03 三年前
思えば三年前はお互い名乗る暇さえなかった。
キリシュとは黒狸が二十八歳のクリスマスイブに初めて出会った。
三年前は色々な変化が訪れた。
一つは同居していた元ストリートチルドレンのネフリータが正式に独り立ちしたこと。
二つ目はそれと入れ違いくらいの時期に部下のエルムが入社してきたこと。それだけだったら大した内容ではないが、彼女は黒狸のヘビースケジュールに唯一耐えた部下で、今も黒狸の下で働いている。
三つ目はキリシュとの遭遇である。紅龍会はボスの鳳・rosso・白明の強者の理論に基づき、SPや用心棒を重役につける風習があまりない。弱くて死ぬならば所詮その程度の使えない部下だったと考えるボスだからだ。
そのため、黒狸も部下のエルムに仕事を教えることはあっても、盾として使うことはしない。もちろんエルムにはまだ早い仕事は自分一人で片付けることにしていた。
キリシュに殺害されそうになったのは一人で行動していたイブの日だった。
黒狸は腕っ節に自信のあるほうではない。そのため、それまでは肉体を硬化させることができるネフリータを用心棒の代わりに使っていた。
ネフリータのいなくなった年に暗殺者が一人になったタイミングで現れたのは、情報が漏洩したとしか思えない。
どんなミスがあったかはわからないが、黒狸がブラック企業の秘書と連絡を取るために人気のない裏路地で彼女と密会していたときに、キリシュは現れた。
青い軍服に、コート、そして手にナイフ。
自分を殺しにきたと判断するやいなや、黒狸はこの軍人に肉弾戦で勝つのは不可能と決め付け、自分の異能を発動させた。
ヴェラドニア国の市民はたいてい異能というものが使える。
ネフリータが部分的に肉体を強化できる【アイアン・メイデン】を使えるように、弟の雪狐が何もかもを見落とさない【精緻な世界】が使えるように、もちろん黒狸にも使える異能があった。
黒狸の異能は【Believe】というもので、自分の信じ込んだものを相手にも信じこませるというものだ。
自分が信じ込んだ内容でないと信じこませることができないというデメリットと、視線が完璧に外れていると干渉できないという制限があるが、黒狸はこの異能をある程度熟知していた。
「お前の殺害相手は隣の奴だ」
とっさに書き換えた命令の内容が、とてもシンプルかつ想像しやすいものだったのは時間がなかったから仕方がない。
女がこちらをぎょっとした視線で見つめたような気がした。気がした、というのは正確にはそちらのほうを見てないからだが、キリシュと視線を合わせたまま、相手の視神経を媒介に脳に侵入していくような錯覚――キリシュが視線を動かし、後ろで悲鳴が聞こえたときには黒狸は全力でその場を逃げていた。
キリシュが追ってこないであろう大通りで人ごみの中でやっと胸をなでおろした。
あの女秘書は元々ブラック企業で秘密を握っている立場にいる人間だ。路地裏で消されたとしても、それがスケープゴートだと思う人間はいないだろう。
それが思い出せる限りの、三年前の記憶だった。
キリシュが再び黒狸の前に姿を現し、そして襲ってきた。あのときキリシュにかけた暗示はもう解けてしまったのだろうか。
だとしたらあちらのタイミングで動かれる前に、こちらから暗示をかけにいったほうがいいかもしれない。
キリシュは黒狸が標的だったことを完璧にいは思い出していないようだったし、今暗示を強化しておけば安全が確保できるだろう。
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