彼女が自分に別れを告げた時、彼女がいくつだったのか記憶にない。記憶にあるのは、煙草を一日一箱吸うようになっていたということだ。
「煙草吸い過ぎ」
 それが彼女の口癖だった。辞めなかったのは悪いと思うが、辞められなかったというのも事実だった。
「苦悩の数だけ吸ってるのよ」
「箱に収まる苦悩ならば楽なもんだね」
 彼女、ネフリータはその頃はマせた口も叩くようになっていた。黒狸は煙草の吸口から唇を離し、少し離れたところで読み書きを覚えているネフリータに言った。
「あまり生意気な口を叩くと塞ぐよ?」
「手で?」
「唇だと思ったの? おませさん」
 黒狸の言葉にネフリータは一度だけ振り向き、舌を出す。舌を出す仕草よりは肩を竦めて「ごめんなさいね」って言ってくれる仕草のほうが好きだった。彼女はだんだん年頃の女性に近づいていた。黒狸のネフリータから、違う誰かのネフリータになる日は近いと思った。
(食っちゃおうかなあ……)
 そう考える日もあった。十歳のときからずっと面倒を見ているのだ。十二歳で輪姦の傷が癒えたばかりの頃、身体を求めることもなく部屋と住所を貸したのも自分だ。仕事もよくない仕事だが、売春以外のものをいくつか与えた。彼女がガツガツ仕事をこなせるようになってきて、自分の手を離れたあとも読み書きを教えるくらいのことはした。お世話しまくりである。してないのはシモの世話くらいだ。
 “少女”が好きというわけではなかった。もちろんネフリータだからいい、などとロマンチックなことが言えるほど彼女に溺れているわけでもなかった。
 眼の前にいる子供が、日に日に女になっていく。そうして今も「お金頂戴。なんでもやるから」なんて一丁前の口をきく。邪な思考が頭を掠めないわけがなかった。
 身体に触れば絶対にトラウマの扉を開くことになるのはわかっていたが、酒や薬でハードルを下げてしまえば、行為に慣れさせてしまえばそんなのはどうにでもなることも知っていた。
 そのままいいように改造してしまえばいいのかもしれない。自分にとっての番の魂が見つからないとて、代用品くらいにはなるだろう。代用品を愛する人生でも悪くないと思う。
 ネフリータ、可愛いネフリータ。
 お風呂に入るときはせめて背後に気をつけてください。ベッドに転がるときの腹チラもどうにかしてください。
 あなたはもう女性という年齢に差し掛かってます。もしイタズラにお兄さんのことを誘惑しているのだとしたら、あなたは痛い目に遭わされて懲りる必要がある。
 だけどそういうことを望んでいたわけじゃあなかった。黒狸は本物の番を探していたし、見つからないことに絶望しながらもいつかはと思っていた。一方ネフリータも年頃になったら、碌でも無い自分の元を離れて、彼女を本気で愛してくれる男の元に嫁ぐだろうとも思っていた。

  別れは案外早くやってきたもんだなと思った。いつものようにタダ飯をたかりにきたその少女は、「好きな人が出来たから、もうここには来ない」と言った。そいつが誰かは別に興味がなかったが、「そいつはお前のことを幸せにしてくれるのか?」とだけ聞いた。「わからない」彼女はそう言って笑った。その笑顔がもう一丁前の大人の女の顔だった。すべての責任をとっていけるだけ、彼女は成長してしまった。
「もし幸せになれなかったら戻ってこいよ。一人くらい面倒見れるし」
 そう言ってやりたかった。ネフリータの抱えてる苦悩、悲しみ、すべてに決着がついたら戻って来い、と。その頃にはこっちももう少し大人になっている。アンバランスかもしれないが、俺たちならうまくやっていけるよと言いたかった。だけど言わなかった。
「ネフリータの好きになった奴、俺と鉢合わせしなけりゃいいけれどもな。金を巻き上げるくらいはしちまいそうだ」
「やるなら一回だけね。破産させないでよ?」
 ネフリータは笑って軽口を叩いた。なんとなく、彼女は幸せになりそうな気がした。彼女さえ道を誤らなければ幸せな人生を歩んでいきそうな気がした。
「黒狸はおめでとうって言えない人だね」
 彼女が口を尖らせてそう言ったので、肩を抱いて低い声で「地獄に堕ちな」と言って笑った。
「俺を振った奴は地獄に落ちればいいんだよ」
 軽い気持ちだった。軽い気持ちでおめでとうのキスを頬にした。それが原因だったのだと思う。
 彼女は顔をひきつらせて大声で絶叫した。まるで黒狸が乱暴したかのように、絶叫と拒絶を繰り返し、カーテンを引きちぎって丸まった。
 黒狸は呆然と立ち尽くして、自分には無理だと感じた。彼女の傷を癒すところか、彼女に近づくことさえ無理だと感じた。もうお手上げだと思った。
 可愛いネフリータ、可愛いリータ。お別れだよ、もう君は小さなリータじゃあない。
「悪かった」
 カーテンにぐるぐる巻かれてうずくまってるネフリータの頭をそっと撫でた。
「ネフリータ、幸せになれよ」
 かけられる言葉はそれだけだった。腫れ物に触れるように、おそるおそるかけた言葉だった。もう距離をとってしまった。もうこれ以上近づくことはできなかった。
 彼女は震えながらこくこく頷き、涙を浮かべていた。その目を親指の腹で拭ってやろうとしたら、拒絶するように顔を背けられた。
「ごめんなさい……」
 ごめんと言いたいのはこっちだ、リータ。ごめんなさいはこっちの台詞だ、小さなリータ。大きなネッフィー。
 ネフリータは立ち上がると、振り向かずに鞄を持って玄関の扉を開け放った。
 バタン――と大きな音がして扉が閉まるまで、何もすることができなかった。
「戻ってくんな、クソアマ! お前が幸せになれるわけがない。幸せになれるわけがねえよ!」
 思わず怒鳴った本音。信じたくないけれども、きっと幸せになるのは難しいことは知っていた。
 そんな傷だらけの心でどこへ行くっていうんだ。お前の好きな男は傷ごと受け止めてくれるような奴なんだろうな?
 ぐるぐるする思考の中で黒狸は箱から煙草を取り出す。最後の一本だった。
 ケースに力をこめて潰して、ゴミ箱に放り込んだのを記憶している。
 苦悩の数だけ煙草の数が増えていった。あの日、一日で吸った煙草は丁度一箱だった。

(了)