01 黒い男

 強すぎる陽差しは、晴れ渡る青空さえ白く輝かせている。
  できるだけ大きい庇を探してカフェの軒先に飛び込んだはいいが、着古したベストのどこを探っても、コップ一杯の水を買う金もない。
  キリシュは嘆息して、汗に湿った前髪を掻き上げた。
  日々の熱さにうだり、まともな仕事につけなかったツケがここにきて祟っている。
  ギルドの仲間達は気前がよく、「困った」と言って頼れば、それなりに面倒も見てくれる。が、流石に何度も何度もとなると気が引けた。
  軍学校時代の後輩だったジュリオに至っては、顔を見る度に「定職に就いたらどうです? あ、まずは住所を作らなきゃいけませんね!」と尻を叩かれるようになってきた始末だ。
「家をもつなんて、想像つかないんだよな」
  クーラーが効いた店内で、涼しげに談笑している客をガラス越しに見つつ、キリシュはベストの前をくつろげる。
  必死になって手で扇いでみるが、焼け石に水だ。涼しくならないどころか、汗が次々にしたたってくる。
  日陰に立っていたところで、風がないならあまり涼しくもない。下がらない体温に、吐き出す呼気すら暑くてたまらない。
「つまらない意地張ってないで、ギルドの食堂にやっかいになるしかないかなぁ」
  通りに敷かれたタイルからの照り返しに、網膜がちらつく。
「と、いったものの……だ。この中を歩いて、ギルドまでたどり着けるのかよ?」
  一歩踏み出すだけで融け出しそうな真昼の街に、足は意志と反して躊躇していた。
  出たら、間違いなく死ぬ。本能が、警鐘を鳴らしている。
  とはいえ、ずっと店先に立っているわけにもゆかない。営業妨害だと、ドアの向こうから聞こえてくる咳払いが気まずい。
(怒鳴られる前に、出てった方がいいってのはわかってるが、出たら確実に死ぬだろ)
  叱られるならまだいいが、司法組織が出てくると厄介だ。世話になっているギルドに、迷惑は掛けられない。
  キリシュは胸の前で十字を切り、炎天下の街に飛び込んだ。
「顔色悪いですよ? 日陰にいたほうがいいんじゃないですか」
  ふらりと前に出たキリシュは、甘い香水の匂いとともに胸を軽く押されてつんのめる。意気込んでいたせいか、周りがよく見えなかったようだ。
「あぁ、ごめ……」
  危うくぶつかりかけた男を目で追って、呼吸が止まる。肌を焼く陽差しの痛さすら、感覚から消え去った。
  休日に浮かれたシエル・ロアの雑踏に紛れ込んでゆく、黒いスーツ姿の男。何処にでもいそうな背格好なのに、視線がどうしてか外れない。
  知っている――気がした。
  冷えてゆく体温と反比例して浮かび上がってくる、よく分からないが激しい感情に、気付けば足が動いていた。
  スーツの男と自分をつなぐ導線上にいる人の波を押しのけ、キリシュは急ぎ足になって追いかける。
  走れば追いつけただろう。が、追いかけなければならないと急かされる一方、理由の付かない行動に戸惑っている自分がいた。
  すれ違いざま。たった一瞬にもかかわらず、キリシュはスーツの男の容姿を克明に記憶していた。いや、感覚的には思い出したと言った方が良いかもしれない。
  初めて見る気が、全くしないのだ。
  黒い帽子に押さえつけられた、プラチナブロンドのウルフヘア。
(幾分か、伸びている?)
