02 災難な一日
今年の夏は特別暑かった。
黒狸はあまりに暑いと何もする気が起きないと思いながら、仕事の合間を縫って食事に出かけた。
昼間の食堂はうるさすぎて、夏場の疲労した頭には堪えたため、仕方なく静かにしたいときだけ選ぶ喫茶店へと入った。
ここの食事はあまり美味しくない。しかし人は少ないため、ゆっくりとしたいときにはもってこいの場所だった。
黒狸はランチセットという名目の、ただのトーストとベーコンとサラダ、そしてあまり美味しそうじゃあないスープのついたセットを頼んだ。
注文している間、喫茶店を見渡す。
良く言えばレトロな雰囲気、悪く言うならば古臭いインテリアだ。壁にはよくわからないポスターが貼ってあるし、テレビは液晶になる前の一昔以上遡った骨董ものだ。
骨董趣味を持った店主がやっている店のようだが、あいにくとシエルロアでこのインテリアが受けているようには思えない。
安いランチは、「安かろう悪かろう」の味がする。なかなか癖になるまったりとした不味いスープをすすりながら、パプリカは賞味期限ギリギリだな……などと黒狸は考えた。
「ここ、邪魔するよ」
ふと、目の前の席に自分より一回りくらい歳の離れた青年が腰掛けた。
近づいてきた気配すら感じなかったが、いつの間に居たのだろう……そう思って顔を上げた瞬間、目に飛び込んできた青い髪に月を彷彿とさせる黄色い目。
眼帯をかけて印象が変わったとて、忘れるわけがない。
三年前に黒狸を殺しにやってきた暗殺者だ。
あの時はとっさに隣にいた仕事相手の女を身代わりにするよう異能で命令文をすり替えたが、今も効いている保障はない。
思わず肩がぶるっとなった。男は店主が出してくれた水に口をつけて、こちらに笑顔を作る。
「ねえ、あんた名前は」
「え? あぁ、と。……黒狸だけど」
あまりに動揺していたため、偽名を名乗るのを忘れて本名を口走ってしまった。とんだ失態だと思った。
男はそんな黒狸の様子に気づいてか気づいてないのか、
「そう。オレは、キリシュ」
と自分の名前を名乗った。
黒狸は胸中キリシュという名前をどこかで聞いたことがなかったか? と考えた。たしか、昔ジュリオが部下だった頃、何かの拍子にキリシュという名前を口にしていたような気がする。
ということは、彼は軍部の人間か。当然、あの、殺しに来たときも青い軍服を着ていたが、それでもカモフラージュという可能性もあった。今は確信できる。彼はヴェラドニア軍の人間だ。
「ふーん、黒狸っていうのか。なぁ、あんたさ、オレのこと知ってる? どこかで会ったことない?」
思わず目が泳いだのが自分でもわかった。とっさに何か取り繕う内容を考えるが、こんなところで再会することなんて考えてもいなかったため、嘘をつくのはやめることにした。元より自分は本当だと信じこんでない嘘を話すのは苦手だ。
「知らない」
そうとだけ、告げる。フォークとナイフを置いて早々に立ち上がった。
「なあ、オレのこと知ってるんじゃないか?」
「知らないよ」
しつこく聞いてくるところをみると、まだ異能の効力は残っているようだ。早々におさらばしてしまいたいのに、キリシュは黒狸の後ろをついてくる。
スーツを掴まれそうになり、思わずその手をはたき落としてしまった。キリシュは動揺、というよりは確信したような表情をした。
「ちょっと、待ってくれよ。話を聞くだけで良いんだ」
「知らない、知らないから! 俺は何も知らない。勘違いの人違いさ。わかったなら、大人しくお家に帰ってねんねしてなさい」
「おい、黒狸!」
カウンターに紙幣を置き、「おつりはいいから」と言ってそのまま外へ飛び出そうとしたときだった。
スーツを誰かに掴まれる。ぎょっとして振り返ると、店主がニカッと笑っていた。
「まあまあ、お二人さん。そうかっかしなさんなって」
ここの店主は余計なときに余計な機転が効くのがよくない。追いついたキリシュに店主が何やら渡してよからぬことを言っている。スーツを掴まれているので身動きがとれないが、ものの数分でキリシュ共々店の外へと放り出された。
「うまくやんなよ、青年」
キリシュを応援するメッセージと思しきものを残して店主は扉を閉めた。
その意図を確かめる前に黒狸は「じゃあ、俺はこれで」とそそくさとその場をあとにしようとした。
右手をがっちりと掴まれる。キリシュは今度こそ逃がさないという表情だ。
