忠誠を誓った男の指が書類を広げる。
  白くて細いが、男の手だとわかる。インクで汚れた書類よりもずっと白いと感じる。
「何の書類かわかりますか? 祥黒狸」
  鳳はもう片方の手で頬杖をつき、書類を指で弾いた。
「俺について調べたんですか? 鳳サン」
「正確にはあなたのしてきたことリストですね。読み上げましょうか?」
「恥ずかしいのでやめてください」
  鳳から個人的に受けた仕事によって人脈は一気に広がった。紅龍会の部下や仲間ではないが、金といっしょに一声かければ快く動いてくれる人材はかなり確保しているつもりだ。
「ご褒美をあげようと思ったんですよ。この五年程度で随分色々としてくれたので、何かやってさしあげようと思ったんです。面白い情報もありましたよ? 五人の男が古い軍のガス室に監禁された事件とか。生き残った最後の一人の証言によると、ある日いきなり監禁されたみたいです。中での乱痴気模様の証言が面白かったんで覚えています。最初の一週間で恐怖に耐えかねて男同士で乱交状態になり、次の週で飢えに耐えかねて殺しあったそうです。生き延びた方法はもちろん人肉を食ってですよ」
「最後の男はどうなりましたか?」
「名前を替えてシエルロアを出て行ったみたいですね。あなたのほうがよくご存知なんじゃありませんか? 祥黒狸」
  何度も自分の名前をフルネームで鳳は呼んだ。
  なのに怒ってる様子はなく、むしろ上機嫌なくらいだ。
「びっくりでしたよ。小さな恋人が犯された程度であっさりここまで残酷になれたんですね。見直しました」
  黒狸が黙っていると、鳳は続けてこうも言った。
「あなたらしい手だ。殺すでもなく、切り取るでもなく、売り飛ばすでもなく、ただ閉じ込めて放置して勝手に自滅するのを待つなんて手間のかからない上残忍な手口、なかなかぱっとは思いつきませんね。とてもよい手だと感心しました」
「残酷でした」
「しかも陰湿ですね。あなたらしい」
「はい……」
「たぬちゃん、この男たちに復讐するために何人の売春婦を利用したの?」
「覚えていません」
「調べた限りで18人は名前出てきましたよ。浮浪者の目撃情報は誰からもらったのか知りませんが、たぶん鴉にいる誰かが協力したのでしょう。金を握らされて実際に実行したのが7人、他にも弱みを掴まれたりして間接的に協力させられたのが6人。合計31人利用してやったんです」
  黒狸は答えなかった。
  鳳は椅子に体重を預けなおすと悠然と微笑む。
「話題がそれてしまってすみません。ちょっと書類を見た時に笑っちゃって。世間話ですよ。今日呼んだのはご褒美のお話です。昇給にしますか? 昇格にしますか? 部下が一人欲しい? 家がもうひとつ欲しい? 一つくらい何か我侭を聞いてさし上げま――」
「ネフリータに何もしないでください」
  鳳が言い終わるのも待たずに黒狸はそう願いでた。鳳はしめたとばかりに首をかしげる。
「あなたの小さな恋人を人質にとるとでも? この前蝶恋を差し出したじゃあなあいですか、もう忘れたんですか?」
「何があっても手を出さないでください。ご褒美はそれだけでいいです」
「たぬちゃん、無欲すぎるのか臆病なのか知らないけれども、僕はあなたのやったことへは等価のご褒美と復讐をするタチですよ? あなたがそんなにネフリータに手を出してほしくないと言うのであれば誓って指一本触れさせる命令は出しません。あなたが僕にでかい裏切りをしたときにうっかりやるなんてこともありませんよ。だってご褒美をあとで奪うなんて真似、したくありませんから」
  知られた。鳳の前では極力ボディガードとして雇っている程度に見せておいたのに、ずっとずっと執着していることを。
「ネフリータは今笑っていますか?」
「はい」
「あなた以外の男の隣でね」
「そうですね」
「それでも守りたいなら愛してるんですね」
「……はい」
「彼女を笑わせるのは隣にいる男でしょう。彼女が泣かないかどうかはあなたにかかってますよ、黒狸」
「働きます」
  鳳は「よく働いて下さい。帰ってよし」と手をひらひらとさせた。

 その晩、家にあったシューベルトのアヴェ・マリアのCDを壁にぶつけて割ろうとした。
  案外頑丈だったようで割れはしなかったが、傷が入ったようでずっと同じところをぐるぐるとリピートするだけになった。

Ave Maria Ave Maria Ave Maria.......AAAAAAAVE
  狂ったように「マリア、マリア、おめでとう」と繰り返すだけのCD。
  まるでネフリータに狂ってる自分みたいと思い、CDを取り出すと、シュレッダーにかけた。

 ネフリータの声なんて聞きたくない。
  ネフリータが成長するところなんて見たくない。
  ネフリータがジュリオに笑ってるところに嫉妬する。
  ネフリータが悲しむのだけは死んでも阻止しなければいけない。

 ばらばらになったCDは翌日廃品回収に出した。
  狂ったCDは黒狸には必要ない。
  狂った男なんてネフリータには必要ない。
  耳に残る美しい歌声だけでいい。
  お前を愛していたという記憶だけでいい……。