  気持ち悪いほどの違和感に、キリシュは眉を寄せた。なにを思い出そうとしているのだろう。
  黒いスーツから漂う煙草の苦みと、甘ったるく主張が強い香水の匂いさえ、初めて嗅ぐものではなかった。
「あんたは、誰だ?」
  戸惑いが、キリシュの足を鈍らせる。
  真昼の広場は、人通りも多い。
  しっかりと見据えていたはずなのに、気がつけば見失っていた。
  どんなに目を凝らしてもスーツ姿の男はおらず、呆然と立ちすくむキリシュを邪魔そうに見つめる視線があるだけだった。


  遠くで鳴っている鈴の音に意識を引っ張り上げられ、あまりの寒さに重たい瞼を開けると、辺りは白一色の雪景色だった。
  吐息が凍り付く外気に、体が芯から震えている。
  現在の季節は夏だ。
  いまいる場所が夢だとすぐに分かっても、抗う方法をキリシュは知らない。
  雪の中、悪夢が終わるまでじっと佇んでいるしかなさそうだ。
(これは、いつだろう?)
  鈴の音に交じる、子供達の歌声。
  人もまばらなスラム街には、やけに酒瓶が転がっているように思える。凍てついた風からは、僅かに香ばしい匂いも感じた。
「――あぁ、今日はクリスマス・イブか」
  月明かりもなく、どんよりと曇った空から振る粉雪が、青い軍服の肩口を濡らす。
  体に積もり始めた雪を払いもせず、キリシュは視線を足下へ戻した。
  女が一人、背中を向け、雪に埋もれるようにして横たわっていた。
  裏通りを歩くには、少々不釣り合いな質の良いドレス。がっちりと固められた金色の髪は、クリスマスのためか派手に飾られている。
  腹部に開いた穴から流れ出る多量の血は、道路に積もる粉雪を溶かしながら、ゆっくりと広がり、側に立つキリシュの足下を濡らしていた。
  キリシュは右手にナイフを握ったまま、手に残る柔らかい感触を噛みしめるよう、じっと女を見つめる。
  日付も変わろうとしている時刻。冷え切った空気のせいで感覚は麻痺し、血臭は感じないが、かえって異様さが目立っているように思えた。
  女は、四肢を痙攣させている。もうすぐ死ぬだろう。
  裂かれた腹部の傷は深く、手当したところで間に合わない。あらかに致命傷だった。
  どこにでもいる、それこそクリスマス一色に飾り立てられた通りを男と笑いながら歩いているような、そんな普通の女だ。
『……失敗だな』
  左耳のインカムから囁かれる声に、キリシュは膝を付いて俯せに倒れる女をひっくり返した。
  白目を剥いた顔を飾るのは、死相。驚愕のまま固まり、美しさは微塵も残っていない。
  何度確認しても変わらない、女は確実にしぬ。何故、失敗と言うのか?
「任務は成功した」とキリシュが弁明するより早く、インカムの声は笑いに揺れる声で帰投を命じる。
  先ほどの不機嫌さとは裏腹に、笑みが交じる声に違和感を覚えるが、命令は絶対だった。闇に支配されつつある今は、特に。
  耳にすれば腹の立つ声だが、悪魔にしろ天使にしろ、耳打ちする者がいなければ廃人となって終わるしか道が残っていない。
  やっかいな、異能だ。
(このまま、雪に埋もれて死ぬのも良いかもしれない)
  自分ではかなえきれない望みだからこそ、ひどく甘く感じているのかもしれない。が、体は意志と反対に、女から離れ、踵を返す。
  さっさと立ち去れば良いのに、どうしてか足が鈍い。
  闇に支配され、徐々に薄くなってゆく自我と入れ替わるようにして、肌に伝わってくる感覚は鋭敏になっていく。
「誰か、いるのか?」
  キリシュに与えられた異能が、人肌ほどの体温を伝えてきている。
  聞こえてくるのは、死にかけた女の喘ぎ声だけ。キリシュは再度「帰投せよ」との命に、違和感を捨て去った。
  だれがいようといまいと、どうでも良い。
  任務は、成功したのだから――

◇◆◇◆

  額に感じる冷たさに、キリシュはゆっくりと瞼を持ち上げた。
  まぶしい視界に真っ先に飛び込んできた顔は、軍学校時代の後輩だったジュリオだ。
  似合いすぎる女装でジュジュと名乗っている姿は、少年時代の面影を知っているせいか、いつ見ても複雑な気分になる。
「まったく、人騒がせですよ先輩! 熱中症を甘くちゃあ駄目だって、いつも言っているでしょう?」
  開口一番。投げつけられるジュリオの苦言に、キリシュは面目ないと苦笑を返すしかなかった。
  椅子を並べただけの寝床に転がされ、額には冷たい水を吸ったタオルが置かれている。ぼんやりとした思考でなんとか思い出そうとしてみるが、どうにも記憶があやふやだ。
(スーツの男を追いかけて……それから、ぶっ倒れたのか?)
