「俺ね、この前床で鳳サンにご飯食べさせられたわ。キャットフードを自分で開けて食べるように言われた」
「床!? 汚いな」
  久しぶりに会った弟の反応はそんな感じだった。弟はこちらを嫌悪の表情で眺める。食べたというのが分かってるからだ。
「兄貴は本当なんか、だらしない」
「え。何いまさら」
「普通そんなことしないよ」
「キャットフード食べるだけで機嫌が治るんだったら安いもんだろ。醤油は使ってよかったし」
「ああ、はいはい」
  雪狐は黒い手袋をはめた手をひらひらと振った。弟の顔には「汚い」と書いてある。
「僕、兄貴のひどいところはさ、上司のキャットフードを食べることもできるけど、女の人を床に這いつくばらせてキャットフード食べさせたとしても罪悪感ないところが病気だと思う。みんながあなたのようにキャットフード食べることに抵抗ないわけじゃあないんだよ、興味半分で食べちゃいけないものが存在するんだよ」
「そういうもん?」
  黒狸は目をぱちくりとさせて弟を見る。雪狐は「そんな目で見ても僕は食べない」と言った。弟には暗示が効きづらい。キャットフードを女に食べさせることはできても、彼が床に這いつくばってキャットフードを食べることはないだろう。
「兄貴は相変わらずだな」
  弟は救えない男を見る目でそう言った。救えない男は煙草に火をつけるとにこにこ笑い、黒い煙を肺に満たして美味そうに目を細めた。
「俺さ、お前のその表情好きだ」
「変なの」
「お前に限らず、嫌悪に満ちた目で俺を見てくる奴らはだいたい好き。俺が好きであっちが嫌いってのがなんか面白くて」
  煙草の煙を吐き出してけらけら笑う。雪狐はため息をつくと、ペットボトルに入った天然水を口に運んだ。
「きもちわるい」
  キモいでもきめぇでもなく、きもちわるいと言って弟は沈黙した。黒狸はそれを聞いてもけらけらと笑っていた。

◆◇◆◇
  赤毛のニカを見つけた時、声をかけたのは彼の異能に興味があったからだ。
  彼の異能は本人にとって一番忌まわしい記憶をフラッシュバックさせる能力だった。黒狸が食いつかないわけがなかった。こんな面白い能力を体験してみないテはないと思った。ダメージを受けるのは心であって肉体ではない。怖くない怖くない。そんな軽いノリがあった。
「トラウマの類なんかあるわけ?」
  ニカは黒狸を拷問室の長椅子の上に座らせながら聞いた。血の付着したまま洗ってないシーツの上に寝転がるのはあまり好きじゃあなかった。しかし、今は興味のほうが優っていた。
「俺? トラウマないよ」
  あっさりそう言う黒狸に、ニカはプリミティヴな笑みを浮かべると、どうだかと言った。
「電気落とすぞ」
  照明が落とされる。高鳴る胸、うきうきする。何を思い出すのか楽しみだった。ワーストワンな過去は何なのだろう。
  ニカは視線を合わせた。黒狸は自分の異能を使わぬように心がけたまま、彼の精神支配が始まるのを待った。