「なあ、頼むよ。映画を見終わるまででいい、一緒にいてくれよ。それであんたのこと思い出せなけりゃ、オレの記憶違いってことになる。もう、街で見かけても追い回したりはしない」
右手首をつかむ手に力が篭る。思わずこのまま殺されると感じて悲鳴を上げてしまった。
「わかった、わかったから」
それで近づかないと約束してくれるのであれば。一度くらい付き合ってやってもいいだろう。
「映画を見るだけ、それで良いんだよな? 絶対だぞ」
「ああ、それでいい」
キリシュは手にこめる力を緩めた。しかしその表情は、「逃しはしない」と物語っていた。
店から男が二人出てきて、往来で悲鳴を上げたり手を掴んでいたりするため、周りの人は揉め事だろうと思って関わってはくれない。
黒狸はどうか丸くすべてが収まりますようにと天に願いながら、キリシュに連れられ映画館のほうへと向かった。
薄暗い。
映画館に入った最初の感想はそれだった。
黒狸はキリシュに手を引かれたまま、遮光カーテンで内側が見えなくしてある胡散臭い映画館の中を見渡した。
最初に何か違和感があったが、その正体はすぐにはわからなかった。おそらく空気が悪いせいだと考えるが、払拭できない不自然さを感じる。
前を見つめれば昂揚したような目であたりを見渡し、緊張しているキリシュがいる。
「おい、前! あぶな――」
そう言った注意も虚しく、キリシュがつんのめて前を歩いていた軍人に軽くぶつかった。
「気をつけろ」
と戒めて出て行く軍人の後ろ姿を見つめて、あの軍人は映画を見に来た雰囲気ではなかったと黒狸は思った。
「……さ、行こうぜ黒狸」
キリシュが満面の笑みを浮かべてくるが、こちらは引きつり笑いしか返すことができない。
キリシュは肩を竦めると、シアターの扉を押して中へと入った。
上映中、というわけではなさそうだが……中の照明は極力落としてあった。
すぐにでられるように一番後ろの真ん中の席に座ろうとすると、隣で男と男がこちらに気づく様子もなく熱烈なキスを交わしている。
黒狸は唇がぶるぶる震えるのがわかった。あたりを見渡すと、二人の世界にどっぷりと浸かっている男たちがちらほらいる。
(男同士のハッテン場かよ。店主め、余計な気を回しやがって)
金輪際あの喫茶店は使ってやるもんかと心に決めて、目の毒になる男性が入らないような場所を選んでキリシュの隣に腰掛けた。
本当はキリシュの隣もごめん被りたかったが、キリシュがそれで諦めると言うのであれば仕方がない。
「まもなく上映時間です……」
最初から薄暗かった照明がさらに落とされて、スクリーンが明るくなる。
スクリーン一面にアダルトビデオの最初にあるような、これから毒牙にかかるヒロインのセクシーポーズが映るが、誰もそんな女性に興味のある男がいなさそうな会場だ。
ポルノ映画の類は実はあまり見たことがない。
抜く目的ならばそれ専用の動画があるし、映画を見たいときに内容のうすいポルノ映画を見たいとは思わないからだ。
始まった映画はシエル・ロアで強姦が合法になる記念日ができたとかそんな内容で、単純明快に男の空想を具現化させるとこうなるのか……と少し感心してしまった。こんなものを作るのにお金をかける奴がいることと、たぶん健全な男で性嗜好が合えば見るのだろうという両方に。
(金になるのかな。やっぱりこういう商売って)
金になろうがなるまいが、性を仕事にした商売が黒狸はあまり好きではない。見る分にもなんだかむず痒いものを感じる。
「やめてください、離して!」
映画のヒロインがわざとらしい演技でそれでも本気で抵抗している感じではなく連れていかれる。この陳腐な演技を見ているよりもキリシュを監視しておくべきだろう。そう思った矢先、自分の右手が手錠で椅子に固定されていることに気づいた。
「離して!」
映画のヒロインがそう言っている。黒狸も同じ心境だ。
気づいたことにして問い詰めるか、気づいてない振りをして奇をてらうか。暗殺者相手に正攻法で逃げられる気はしなかったが、奇襲したところで似たような結果を刈り取りそうだ。
つまり、手錠を外すのが先決だなと思った矢先、映画は濡れ場に突入して、あたりは真っ暗になった。