  いくら暑さが苦手とは言え、情けない。
  ため息をつけば、横から快活な笑い声が掛けられた。
「スパロー、あんたが運んでくれたの?」
  視線だけを向ければ、大柄の猫獣人が、太い尻尾を揺らしながら「そうだ」と頷いた。「サーカスの呼び込みをやってたら、いつもどおり、あんたが道ばたに転がってたんでね。腹でも空かしてるのかと思ってみてみりゃ、顔が真っ青なんでびっくりしたよ」
「礼を言うよ、スパロー」
  ジュリオが言うように、熱中症だからといってバカにはできない。火照った体はだるく、起き上がろうにもまともに力が入らなかった。
  そうとう、危なかったようだ。
「ねえ、先輩。悪いとか何だって遠慮しないで、もっと俺を頼ってくださいよ。見返りなんて、求めてないんですからね。純粋に、先輩の力になりたいんです」
  昔と何一つ変わらない口調に思わず笑うと、むっとジュリオは眉をひそめた。
  そのまま乱暴にタオルをとると、バケツに鎮めて絞る。
「どうぞ!」
「……どうも」
  べちゃっと濡れた感触に、キリシュは文句も言えずに笑うしかない。
  同じように苦笑を浮かべたスパローは、厨房の方をちらりと見やった。
「で、どうするんだ、ジュジュちゃん。そろそろ、夜の営業がはじまるし、ずっと食堂に転がしておくわけにもいかないだろ?」
「問題ないですよ、俺の家に来てもらいます。本格的に弱ってないと、看病すらさせてくれないですからね。良い機会ですよ」
「看病ったって、仕事はどうする?」
  滴がしたたるタオルをキリシュの額から取り上げたスパローは、大きな手でぎゅっと絞りつつ尋ねる。「当然、休みますけど」と返すジュリオに、キリシュはふらつきながら状態を起こす。
「もう少しすりゃ動けるようになるだろうし、日が沈めばそれなりに涼しくもなる。一人だって、平気だよ」
「倒れたんですよ、先輩。大丈夫なわけないでしょう! 平気ぶって、倒れるのが目に見えています!」
  声を荒げるジュリオに、スパローが間に割って入る。
「後輩に遠慮してるのなら、おれの所にくればいい。コンテナ暮らしでちょいと狭いが、寝床は最高だぞ」
「……お任せしてもかまいませんが、セクハラしないでくださいよ。無防備だからって、やって良いことと悪いことがあるんです。一般常識レベルの分別は、持っているでしょうね?」
  声を尖らせたジュリオはスパローが絞ったタオルを奪い取り、再びバケツに浸す。
  つけ爪で飾り立てた指先に苦労しながら絞るが、意気込みの割にはいまいち水気が切れていない。
  ぽたぽたしたたる水滴に、スパローが肩をすくめた。
「どう思ってるかしらんが、おれにも好き嫌いがある。それにだ、嫌ならちゃんと抵抗できるだろうよ。一応、男の子だしなぁ?」
  な? と同意を求められ、キリシュはため息交じりに頷く。
「仕事は、サボっちゃだめだぞジュリオ。それに、だ。お前のとこのネフリータちゃん、ちょっと苦手なんだよ。撫でようとすると、やたら噛まれるし」
  可愛がっているイグアナへの悪口と取ったか、ジュリオは少しばかり頬を膨らました。
「……わかりました。今回は大人しく引きますが、次は縛り付けてでも俺の家に連れて帰りますからね」
  絞りきれていないタオルをキリシュに押しつけ、食堂の壁掛け時計を仰いだジュリオは「嫌なら、無茶はしないように」と念を押し、慌ただしく出て行った。


◇◆◇◆