 精神支配――と言っても、ニカと同じ支配系の術を使う黒狸にとって、記憶の旅をいっしょにしているようなものだった。
  最初にぶち当たったのはボスの鳳にネクタイを踏まれて床にキャットフードを置かれたあの思い出。
「お前こんなことしてるのか」
  ニカが呆れたようにそう言って、とるに足らない表情で見ている黒狸に次の記憶を持ってくる。
  闇医者ティーエと初めて会った日に女に撃たれた。
  その記憶もどうでもいいと眺めているのでさらに遡った。
  美容師になろうとしたとき、親にマフィアになれと反対されたときの記憶。これも今となっては心底どうでもいい。
  弟をハグしようとしたら潔癖症の彼に「だって怖い」と言われて拒絶された思い出。ニカが逆に初すぎる反応にドン引きする。
  そうして、どんどんと過去へ過去へと巻き戻していく。黒狸はどの思い出もどうでもよさそうに、つまらなさそうに眺めていた。ニカも手応えを感じるような恐怖を、精神世界から感じなかった。
「お前本当に恥ずかしい思い出はあっても恐怖はないんだな」
「え? そんなことないよ。探せよ、探してよ。きっと一つくらいあるよ。じゃないと俺寂しい男じゃないの」
  ニカはため息をつくと、さらに奥へ奥へと進んでいった。黒狸はそのあとをゆっくり歩いて行く。しばらくすると書斎に出た。
「どこだ?」
  ニカが言いながら、共有した記憶の中でここが黒狸の父の書斎だということを知った。
「ここより向こうはハッピーな記憶しかねえぞ。どうする? どうでもいい恥ずかしい思い出だったら」
「いや、たぶんこれは本当の忌まわしい記憶に違いない! 見ようぜ、GOGO」
  ニカにはそんな手応えが感じられなかったが、言われたとおりに再生をスタートさせた。過去の記憶の物語が始まる。

 書斎に子供が入ってきた。銀髪の少年で、わくわくした表情で鋏を持っている。
「おい、待て」
  ニカが突っ込むのも待たずに、子供は父の書斎の本を次から次へと切って遊び出した。
「ははは、俺らしい」
  小説がばらばらに散らばるのを微笑ましいものを見るように黒狸は言った。そのうちファイルされた書類にも手を出すんじゃないだろうか。そんな気さえニカにはした。黒狸というより父親にとって忌まわしい記憶ではありそうだ。
  子供の黒狸はふと、小さな本を手にとった。その本の表紙には「死刑囚の手記」と書いてある。碌でも無い本なのに興味半分に開くところも黒狸そのものだった。そうしてその本を懐にしまって書斎を出ていった。
「追ってくれるんだろ?」
  これはドラマの始まりだとばかりに、わくわくした顔で黒狸はニカを見た。ニカは場面をチェンジさせる。
  黒狸の本棚にその本が並んでるのを父親が見つけたシーンだった。その直後に黒狸が部屋に入ってきた。
  父は咎める口調ではなく、穏やかな口調でこれをどうして持ってきたのか黒狸に聞いた。
「その人が好きだから」
  黒狸はそう答える。そうして本を受け取り、ページをめくった。
「この人ね、だれもたいせつにしないんだよ。だれもたいせつにする方法を知らないの。なぐるし、けるし、なぐられるし、けられるし、ののしるし、ののしられる。最後はいっぱいころしてころされたんだ。そうでしょ?」
「おい」
  ツッコミはニカだった。なんでそんな奴が好きなのだとばかりに「おい」とだけ。
「残酷なのが好きなのか?」
「どうだろうな」
  答えを知ってるとばかりに黒狸はにやにや笑っている。
「はんせいも、しないんだ。こうかいも、しないんだ。みんな、人のせい。でも、みんなもこいつが悪いって、こいつのせいだって人のせい。こいつをころせってみんなが言って、この人もおまえらをころしてやるって言いながらしんでった。だけどさいごに、おばあちゃんだけはあいしてくれたから、おばあちゃんにだけもうしわけないって言ってるの。そこがすごく、すき。このひと、すごくすき」
「わかんねえ」
  ニカの呻くような呟きに黒狸はへらへら笑っている。
「すっかり忘れてたけれど俺、この本愛読書だったんだよ」
「はあ」
「なんつーかこの頃は好きって感覚だったけどさ、今の言葉で置き換えるならば、死刑囚は愛を求めて愛がわからないまま死んでいったんだよな。それが好きだった。一生誰かを愛そうともがいていた一途さが」
「ただぶっ殺してぶっ殺された人生だろ。どんだけ前向きなんだお前」
  呆れたような表情のニカにへらっと笑いつつ、次、次と合図をする。
「黒狸」
  父は悲しそうな表情をした。
「お前はこの人が愛に生きたと思ってるんだな?」
「ちがうの?」
「この人はとても色々なものを憎んで、嫌っていた。そこは理解できたか?」
「好きじゃないってことだけね」
「違う、嫌いだったんだ」
「よくわからない。好きか、好きじゃないかだけしかわかんない。雪狐は食べるの嫌いだけど、嫌いってわかんない。あたまのいい子が『むかんしんなんだよ』って言ったけど、むかんしんもわかんない。好きじゃないは、好きに会えるよ。好きってはいってる。だから好きじゃないか、好きだけでいい。好きは多いほうがいいんだよ」
  父親は悲しそうな顔をした。
「お前には悪意がない」
「うん」
「悪意なく人を殺す大人になるかもな」
「ころすはあまり好きじゃない」
「でも嫌いでもないだろ? 黒狸」
  父親の表情はマフィアというより、一人の親としての悲しみに満ちていた。そうして少し躊躇したあと、手をふりあげて黒狸の頬をパンと叩いた。
「憎むか?」
「なんで?」
「お父さんを嫌いと言いなさい」
「なんで?」
「嫌いなものがない子に育てたくないからだ」
「お父さんきらーい」
「真面目に言ってごらん」
「おとうさんきらいだよ」
  棒読みで黒狸は言う。何か意味があるの? 馬鹿馬鹿しいとばかりに。
「嫌いは好きじゃない」
「黒狸」
「好きじゃない、好きじゃない。好きがいっぱいあるほうがいい、楽しいものしか見たくない」
「そうはいかないんだよ。世の中には悲しいことがたくさんあるんだ」
「いらない」
「悔しいものもいっぱいある」
「いらない」
「辛いこともいっぱいある」
「いらない」
「いらなくても、あるんだ」
「でもいらない」
  父は理解できない子供の前に無力そのもので立っていた。そこで思い出は終わった。風化していく風景の中で、登場人物たちが消え去ったあとにニカは黒狸を見た。黒狸はにこにこ笑って「あーちょっと悲しい?」と言う。
「お前は」
「どうでもいい思い出しかなかったな。帰るか」
「最低だ」
  どうでっもいい記憶をかきわけながら現実にフェードバックする黒狸をニカはうんざりしたように追いかけた。