「標的ナンバー6034、祥黒狸。紅龍会に今から10年前入社、26歳にして紅龍会財務最高顧問就任。身長174センチ、体重60キロ台。右利きだが左も使用可能。携帯している武器はナイフと小型銃。異能はデータベースに載ってなかったため不明。殺害命令は12月10日、殺害予定日12月24日……」
黒狸は小声でぶつぶつと自分の略歴を暗唱しているキリシュに、思い出したのか? とぎょっとした。もし思い出したのだとしたら命が危ない。
「命令実行可能か、可能――」
ヤバイ! そう思ったときにはキリシュは行動に移っていた。普段から携帯しているのか、それともこのために用意したのかわからない小型ナイフが黒狸の頬をかすめる。
一撃目は避けたが、キリシュはそのまま首めがけてナイフを切り返してきた。
キリシュの胴体を蹴飛ばして攻撃の致命的なヒットは避けるが、首を薄く切った。
「誰か! 助けて!」
映画の向こうで襲われているヒロインを助けてくれる男はいない。
もちろん、黒狸が殺されかけているのを助けてくれる親切な男も周りにはいない。
黒狸は懐に手を突っ込み、銃を取り出した。至近距離から撃てば避けられないはずだ。
ところがキリシュのナイフを握っている手とは逆の手が銃を撃つ前に銃身ごと椅子の後ろに吹き飛ばした。
間髪入れずにナイフが顔面めがけて飛んでくる。
黒狸は近くにあった缶ジュースを前に出してキリシュのナイフを絡めとると缶ごと後ろに投げ捨てた。
「いてぇな!」
後ろから声がするが、気にせずキリシュの意識を奪う方法を考えるが、片手が椅子に固定されている以上何もいい方法は思いつかない。
キリシュは命令を与えられたロボットのように正確に黒狸の急所である喉を狙い手刀を繰り出してきた。
声帯を傷つけられたことに気づいたのはその直後だ。
ああ、もう助けも呼べないし殺されるかもしれない。馬鹿な自分。
そう覚悟した矢先、キリシュの攻撃が止んだ。
「あれ? なんで俺立ってるんだろう」
画面が明るくなった瞬間、我にかえったキリシュがこちらを見下ろして佇んでいる。
「なんだよ? 怖い目して。取って食うほど無節操じゃないぞ」
このまま、このまま画面が明るいうちにキリシュに手錠を外してもらってずらかろう。そう思った瞬間、また画面が暗くなる。
「命令復唱、完全抹殺せよ」
何かのホラーだろうか。死んだ、と思った瞬間目を閉じてしまった。
「情けない奴だな」
同じキリシュの声のはずなのに、トーンの違う声でそう言われて、そっと目を開ける。
腕を組んでニヤリと笑うキリシュがいた。しかし雰囲気が、先程のものとも、その前のものとも違う。
「死ぬところを助けてやったんだぞ。喜べよ」
「あんたは?」
「オレ? グリード」
「キリシュは?」
「眠らせた」
グリードは簡潔にそう答えた。よくわからないが、助けてくれるらしい。
「た、助かった。グリード、ありがとう」
「勘違いしないでほしいな。オレはお前の命なんざどうでもいいんだ。キリシュが捕まるのはオレにとって得策じゃあないからな」
どうやらグリードはキリシュに対して好意的な考えを多少持っているようだ。グリードは映画の濡れ場を一度振り返って、肩をすくめながら黒狸のほうをもう一度見た。
「ともあれ困ったもんだ。お前に会ったせいで嫌なもん思い出しちまった」
「……?」
よくわからず黒狸が怪訝な表情をつくると、グリードは黒狸のネクタイを掴み上げ、間近で黒狸に囁いた。
「いいか? キリシュ=入間に金輪際近づくな。これは警告だ」
そうとだけ言い残し、ネクタイを離すとグリードはキリシュの肉体を乗っ取ったままシアターを出ていった。
暗殺者の上に二重人格なのか。ややこしい相手だが、グリード登場のお陰で命拾いしたと黒狸は胸をなでおろす。
黒狸は残っていた懐のナイフで、細い金具を一生懸命こじ開け、やっとの思いで外し、映画館の外へと出た。
太陽は傾いていて、今から仕事場に戻ったら部下のエルムが大層怒るだろうことが予想できたが、そんなことはどうでもよかった。
グリードがキリシュに近づくなと言ったが、黒狸は元からキリシュに近づくつもりなんてなかったのだ。むしろ、避けたかったのだ。
今後キリシュが黒狸に近づいてこない保障なんてありはしない。
暗澹たる気持ちのまま、暗くなっていよいよ治安の悪くなりだした映画館前をあとにした。
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