  夜の興業が終わったのか、話し声と共に人の気配が戻ってくる。
  ベッドだけが置かれてるコンテナは質素だが、しっかりとした生活感がある。持ち主の性格が、そのまま室内に投影されているようだった。
「気分はどうだ、キーリ」
  開けっ放しの入り口から、スパローが顔を出す。
「おかげで、良くなったよ」
「なら、一杯やらないか? サーカスのみんなも、あんたと話したがってる」
  あまり上品とは言えない笑顔で誘うスパローの片手には、酒瓶が握られていた。外が賑やかなのは、無事に興業を終えた安堵感よりも酒盛りへの興奮が強そうだ。
「ジュリオがいたなら、頭から角を出して怒りそうだな」
  断る選択支は、ない。
  だいぶしっかりしてきた足取りで外に出ると、昼の熱を僅かに残しているものの、過ごすにはちょうど良い、涼しい風がながれていた。
「よそ者が、邪魔して良いの?」
  スパローの背中を追いかけ、いくつものテントの側を横切る。
「よそ者はむしろ、おれらの方だろうが。それに、だ。サーカス団ってのは、あちこちを旅して回っているせいか、人の出入りも激しくてな。他人だの身内だの、区別していちゃ、らちが明かないんだよ」
  黒い尻尾が、ゆらゆらと振れている。すでに、一杯引っかけているのかもしれない。
  上機嫌なスパローが、「飲め」と持っていた酒瓶を投げてよこす。蓋を閉めていても感じるアルコール臭。相当、度数が高そうだ。
  さすがに、病み上がりにはきつそうだ。酒瓶を抱えたまま人の声とスパローの尻尾を追いかけ、広場にたどり着いた。
  団員が、たき火を囲んで酒を酌み交わしている。
「ほら、こっちにこい」
  先に丸太に腰を掛けたスパローは、たき火にかざしてあった串を見せてくる。香ばしく焼けた肉の匂いに、キリシュの腹がか細く鳴いた。
「なんだよ、食い気が先か」
「うるさいな、昼から何にも食べてないんだ、仕方ないだろ」
  口を開けて豪快に笑うスパローを睨んで、横に座る。酒瓶を押しつけて、かわりに串を奪い取る。
「良い食いっぷりだなぁ。熱中症で倒れてたなんて、おもえねぇよ」
  齧り付けば、溢れてくる肉汁を零さないようにと慌てて啜る。味付けは塩と胡椒だけのようだが、よく火が通っていて美味い。
「食えるときに、食うってのが信条でね。なあ、もう一本くれよ」      
肩をすくめ、今度は合間にネギを挟んだ串を差し出してきたスパローが、わざとらしく視線を合わせてくる。
  無視するわけにもいかず、「何?」と問うと、後ろ頭を気まずそうに?いて、スパローは酒瓶に口をつけた。
「ここに来る途中、誰を探していたんだ?」
  良く気付いたものだ。肉を囓りながら、洞察力の鋭さに感心する。
  興行場所に来る道すがら、キリシュはずっとスパローにおぶわれていた。背中でなにをしていたか、気配だけで読めるとはなかなかだ。
「知り合い、かな?」
「また、ずいぶんと曖昧だな」
「知っている気はするんだけど、知らないんだ」
  揺れる炎を見つめていると、スパローは「問答みたいだ」とぼやいて、新しい串を地面に刺した。
「覚えてない、って感じか?」
「かも、しれない。オレ、記憶が曖昧な時期があってさ。その時に、会った奴なのかもしれない。ただ……気になってしかたなくて」
  せめて、気になる理由が思い当たればまだすっきりもするだろう。理由が分からないのは、とても気持ちが悪い。
「そいつは、美女かい?」
