レノリア。
  たぶんそこからなんたらかんたらという姓が続くはずだが、彼女はそれを名乗ったことがない。
  同じ紅龍会の狐――主に窓口と呼ばれる、外交担当のグループに所属している。
  年齢的には彼女のほうが後輩だ。しかし彼女と自分――祥黒狸(シィアン・ヘイリー)の場合そんな上下関係よりももっと問題なことがある。
  合わないのだ。徹底的に合わない。彼女は料理が嫌いで、自分は料理好き。彼女はしつこい男が嫌いで、自分はしつこい男。彼女は動物が好きだが、黒狸の家はペット禁止。そして何より困ること、彼女の能力は「静止」という、人の動きを止めるものなのだが、黒狸は落ち着きがないのでじっとしている瞬間が苦痛である。動けなくて不利、とかではない。もんのすごく苦痛なのだ。

「ストーップ! ストップ、プリーズストップ!」
  止まれと何度英語で叫んだところで、レノリアはこちらに来る足を止めてくれない。そして自分の足は金縛りにあったようにストップしている。ストップはこっちじゃない、あっち! そう言っているのに逃げることができない。
「ヘイリー」
  彼女の発音は英語的。東洋のヘイリーという発音とは違い、リーの発音が割合しっかりしている。「ヘ」と発音するとき子音が入り、それがちょっと色っぽいなといつも思うのだが、今回はそんなことはなかった。はっきりと咎めるような口調だったからだ。
「経費がかかりすぎてるんだけれど、これはどこで飲み食いしたわけ?」
「接待です!」
「嘘を言わないで!」
  ぴしゃっと叱られる。接待なのは確かだ。金がかかったのも確かだ。しかしいつも飲み食いに接待と書いているのも確かだ。どう説明しようと思っている間に、彼女は領収書のリストを鼻っつらのところまで近づけて、言った。
「こんなにかかるなんて、採算も考えない仕事はしないで欲しいものだわ。鳳様はそんなことを望んでいないのぐらいわかっているでしょう?」
「ええ、おっしゃるとおりです。鳳サンはそんなこと望んでません」
  自分より一つ年上だが、地位的には圧倒的に上な上司の名前を呼ばれてガクガク頷く。経費のかかりすぎはレノリアに注意されなくても鳳に直々に注意を受けたことがある。
「黒狸クンは金かかりすぎなんだよ。仕事ができなかったら今頃コンクリ詰めなんだけれどもな。わかる? この意味」
  わかります上司様。無駄は削減してくださいってことですよね。はい。
  しかしそうは言っても、黒狸の受けている仕事は汚れた金を浄化する仕事であり、これには賄賂がたくさん必要なのだ。動いてくれる人間を捜すために渡す情報料も必要だったりする。
「あなたがコンテナに詰められてコンクリートを流し込まれないように言ってるのよ、わかってるの?」
「おっしゃるとおりで、はい」
  そして追記。彼女は狐の中でもお金にきっちりしている部類だ。毎月毎月、決済のたびにこのやり取りは行われる。
「わかってないわね。絶対に」
「わかってますよ」
「わかってない」
「わかってます。反省してます」
「やっぱりわかってないじゃない」
  そこまで言ってレノリアはため息をついた。そして黒狸の手にリストを置くと踵を返した。
「レノリア」
「何よ」
「わかってるよ、俺」
  君がとても、仲間思いなことも、自分のことを心配してくれていることも。
  レノリアはゆるくウェーブした髪を揺らし、目付きをきつくした。
「わかってるなら、次からちゃんとして」
「努力する」
「それ、改善する気ないってことよ」
  ぴしゃっと言って、レノリアは事務所の部屋を出ていった。
「さあて、今日も仕事よ」
  いつもの口癖を言って。
  黒狸は自分の使った金額のゼロを数えた。ちょっと使いすぎたとは、思っているのだ。いつまでも続けちゃいけないことも。だけど……
「俺も心配なんだけどな」
  二十一歳なんて、自分は若造もいいところだった。その時は有能な上司がいて、自分のことを叱ってくれていたんだ。どうすればいいかも教えてくれた。
  彼女は自分でやりたがる。自分で始末をつける、自分で抱え込む。
「いざってときはお互い様だぞ? レノリア」
  もう誰もいない事務所で、呟いた。自分がピンチのときも、レノリアがピンチのときも、どっちが困っても相談し合おうと。
「さあて」
  ライターを取り出し、領収書のリストに火をつける。こういうのは残しておいたほうがマズイ場合もあるのだ。
「お仕事お仕事」
  黒狸はレノリアの後を追うように部屋を出た。

(了)