪くなるばかりなんだ。彼女が諦めるまで、ゆっくり時間をかけて彼女の心を殺していくのが正しいやり方なのだ。そう自分に言い聞かせた。
  光が差し込まなくなり、暗くなった診療所の中で、背後から男が密着していても起きないティーエは相当疲れている。だけど、だからなんだというのだろう。
  自分はここに来て、何も見なかった。
  診察室のカーテンを閉めたのは小人さんだと自分に暗示をかけて、黒狸は診察室をあとにした。

(了)