「いやなことに、男だよ」
  スパローは「そりゃ、残念だ」と、とたんに興味を無くした様子で串を裏返した。溢れる肉汁が僅かに焦げ、香ばしい匂いがただよう。 
「一杯くれよ、スパロー。ほろ酔いじゃないと、寝られそうにないや」
  とにかく、寝てしまうのが一番だろう。肉と酒で腹を満たしていれば、嫌な夢も見ないはずだ。


  スーツの男を見かけた区画をぶらつくようになって、一週間ほどがすぎた。
  暑さも峠をこしたのか、空には分厚い雲がかかり、気温はぎりぎりしのげそうな暑さにとどまってくれている。
「見つけて、なにしようってんだかなぁ」
  男を見かけたのは一瞬だったし、日にちもだいぶ経っている。
  すっきりと忘れてしまえば良いものの、時間が過ぎれば過ぎるほど、気になってきて他に手が着かないのだからタチが悪い。
(会えば、このもやもやした気分も晴れてくれるかね)
  キリシュは嘆息を零して、ベストのポケットを探った。
  スパローの口利きでサーカスの仕事を手伝えるようになり、お茶ぐらいなら問題なく飲める金を、懐に入れておけるようになった。
  銭湯の手伝いでもらえる少なすぎる小遣いではままならなかったので、とても助かっている。
「……腹、減ったな」
  ポケットから引っ張り出した金を数え、手近にあったランチメニューの看板を睨む。どうにか一番安いメニューを選べそうだ。ほっと息をついて、ドアをくぐる。
  愛想の良さそうな店主に軽く手を振って、キリシュは空いている席はないかと視線を巡らせ――「あっ」と思わず叫んでいた。
  いた。
  あの男だ。 
  黒い帽子はテーブルの上に置いてあるものの、高そうな生地の黒いスーツと髪の色は間違いない。
  キリシュは自然と足音を消して、スーツの男が座る席へと近づいていった。
「ここ、邪魔するよ」
  声を掛けて初めて、男はキリシュに気付いたようだ。面白いほどに肩が震え、見上げてくる顔は美形が台無しなほどの呆け顔だった。
  返事を待たずにキリシュは男の向かいに腰掛け、水を拝借する。
「ねえ、あんた名前は?」
「え? あぁ、と。……黒狸だけど」
「そう。オレは、キリシュ」
  答え、黒狸は軽く舌打ちしてみせた。偽名でも使うつもりだったのだろうか? 一般人には、どうあっても見えない。雰囲気からしてマフィアの関係者か。
(また、ジュリオに怒られちまうかな)
  後輩のマフィア嫌いは、筋金入りだ。いろいろと忙しくて理由は聞けずじまいだが、マフィアと口をきいたとばれただけで、朝まで説教されそうだ。
  だからといって、引き下がれるわけもない。ずっと、この男をキリシュは捜していたのだ。
  黒狸。
  キリシュは胸中で男の名を繰り返してみるが、記憶にもなければ聞き覚えもまったくない。初めて知った名だ。
「ふーん、黒狸っていうのか。なぁ、あんたさ、オレのこと知ってる? どこかで会ったことない?」
表情は冷静さを取り繕っているが、明らかに気配が浮ついている。返事のない黒狸に、キリシュは何か探れないかと、右目を細め、じっと見つめた。
「知らない」
  ナイフとフォークを置いて、まだ半分以上残っているランチを置いて立ち上がる黒狸の声が、わずかに震えている。
  なにかしら、動揺しているようだ。
「なあ、オレのこと知ってるんじゃないか?」
「知らないよ」
  短すぎる返事は、ヘマしないためか。立ち去ろうとする黒狸を掴もうと手を伸ばすが、痛いほどにはたき落とされる。