 現実時間としては、たった十分だった。
  ニカはため息をつく。そうしてこう言った。
「お前は最低だ」
  忌まわしいものが何もないなんて、なんて忌まわしい男だろう。
  黒狸は自分が最低だなんて、そんなことはわかっていたので「ありがとう」とだけ答えた。
「俺は嫌悪を取り戻すべきなのかもしれない」
「そうかもな」
「俺の許せないものが、本当に信じているもののような気がする」
「そうか」
「ヒントがもらえてよかった。ありがとう」
  黒狸はお礼とばかりに、ニカの手にお菓子を置いた。血なまぐさい部屋の中で食べられるとでも思っているのか。
「おい」
  もうどうでもいいとばかりに、足を止めた黒狸にニカは言う。
「お前はいつか殺す」
「どうぞ。今殺す?」
「殺される気あるのか?」
  黒狸はへらっと笑うと、ニカを見た。見るだけでよかった。
「俺はニカの優しさを信じてる」
  薄っぺらい信じてるが力を持って襲いかかる。脳の奥に自分は優しくて人を殺せるような人間ではないという暗示がべったりと張り付いた。
「おい、何やったんだ」
「じゃあね」
  質問には答えずに黒狸は部屋を出た。背後から刺すこともできたはずなのに、何故か優しい自分はそんなことはしないという錯覚。
  あるかもしれないと思ってしまった。自分もちょっとは優しいのかもしれないと。あの危険な男に同情したのかもしれないと。
  そうしてそれを"信じ込んだ"。

 黒狸は本屋にそのまま行った。そうして記憶の中で見た死刑囚の書記を買った。部屋に帰ってそれをぱらぱらと開いた。
  今もなお好きだったが、すごく好きではなくなった。好きなものが増えすぎて、好きも最近どうでもいい。
  ひととおり代金分の知識を頭に入れなおすと、黒狸はその本をゴミ箱に捨てた。
  どうせ好きは増える。執着する必要なんてない。

(了)