「ちょっと、待ってくれよ。話を聞くだけで良いんだ」
「知らない、知らないから! 俺は何も知らない。勘違いの人違いさ。わかったなら、大人しくお家に帰ってねんねしてなさい」
  カウンターに紙幣を置いて、釣り銭も受け取ろうとしない様は逃げているようにしか見えなかった。
「おい、黒狸!」
「まあまあ、お二人さん。そうかっかしなさんなって」
  突然間に入ってきた店主が、黒狸のスーツを引っ張って足止めした。
「よりを戻すにゃ、言葉よりもまず同じ空間でぴったりと肩を寄せ合って過ごすのが一番の近道だ」
「はぁ?」
  首を傾げるキリシュに、店主はチケットを二枚差し出してきた。知らないタイトルの映画だが、なんだかうさんくさい気配を感じる。
「うまくやんなよ、青年」
  何を? と言い返すまもなくチケットを握らされ、黒狸共々、店の外へと放り出された。「じゃあ、俺はこれで」
  そそくさと逃げを決め込む黒狸を、キリシュは素早く捕まえた。逃げられないよう、しっかりと右手を掴む。     
「なあ、頼むよ。映画を見終わるまででいい、一緒にいてくれよ。それであんたのこと思い出せなけりゃ、オレの記憶違いってことになる。もう、街で見かけても追い回したりはしない」
  手を掴む手に思わず力が入り、黒狸が悲鳴を上げて「わかった、わかったから」と涙目になって叫んだ。
「映画を見るだけ、それで良いんだよな? 絶対だぞ」
「ああ、それでいい」
  力を弱めるが、手は右腕を掴んだまま離す気のない自分に、キリシュは戸惑う。感じているのは、懐かしさではない。
  はっきりとは分からないが、「逃してはいけない」そんな執着に似ていた。


◇◆◇◆

  薄暗いロビーに集まっている人間の相貌はだれもが一癖ありそうで、異様な雰囲気が漂っている。
  きっちりした制服姿の男や、ホームレスまがいの男、派手な入れ墨の男など様々だが、異様な雰囲気を醸し出しているのは、男しかうろついていないからだろう。女は、一人も居いない。
  映画を見る目的で集まっているようには、とてもじゃないが思えない。
(あぁ、ちょっと不味いかも。暗すぎる)
  窓には全てカーテンが引かれていて、照明もわざと落としいるようでどこもかしこも薄暗い。キリシュは頭を振って、手をつないでいる黒狸を肩越しに振り返る。
  ずっと黙ったまま、周りの異様な雰囲気に当てられてか、緊張しているようにも見えた。
  キリシュの異能は、周囲の明暗に比例して変化する。暗ければ暗いほどに感覚が増してゆき、自我が眠りに落ちてゆく。
  昔と違って誘導する声がない今、完全に闇に落ちれば動けなくなる。
「おい、前! あぶな――」 
  黒狸の注意も虚しく、キリシュは前から歩いてきた青い制服の男と勢いよくぶつかった。転びはしなかったものの、よろめいた拍子につないでいた手が離れる。
「すまないね」と素直に頭を下げれば、向こうもいらぬ腹を探られたくなかったか、「気をつけろ」と一言残すだけで去って行った。
  きっちりとした軍服の後ろ姿は、爛れた場の雰囲気とあまりにもかけ離れていて、いっそ滑稽でもある。
「……さ、行こうぜ黒狸」
  キリシュは顔色の悪い黒狸を和ませようと笑みを作ってみるが、逆効果だったようだ。
  返ってくる引きつった作り笑いに、やれやれと肩をすくめ、手近のシアターの防音扉を押し開いた。